5-13:廃 墟《補助員と問われる覚悟》
(〈希〉さんが来てからだ)
変化のきっかけをさかのぼっていくと、夕景を背に微笑む少女がまぶたに浮かんだ。彼女との出会いをきっかに生活にも彼自身の心の中にも今までになかった出来事が少しずつ起き始めているような気がした。
「――――」
考え事は手の中の振動によって遮られた。画面には〈補助員〉「若竹信司」の文字。
受付からの視線を浴びながら外に出て、通話ボタンを押した。
「もしもし」
スマホの向こうから低く厚みのある声が聞こえてくる。
『もしもし。犬を飼いたいそうだな』
「はい。犬の引き取り手を探してる人がいまして――」
怪我してる野良犬を見つけたとはちょっと言いにくかった。嘘をついているわけでもないし、あながち間違ってもいないはずだ。
そう思って言葉を濁すと、
『なるほど。〈罪人〉は飼う気があるのか』
不意打ちに覚悟を問われた。
「え」
『ちゃんと世話するつもりなのか』
「それは、もちろんです」
彼は答えた。答えはしたけれど、受話器の向こうから問われているのはまた別のことなんじゃないかという疑問が直後に湧いた。
問われているのは義務感や責任感ではない。その子犬に対する愛情や熱意と言えばいいだろうか。金や他人の手を借りることで補うことのできないもの。根本的で、犬との関わりにおいて最も重要なもの。それを問われている気がした。
彼は自らを省みた。
自分にそこまでの意思があっただろうか。感情に流されて答えはしなかっただろうか。やるだけやってあとは人にあっさり丸投げできるような浅はかな考えや思いで、この子犬を飼うつもりといってしまったのではなかろうか。
『それならなんとかできる』
相変わらず淡々とそして簡潔に話しが進んでいく。
彼はつい横道にそれがちな考えをひとまず脇に置いて、話についていこうとする。
「なんとかできるって、先生や大河はまだなんて言うか分からないじゃないですか」
『先生の方なら簡単だ。子どもたちに共通の役割を持たせることによって、とか犬とのふれ合いを通して、とかネタになりそうなことを言えばいい』
ネタ、というのは〈専門家〉が大学の講義の教科書として生徒に無理矢理購入させている自身の著書に書くためのネタのことだろう。
確かに〈専門家〉の飛びつきそうな話だと彼も苦笑した。
あんまりいい気分の本ではないが、あれも何かの形で誰かの役に立ってるんだろうと思うほかない。もしかしたら自分たちに支給されているお小遣いのいくらかはあの辺を財源としているのかもしれない。そういうことにしておこう。
「それもそうですね。でも、大河のほうは?」
『あっちもなんだかんだでどうにかなるだろう』
こちらは要領を得ない返事だった。
対〈専門家〉ほどの明確な作戦はないらしい。それとも、必要ないという判断なのだろうか。確かに、干渉されることを極端に嫌悪する不良が、自分から犬を飼うの飼わないのという会議に首を突っ込んでくるようにも思いにくい。
彼は思いがけず状況が自分の願ったほうに傾いたので嬉しい驚きを覚えた。同時に、生命を預かる責任が現実を帯び始めていることにの緊張も抱いた。
『エサ代やらの雑費もこっちでなんとかしよう。最初は大変かも知れないが、ちゃんと面倒みるんだろ?』
改めて問われる。
そのとき、彼の頭には不吉な過去の亡霊が浮かび上がった。
――生後間もない自分をコインロッカーに置き去りにしたとかいう、顔も名前も知らない人間のことだ。
「・・・できることはすべてします」
答える声に虚勢が含まれている自覚があった。
声に出してみた後に、「どんなことがあっても」「なんでも」と言えないだけの逃げ腰が言葉にもあらわれていると気づいてはっとした。
亡霊の冷たい指先が背筋に触れた。ぞわっと寒気がして鳥肌が立った。
自分にもあの無責任な血が流れているのだ。不安が心臓に焼き付いて恐ろしくなった。引き返すなら今のうちだという囁きが無意識の底から聞こえてきそうだった。
過去から伸びる薄暗い影を、彼はまた別の過去の光によって振り払おうとした。
(そんなことが何だと言うんだ)
自分には歴とした育ての親があり、あの両親によって妹と共に育てられたのだ。
しかし、それでもすべての闇が消えたわけではない。今度はその両親と離ればなれになって暮らしている現実と、それに絡みつく己の罪がここでもまた鎌首をもたげて、前に進もうとする彼の足下を脅かした。
彼は焦りに急かされた。取り繕うように「やれることはなんでもやります」と言い直そうとする。しかし、それを遮るように
『それだけ聞けたら十分だ。けどあんまり1人で背負い込みすぎるなよ』
見透かしたような言葉が響いた。
『いったんホームに連れて帰ればホームの一員になる。さっきも言ったがみんなで面倒を見ることになるんだから、なにも1から10までお前ひとりでやらなくてもいい』
「・・・・・・」
返す言葉が見つからなかった。〈補助員〉は続けて言う。
『補助員として俺ももちろん手助けする。それに、まだ飼うと決まったわけでもない。
飼うと決まった後で、その犬はお前のタイミングで連れてくればいい』
その労りが、傷だらけの心に滲みた。いくらかの冷静さを取り戻した彼は、もう少し視野を広くもったほうがいいかもしれないとようやく気づいた。
彼は今ごろホームで代わる代わる〈わんぱく〉の相手をしているだろう2人を思い浮かべて、一番口の堅い、そして頼りがいのある2人に相談できてよかったと思った。
「ありがとう、ございます。もういっかい、改めて考えてみます」
彼はどうにかそれだけ伝えて通話を終えた。
そうなのだ。そもそもこの相談に発展したこと自体が予期せぬ出来事だった。ガラクタの山の途中で、にっちもさっちもいかなくなっているのは自分の方だ。
(我ながら、ずいぶんな見切り発車をしたもんだ)
ことは自分だけの問題ではない。
ひとつの命と、ホームでのこれからの生活にも関わっているのだ。自分になにができて、なにがしたくて、そうしてなにをすべきなのか、改めてちゃんと見つめ直す必要がある。
彼は窓の外を向いた。雨はいつ降り止むのかわかりそうもなかった。
しばらそれを眺めてから、いつまで眺めていても仕方が無いと切り上げて彼はふたたび待合室に戻っていった。




