5-14:廃 墟《雨上がりと恩返し返し》
そのあと犬を飼う上で必要なことをあれこれと調べているうち、治療がすんだ。
雨はいつの間にか降り止んでいたが、まだ空は陰鬱な感じを残していた。
「お待ちどうさま。一通りの手当は無事、滞りなく」
そういって差し出される子犬のか細い前足には包帯が巻かれてあったり人間でいうところの絆創膏のようなものが施されてあったりする。
「ありがとう。世話になった」
受け取ってみて、ああこれはブラッシングもしてくれたのだと気づく。
毛並みの汚れも衛生面の観点から綺麗にしてくれたのだろう。小綺麗に整えてもらった新しい姿は美容室に行ったあとみたいで見違えるようだった。
あるいはこれも〈イケメン〉の言うサービスとやらなんだろうか。
「〈罪人〉の言うとおり、いくつかの打撲と裂傷と、それから栄養失調の傾向と――まあとにかく処置はすませといたから。
怪我が完治するまでは走り回ったりはしないほうがいいだろうけど、ちゃんと栄養のあるもの食べて安静にしとけばすぐ治るんだと。あと、人間もそうだけど、予防接種の副作用でちょっと元気が出なかったり熱が出たりすると思う。あんまりひどいようだったらまたうちに連れてきてくれ」
命が危ないかもしれないと慌てふためいていたので、実際に手当を受けて無事な子犬の様子を見ると彼の気持ちも晴れやかになった。
「ありがとう」
ほっとして明るい光が差し込んできたような気分なのも手伝って、〈イケメン〉が慈悲深い人のように見える。それともこれが、この人物の普段見せないもうひとつの一面だろうか。そんなことを考えていると今度は何かのカードとパンフレットのようなものを渡される。
「そっちは診察券で、そっちが領収書。それはワクチン接種の証明にもなる大事なものだから、お忘れなく。
で、そいつは一応の案内。こういう場合にはこういう治療法がありますよ、値段はこの方法だとこれくらいですよってのが書いてある。一番メジャーな症状しか取り扱ってないんだけど」
聞くところによると最近の医者は大変なもので、なんでもかんでもちゃんと患者に説明する責任があるらしく、それを果たすためにこういうものを作るようになったのだとか。
もっとも、ウチじゃ犬語なんて誰も分からないから言葉が通じる人間相手に作ってるんだけど、と最後の方で〈イケメン〉は笑った。
ペットを飼ったことがない彼にとってはこの案内もありがたいものだったので素直に受け取っておく。
「これからも当病院をごひいきに」
女の子ならイチコロ、いやオーバーキルな笑顔で営業めいたことを言う。
「ああ、これからもよろしく頼む」
頷いてこっそり領収書の金額を見てみると、これがどうしてなかなか。
初診であることや怪我の治療もした挙げ句に予防接種もしたんだから、そりゃある程度は値が張るものと覚悟はしてはいた。・・・が、まあ、うん。なんとかしよう。
「まさか返そうとか思ってない?」
一瞬の迷いを気取った〈イケメン〉が疑り深い目つきで覗き込んでくる。
彼が答えに困ると、さも嫌そうに顔をしかめ首を振りながら
「おいおいよしてくれよ。そいつは野暮ってもんだぜ。人が奢るって言うときは、どーんと奢られてくれたほうが心持ちもすっきりするってものさ」
「けど――」
「なに、日頃のお礼ですよ、お礼。たまには人からもなんかもらいなよ」
好意に水を差されたとでも言いたげな顔をする。
そこまでの剣幕で詰め寄られると、彼も自分が失礼なことをしたと反省した。
「悪かった。そんならありがたく受け取るよ」
頭を下げると相手も、分かればよろしいと頷く。彼が気持を持ち直して
「改めて、ありがとう。これからもときどき世話になる」
素直に感謝を伝えると
「どうぞよろしく」
と白い歯を見せる。
本当にいつもこうなのだからすごい、と彼は改めて思った。
いつもぶれない。何かしてやったとか、借りがあるとか、そういうことに縛られないで良くも悪くも子どもみたいに自分の本心を忠実に貫いている。
そのために敵を多く作ってしまうこともある。けれども、どれだけの敵意に曝されて理不尽な目に遭わされたとしても、当の本人は幼稚にへそをまげたりしないであっけらかんと笑い飛ばしてしまうのだ。
「一ノ瀬はこの子の恩人だ」
感謝と敬意をこめてまっすぐに見つめる。すると今度は
「よせよ、照れるよ。そういうのは言われなれてないのよ、俺」
と言って、やっぱりまた笑うのだった。
「そういえばさ、名前決まった?」
「いいや、まだ」
本心は、飼うほうにかなり傾いていた。
けれども、のぼせた頭で感情的に判断を下したとなれば誰のためにもならない結果に終わるだろう。頭を冷やしてじっくり考えてみたいというのが今の気持ちだった。
「そ。決まったら教えてくれよ」
「ああ、約束する」
「じゃ、また明日の昼休みに」
「遅刻の予告犯かよ」
「いまさらって感じだけどな」
「それもそうか」
「じゃ、お大事に」
「ああ、また明日」
どこまでも自分らしく、傍若無人と言ってもいいほどのマイペースさで〈イケメン〉は去って行く。そういう我が道を行く姿勢がスターとして人を魅了する所以なのかも知れない。
歩き出していく後ろ姿を見て、自分なりの恩返しを見つけた彼が
「明日の弁当、何がいい?」
と聞くと、その後ろ姿は前を向いたまま、片手だけひらひらさせる。
「シェフのおまかせで」
あいつらしい、と彼も自然と笑みがこぼれた
「まかされた」
するとにわかに、だんだんとあたりが明るくなってくる。幕が上がるかのようだった。
子犬を胸に抱いたまま、彼ははっとして空を仰ぐ。暗く濁った分厚い雨雲を貫いて太陽の光がそっと零れてくる。その日差しは光明のように雨上がりの地上に降り注いでいる。
水たまりにきらきらと夕日が反射して、行き交う人々も空を仰いで傘をしまう。
あれだけ寒さに震えた雨も、すぎてしまえばこんなにもあっけない。そのあまりの変わりように彼は年端のいかない子どもに振り回されたときのような苦笑いをもらしそうになった。けれど、たぶん、そういうものなのだろうと思った。
彼はごちゃごちゃしたものが片付かないままでもそれらを背負いながらでも、ひとまずは自分の足で一歩を踏み出すことにしよう、と決めた。
傘の下にいるときよりも、ずっと空が広く感じられた。




