第9話 絶体絶命のひまわり
「きゃあああぁぁっ!!」
黒紫色の魔力の礫が、薄いオレンジ色の光の盾をたやすく砕いた。
ガラスが割れるような高い音とともに、防壁の破片が雨のなかに飛び散る。
吹き飛ばされた小さな体が、路地裏の古びたトタン壁に激しく叩きつけられ、そのまま泥水たまりの中へと転がり落ちた。
「う、く……っ、ごほっ、げほっ……!」
冷たい泥水を吐き出しながら、日向灯里は震える腕を必死に突っ張って、どうにか上体だけを起こした。
いつも元気に跳ねている自慢のひまわり色のツインテールは、泥水にまみれて重たく垂れ下がっている。白と暖かいオレンジ色を基調とした軽装の戦闘服も、あちこちが鋭い爪で引き裂かれ、雨に洗われた赤い血がじわりと滲んでいた。
彼女の手から弾き飛ばされた愛用の『微光短杖』が、少し離れた水たまりのなかで、からん、と寂しい音を立てて転がる。
「ケケッ、ケケケケッ! なんだァ、今のちっぽけな盾はよォ! 線香花火の間違いじゃねえのかァ!?」
路地の奥から、耳障りな笑い声が響いてきた。
薄暗い雨靄のなかに立っていたのは、大人の背丈をはるかに超える異形の怪物だった。
濡れたアスファルトを踏みしめる太い獣の脚に、鎖帷子のように硬い黒紫色の外殻。その両腕からは、鉄板すら紙切れのように引き裂く長大な骨の鉤爪が伸びており、先端からは石畳をじゅうじゅうと溶かす猛毒の雫が垂れ落ちている。
中位魔人、『裂爪のギル』。
本来なら、魔法少女協会のC級以上の戦闘員が複数人で小隊を組んであたるべき、凶悪な都市災害だった。
「はぁ、はぁ……っ、どうして、こんな路地裏に中位の魔人が……っ」
灯里は傷だらけの膝を震わせながら、自分のすぐ後ろを振り返った。
そこには、早朝の仕込みのために店を開けようとしていた商店街のパン屋のおじさんが、魔人の放った瘴気に当てられて意識を失い、シャッターの前に倒れ込んでいる。
焼きたてのパンの甘い匂いがするはずの裏口には、今、鼻をつくような腐敗臭と鉄錆の匂いが立ち込めていた。
「は、早く……誰か、逃げて……」
灯里がかすれた声で叫んでも、夜明け前の雨音にかき消されて、通りには誰の気配もない。
緊急応援要請の通信は、さっき魔人と遭遇した直後に支部へと飛ばした。
けれど、ここ第13区の古い商店街は、協会の支部からいちばん遠い端っこのエリアだ。しかも、F級の落ちこぼれである灯里からの救援要請など、当直のオペレーターにすら「どうせまた野良の低級魔獣を見間違えたんでしょう」と鼻で笑われ、後回しにされるのが常だった。
――あたしが、ここで時間を稼がなきゃ。
灯里は、泥と血で汚れた唇をぎゅっと噛みしめた。
魔法少女協会・第13支部所属、F級魔法少女。
それが、日向灯里という少女に与えられた肩書きだった。
幼いころに両親を亡くし、天涯孤独の身だった灯里にとって、魔力の適性が見出されて協会に拾われた日は、人生でいちばん嬉しい日だった。これで自分も、テレビやポスターで見た憧れのお姉様たちのように、困っている人を守れる素敵な魔法少女になれるのだと胸を躍らせたものだ。
けれど、現実は甘くなかった。
灯里の魔力出力は、第13支部で一番下だった。
周囲のエリートの同期たちが、ビルを吹き飛ばすような炎や氷の攻撃魔法を次々と習得していくなかで、灯里がどれだけ血の滲むような訓練を重ねても使えたのは、かすり傷をゆっくり癒やす微弱な治癒魔法と、暗闇をほんのり照らすだけの「微光魔法」だけ。
『日向の魔法って、戦場じゃ懐中電灯にしかならないわよね』
『F級のくせに魔法少女を名乗るなんて、協会の恥さらしよ。さっさと辞めて事務員にでもなれば?』
支部に行けば、いつもそんな冷たい言葉と嘲笑が飛んできた。
回される仕事は、高位の魔法少女たちがやりたがらない、深夜や早朝のゴミ溜めみたいな路地裏のパトロールばかり。もらえる報酬は、木造のボロアパートの家賃を払えば、あとは毎日スーパーの半額シールが貼られたお惣菜を買うので精一杯になるほどのわずかな金額だった。
それでも、灯里は自分の仕事が嫌いではなかった。
パトロールの途中で道に迷った子どもを送ってあげたときに言われる「ありがとう」の声や、雨の日にこの微光魔法で足元を照らしてあげたおばあちゃんの笑顔。そして、「灯里ちゃん、いつもご苦労様」と言って、売れ残ったメロンパンをおまけしてくれる、後ろで倒れているパン屋のおじさんの温かい手が、何よりも好きだったからだ。
「あたしなんかが、エリートのお姉様たちみたいにカッコよく戦えないのは、自分が一番よく知ってるよ……っ!」
灯里は折れそうになる両足に力を込め、倒れているおじさんの前を塞ぐようにして、ふたたび泥水の中から立ち上がった。
短杖は遠くに転がっている。もう魔力もほとんど残っていないし、全身の骨がきしんで悲鳴を上げていた。
それでも、灯里は両手を前に突き出し、自分の胸の奥にある小さな魔石から、なけなしの温かい光を絞り出した。
ぽうっ、と。
暗い雨の路地に、まるで小さな焚き火のような、淡く優しいオレンジ色の光が灯る。
「けど……っ! かすり傷しか治せなくたって、豆電球みたいに小さな光しか出せなくたって! 後ろにいる人を見捨てて逃げることだけは、絶対にしたくないんだからぁっ!」
「ギャハハハッ! 泣かせるじゃねえか、F級のゴミクズがよォ!!」
魔人ギルが、下卑た嘲笑とともに大きく顎を開いた。
その巨大な鉤爪で足元のアスファルトを抉りながら、一歩、また一歩と灯里との距離を詰めてくる。
「さっきからちょこまかと逃げ回りやがって、いい加減うっとうしいんだよ! そんなにその人間と一緒に死にてえなら、望み通りにしてやるぜ! 骨のひとかけらも残さず、この路地裏ごと黒い灰にしてやるよォッ!」
ギルの大きく裂けた口の奥で、周囲の雨粒すら蒸発させるような、禍々しい黒紫色の魔力が渦を巻いて膨れ上がっていく。
ギイィィン、と耳の奥が痛くなるような高い魔力の圧縮音が鳴り響いた。
魔人の口元に集まった黒炎の魔力球は、灯里が必死に張っているオレンジ色の小さな防壁など、息を吹きかけるように消し飛ばしてしまうほどの圧倒的な質量を持っていた。
直撃すれば、灯里の体は一瞬で炭になる。
けれど、ここで自分が横に飛んで避ければ、後ろで気を失っているパン屋のおじさんが、建物ごと跡形もなく吹き飛ばされてしまう。
――あぁ、ごめんなさい、おじさん。
灯里の琥珀色の瞳に、熱い涙が浮かんだ。
もっと自分に力があれば。もっと強い魔法少女になれていたら、こんなところで負けないで、おじさんのことも守ってあげられたのに。
それでも、一歩だって横へ退くつもりはなかった。
灯里はせめて少しでも衝撃を和らげようと、小さなオレンジ色の盾の後ろで傷だらけの両腕を交差させ、ぎゅっと目を閉じた。
「死ねやァッ、落ちこぼれがァッ――!!」
魔人ギルの咆哮とともに、路地裏の闇を焼き尽くす黒炎の魔砲が放たれた。
ゴォォォォッ!
アスファルトを削り取り、両側の雑居ビルの壁をドロドロに溶かしながら、黒紫色の巨大な光の奔流が灯里をめがけて一直線に突き進む。
熱い、と灯里は思った。
閉じたまぶたの裏側が、魔砲の放つ不吉な光で真っ赤に染まり、前髪が熱風でチリチリと焦げる匂いがした。
もうだめだ。
そう覚悟して、灯里が奥歯を噛みしめた――そのときだった。
ぺた。
荒れ狂う暴風と轟音のすぐ手前で、場違いなほど静かな、裸足の足音がひとつ鳴った。
「……え?」
灯里は、思わず目を開けた。
爆発の衝撃が、来ない。
自分を焼き尽くすはずだった灼熱の風も、骨を砕くような魔力の圧も、いつまで経っても届かなかったのだ。
それどころか、耳を劈くほど響き渡っていた魔砲の轟音が、まるでテレビの電源をぶつりと切ったみたいに、唐突に消え失せていた。
目の前に広がっていたのは、信じられない光景だった。
自分と、魔人ギルのあいだ。
さっきまで誰もいなかったはずの冷たい水たまりの真ん中に、小さな後ろ姿がぽつんと立っていた。
腰を通り越して、くるぶしのあたりまで届くほど長い、月の光を集めたような白銀の髪。
まだ幼さの残る華奢な体には、黒地に白いレースを幾重にも重ねたゴシック調のドレスが纏われている。靴も履いていない真っ白な裸足が、汚れた水たまりのなかにちょこんと立っていた。
誰かを守るために空から颯爽と飛び込んできた――という感じではなかった。
その小さな少女は、ただ横の細い路地からふらりと歩いてきて、灯里のすぐ目の前を通りかかったところで、たまたま足を止めただけのように見えた。




