第10話 通りすがりの死神
「な……っ、なに、あれ……?」
灯里は、自分が傷ついていることも忘れて呆然と呟いた。
魔人ギルが放った必殺の黒炎魔砲は、たしかにその白銀の少女の細い背中へと、まともに直撃していたはずだった。
だが。
建物すら跡形もなく消し飛ばすはずの黒紫色の光の奔流は、少女の背中で揺れる銀髪と、黒いドレスのレースに触れた瞬間――火花ひとつ散らすことなく、煙すら上げることなく、まるで最初からそこには何の魔法もなかったかのように「死んで」消え去っていたのだ。
防いだのではない。弾き返したのでもない。
ただ、少女という存在に触れた端から、魔人の必殺の一撃そのものが、音もなく命を絶たれて無に帰していた。
「……は?」
間の抜けた声を漏らしたのは、魔人ギルの方だった。
ギルは黒煙の消えた自分の口元と、何事もなかったかのように水たまりのなかに立っている小さな少女とを、信じられないものを見る目で交互に見た。
「な、なんだァ……? 不発か? いや、俺様の『黒炎魔砲』は、たしかにあのガキの背中に当たったはずだぞ……!?」
ギルが鼻をひくつかせて少女を睨みつける。
もしやS級やA級の魔法少女が駆けつけてきたのかと身構えたが、どれほど目を凝らしても、その小さな少女からは魔法少女特有の清らかな魔力も、威圧感も、カケラほども感じ取れなかった。
それどころか、生き物が当然持っているはずの魔力の揺らぎすらまったくない。どこからどう見ても、ただの通りすがりの無力な人間の幼女にしか見えなかった。
ただひとつ異様だったのは、静まり返った路地のなかで、少女の襟元や袖口の白いレースが、ぱきり、しゃりしゃり、と微かな音を立てて崩れては編み直されていることだけだ。
少女自身は、自分の背中に恐ろしい魔法が当たったことすら気づいていないようだった。
ただ、「なんだか後ろがちょっとだけ眩しかったな」くらいの顔をして、地面にへたり込んでいる灯里のすぐ前に立ち、灯里の指先でまだ小さく揺れていた「オレンジ色の微光」を、ガラス玉のように澄んだ赤い瞳でじっと見つめていた。
「……あたたかい色」
少女が、ぽつりと呟いた。
暗い雨のなかで、そこだけが小さなひまわりみたいに明るくて、少女はなんだか少しだけ嬉しい気持ちになったのだ。
その声を聞いて、灯里はハッと我に返った。
「あ、あぶないっ! そこをどいて、女の子! そいつは危ない魔人なの、早く逃げてぇっ!」
灯里は血の気を失った顔で必死に叫んだ。
どうして魔砲が消えたのかはわからない。きっと、たまたま魔人の魔法が暴発して途中で霧散する奇跡が起きただけだ。こんな裸足の小さな子どもが、あんな凶悪な魔人の前に無防備に立っていたら、今度こそ引き裂かれて殺されてしまう。
灯里が痛む体を引きずって、少女の足元へ手を伸ばそうとした、その瞬間だった。
「――邪魔をするなァッ、どこの馬の骨とも知れねえガキがぁっ!」
プライドを傷つけられた魔人ギルが、怒りに目を血走らせて咆哮した。
なぜ自分の魔砲が消えたのかなど、考えるのも腹立たしかった。どうせ協会の連中が作った、一度だけ魔法を無効化する使い捨ての魔導具でも持っていたのだろう。
だが、どれほど小賢しい道具を持っていようと、この自慢の腕力と鉤爪で直接頭蓋骨を握り潰してしまえば、こんな華奢な人間の小娘など紙細工のように潰れるはずだ。
「あの落ちこぼれの前に立ち塞がって助けたつもりかァ!? 調子に乗るんじゃねえぞ、その金髪のゴミと一緒にミンチにしてやるよォッ!」
ギルが泥水を蹴散らし、地響きを立てて跳躍した。
巨体に似合わぬ猛スピードで少女の目の前へと迫り、猛毒の雫を撒き散らす巨大な右腕の鉤爪を、少女の小さな頭頂部めがけて、思いきり振り下ろした。
「いやあああぁぁっ!」
灯里の悲鳴が路地に木霊する。
間に合わない。少女は灯里の方を向いたまま、迫りくる巨大な鉤爪から逃げる素振りすら見せていなかった。
ただ、後ろから自分の頭の上に落ちてくる大きな影と、うるさい怒鳴り声に気づいて、ふわりと白銀の髪を揺らし、不思議そうに顔を上げて振り向いただけだ。
「……うるさいな」
少女は小さく眉をひそめ、自分の顔の前へと迫ってきた黒紫色の大きな爪に向かって、白い小さな右手をほんの少しだけ持ち上げた。
次の瞬間。
魔人ギルの巨大な骨の鉤爪が、少女の頭頂部の銀髪と、彼女が持ち上げた白い指先に、ぴたりと触れた。
――とん。
雨音のなかで、何かが決定的に断ち切られる音がした。
それは、魔人ギルという生き物が持っていたすべての「命」と「魔力」、そして振り下ろされた暴力の勢いそのものが、少女の指先に触れたその一点から、底なしの『死』へと呑み込まれた音だった。
「……ガ……ッ!?」
魔人ギルの狂暴な咆哮が、喉の途中でひゅうっと途切れた。
振り下ろされた巨大な鉤爪が、少女の銀髪を1本たりとも傷つけることなく、まるで何千年も風雨に晒された古い石像のように、先端からボロボロと灰黒色の砂になって崩れ落ち始める。
爪の先に塗られていた猛毒も、外殻を強化していた呪いの魔力も、少女の肌に触れた瞬間にすべて「死に絶えて」いた。
「な、なんだ、これ……!? 俺様の、腕が……魔力が、死んでいく……っ!?」
ギルが血走った目を見開き、恐怖に顔を歪めて慌てて腕を引こうとした。
けれど、もう遅すぎた。
少女の白い肌に自ら触れてしまった瞬間、その『死』からはどんな生き物も逃れることはできない。
砕け散った爪から手首へ、手首から丸太のような腕へ、そして分厚い胸の外殻の奥で脈打っていた魔人の核『コア』へと、灰色の風化が稲妻のような速さで駆け上がっていく。
「ひ、ひぃっ……や、やめろ、俺様は『裂爪の』――」
断末魔の悲鳴すら、最後まで形にはならなかった。
燃え盛っていた凶暴な魔力も、人間を嬲り殺そうとしていた残忍な意識も、すべてが冷たい冬の夜風に吹き消されるロウソクの火のように、ぷつり、と消えた。
ざぁぁぁっ……。
次の瞬間には、路地裏を威圧していた巨大な魔人の姿は、どこにもなくなっていた。
骨のひとかけらも、血のひとしずくも残らない。
ただ、大量の灰黒色の細かい砂が、少女の目の前でざあっと雨のなかに降り注ぎ、汚れた水たまりに溶けて流れていっただけだった。
「………」
路地裏に、ぽつり、ぽつりと降る雨の音だけが戻ってきた。
地面に座り込んでいた日向灯里は、目をまん丸に見開いたまま、口をぱくぱくとさせて固まっていた。
消えた。
自分の盾を紙切れみたいに砕いて、C級の魔法少女でも苦戦するはずの恐ろしい中位魔人が。
目の前の小さな女の子に、ほんのちょっと爪の先が触れただけで――まるで最初から砂で作られた人形だったみたいに、さらさらと崩れて消えてしまった。
「……なんだったんだろう、あれ」
白銀の少女は、自分の目の前で砂になって消えた大きな影の跡を見下ろして、小さく首をかしげた。
黒いドレスの裾に、すこしだけ灰がついたような気がして、小さな手でぱっぱと軽く払う。
それから少女は、また灯里の方へと向き直った。
魔人がいなくなったことで、灯里の指先に灯っていた小さなオレンジ色の光も、もう役目を終えたようにふっと消えてしまっていた。
「……あ。お日様みたいな光、消えちゃった」
少女はすこしだけ残念そうに呟いた。
でも、地面に座っている金髪の女の子も、その後ろで寝ている大人も、自分に触れなかったおかげで壊れずに済んだみたいだ。
なら、自分がここにいたら危ないから、早くどこかへ行かなければならない。
さっきの黒猫のときと同じだ。このまま近づいたら、きっとこの綺麗な金色の髪をした人も、地下室に来てくれた黒い髪のお姉さんみたいに、自分が殺してしまう。
そう思った少女は、灯里に何も言わず、くるりと小さな背中を向けた。
そして、白い裸足で水たまりを踏みしめ、来たときと同じように、ぺた、ぺた、と静かに路地の奥へと歩き出そうとした。
「……ま、待って……っ!」
その背中に、かすれているけれど、驚くほど真っ直ぐで明るい声が飛んできた。
白銀の少女が、ぴくりと足を止めて振り返る。
泥水たまりのなかで、傷だらけのツインテールの少女が、琥珀色の大きな瞳をキラキラと輝かせながら、必死にこちらへ向かって手を伸ばしていた。




