第11話 微光の中の出会い
「……ま、待って……っ!」
雨音の混じる路地裏に、懸命に張り上げられた声が響いた。
白銀の少女は、水たまりのなかでぴたりと足を止めた。
くるぶしまで垂れた長い銀髪が、振り返る動きに合わせてふわりと揺れる。ガラス玉のように澄んだ赤い瞳が、後ろの地面にへたり込んでいる金髪の少女――日向灯里を静かに映し出した。
「う、うぅ……っ、よっ、と……!」
灯里は泥水に落ちていた『微光短杖』を拾い上げると、それを杖代わりにして、震える両足でどうにか立ち上がった。
白とオレンジ色の戦闘服は泥水にまみれ、膝や腕にはいくつもの擦り傷が滲んでいる。それでも灯里は、自分の傷を気にするより先に後ろを振り返り、シャッターの前で倒れているパン屋のおじさんのもとへと駆け寄った。
しゃがみ込んでおじさんの肩にそっと手を当て、胸が規則正しく上下しているのを確かめてから、ほっと大きく息を吐き出す。
「よかったぁ……おじさん、瘴気に当てられて気絶してるだけだ」
灯里は手のひらに淡いオレンジ色の治癒光を灯し、おじさんが冷たい地面で風邪を引かないよう、簡易的な保温の魔力をそっと掛けてあげた。
攻撃魔法はからっきしの灯里だったけれど、こういう小さな手当てだけは、誰よりも丁寧で優しかった。
それから灯里は立ち上がり、くるりと向き直ると、まだ少しふらつく足取りで白銀の少女の方へと歩み寄ってきた。
びしょ濡れのツインテールが揺れ、その顔には、さっきまで死の淵にいた人間とは思えないほど明るく、ひまわりのような笑顔が咲いている。
「あのっ、行っちゃう前に、どうしてもお礼が言いたくて!」
灯里は少女から少し離れたところで足を止め、ぺこり、と勢いよく頭を下げた。
「ありがとう! あたしと、あのおじさんの命を助けてくれて! あなたが通りかかってくれなかったら、今ごろあたしたち、あの魔人に丸焦げにされてたよ!」
白銀の少女は、目をぱちくりとさせて、頭を下げている灯里を見つめた。
「……お礼?」
「うんっ! だって、あんなに凶悪な中位魔人を、あんなふうに一瞬で消し飛ばしちゃうなんて、本当にすごかったもん!」
灯里は顔を上げると、琥珀色の大きな瞳をキラキラと輝かせて、少女の姿をまじまじと見つめた。
近くで見れば見るほど、不思議で、綺麗な女の子だった。
背丈は灯里の胸元くらいしかなく、まるでショーウィンドウに飾られた精巧なビスクドールみたいに真っ白な肌をしている。着ている黒地に白いレースのゴシック調のドレスは、どこの支部の制服とも似ていないけれど、きっと高位の魔法少女だけが身につけることを許される特注の魔導衣なのだろう、と灯里は勝手に納得した。
なにより驚いたのは、これほど近くにいるのに、少女から魔力の気配がまったく感じられないことだ。
第13支部の先輩たちが噂しているのを聞いたことがある。
本部に所属するS級や特A級といった雲の上の達人になると、普段は自分の魔力を完全に隠蔽し、杖も使わず、指先ひとつで魔人を塵に変えてしまうのだと。
「あんなすごい魔法、あたし初めて見たよ! 詠唱もしないで、あんな大技をパッと消しちゃうなんて……あなたも、魔法少女協会の人だよね? もしかして、本部から極秘任務で来たS級とかA級のすごい先輩だったりするの!?」
無邪気にまくし立てる灯里の言葉を、少女は半分も理解できていなかった。
先輩というのもわからないし、自分が誰かを助けたという実感もない。
少女はただ、暗い路地の奥で揺れていた「あたたかいオレンジ色の光」を見に来ただけだった。そうしたら、後ろから変な黒い光が飛んできて、大きな怪物が勝手に自分の指先にぶつかってきて、勝手に砂になって消えてしまっただけなのだ。
けれど。
目の前でニコニコと笑っているこの金髪の女の子が、自分に対してこれっぽっちも敵意を持っていないことだけは、少女にもはっきりとわかった。
あの白い部屋のなかにいた大人たちは、みんな少女を見て怯えるか、怒鳴るか、武器を向けてくるかのどれかだった。
外の世界に出てきてからも、すれ違う人たちはみんな目を逸らして通り過ぎていったし、声をかけてきた2人の男は濁った目をしていた。
それなのに、この女の子は、まるでずっと前から知り合いだったみたいに、あたたかい声で「ありがとう」と言って笑っている。
地下室に来てくれた、あの黒い髪のお姉さん――神代凛華と、同じだ。
あの人も、こんなふうに優しい顔をして、「怖くなんてないわ」と笑ってくれた。
そして、少女の髪に指先が触れた途端に、冷たい塊になって倒れてしまったのだ。
「……だめ」
少女は、小さく首を横に振った。
灯里がもう一歩、近づこうとしたのを見て、少女の方が白い裸足で一歩、後ろへと下がった。
水たまりが、ぴちゃり、と小さく跳ねる。
「え……?」
「……近づかないで」
少女の声は、雨音に消えてしまいそうなほど小さく、けれど必死な響きを帯びていた。
「わたしに触ったら、死んじゃうから。……あなたも、あのお姉さんたちみたいに、動かなくなっちゃうから」
少女は自分の小さな両手を胸の前に引き寄せ、黒いドレスのレースをぎゅっと握りしめた。
この金髪の女の子には、死んでほしくないと思った。
さっきの小さな黒猫と同じだ。ううん、それ以上に、この子の指先から出ていたあたたかいオレンジ色の光も、今こうして自分に向けられているひまわりみたいな笑顔も、自分のせいで灰にしてしまうのだけは嫌だった。
「もう、あの大きいのはいなくなったから。……わたし、行くね」
少女はそう言って、もう一度背を向けようとした。
自分がここからいなくなれば、この子は壊れないで済む。自分は誰にも触れられないまま、ずっとそうやって、ひとりぼっちで歩いていくしかないのだ。
だが。
「――ぷっ。あはははっ!」
背後から聞こえてきたのは、怖がる声でも、悲鳴でもなく、鈴を転がしたように明るい笑い声だった。
少女が驚いて振り返ると、灯里がおかしそうに目尻を下げて笑っていた。
「……どうして、笑うの?」
「ごめんごめんっ! だって、そんなにかわいい顔をして『死んじゃうから近づかないで』なんて、まるで童話に出てくる照れ屋な魔法使いみたいなんだもん!」
灯里は「えへへ」と泥のついた頬を掻きながら、少女の赤い瞳を真っ直ぐに見つめた。
もちろん、灯里とて、さっきの魔人の異常な消え方を見ていなかったわけではない。
普通の魔法ではない、何かとてつもなく強大で、少しだけおそろしい力がこの小さな女の子のなかに眠っているのだろうということは、本能的にわかっていた。もしかしたら、自分の力が強すぎて、周りにいる人を傷つけてしまうのではないかと怖がっているのかもしれない。
けれど、灯里の目には、別のものもはっきりと見えていた。
雨の降る冷たい路地裏で、靴も履かずに立っている、真っ白な小さな裸足。
そして、「近づかないで」と言いながら、まるで迷子になった小さな子どもみたいに心細そうに揺れている、ガラス玉のような赤い瞳。
――ああ、この子は、ひとりぼっちなんだ。
幼いころに施設を転々とし、天涯孤独で育った灯里には、その瞳の奥にある「寂しさ」の色が、痛いほどよくわかった。
どんなにすごい力を持っていても、こんなに小さな女の子が、冷たい雨のなかでひとりきりなんて、そんなの絶対に寂しいに決まっている。
「あたしね、頭あんまり良くないし、協会でも一番下のF級の落ちこぼれだけどさ」
灯里は、傷だらけの膝の痛みを我慢して、少女の前へと真っ直ぐに歩み寄った。
「でも、誰が悪い人で、誰が優しい人かくらいは、ちゃんとわかるよ!」
「……っ、だめ、来ないで……!」
少女が慌てて後ろへ下がろうとした。
「もしあなたが本当に怖い怪物だったり、悪い人だったりしたら、あたしが死にそうになってたとき、わざわざ前に立ってあの魔砲を受け止めてくれたりしないもん!」
灯里は少女のすぐ目の前まで来ると、背の低い少女と目線を合わせるように、少しだけ膝を曲げた。




