第12話 死なない温もり
「命の恩人さんが、あたしを殺したりするわけないじゃない! だから、あたしはぜんぜん怖くないよ!」
そう言って、灯里はひまわりの花が一気に開くような、とびきりの笑顔を見せた。
「あたしの名前は、日向灯里! ねえ、よかったら、あたしと友達になって!」
そして。
少女が「だめ!」と叫んで手を引っ込めるよりも早く。
感謝と親愛の気持ちでいっぱいになった灯里が、ぐっと前に身を乗り出し、胸の前で丸められていた少女の小さな両手を、自分の両手でぎゅっと包み込むように握りしめた。
「――っ!?」
その瞬間、白銀の少女の全身が、雷に撃たれたように硬直した。
ガラス玉のような赤い瞳が、限界まで大きく見開かれる。
少女の頭の中は、真っ白なパニックに塗り潰されていた。
――触られた。
――素手で、触れちゃった。
あたたかい指が、自分の冷たい指にしっかりと絡まっている。
だめだ。死んでしまう。
地下室でわたしの頭を撫でようとした黒い髪のお姉さんも、廊下でわたしが指先で触れた研究員の男の子も、さっき手首を掴んできた2人の男も、みんな肌が触れた瞬間に、息が止まって倒れてしまった。
道端に咲いていた白いお花だって、空から降ってきた雨粒だって、1秒も生きていられなかったのに。
この子も、死んでしまう。
せっかく「怖くないよ」って笑ってくれたのに。せっかく「友達になって」って言ってくれたのに。この呪われた手が、このひまわりみたいな女の子を、今ここで殺してしまう――!
少女は息を呑み、今にも糸が切れたように倒れ込むであろう灯里の顔を、恐怖に震えながら見上げた。
少女の手首を覆う『葬白の繭』の白いレースが、ぱきり、しゃりしゃり、と激しく音を立ててひび割れる。彼女の肌から絶えず溢れ出している絶対の『死の能力』が、握りしめられた灯里の両手へと、容赦なく流れ込んでいったはずだった。
一拍。
二拍。
三拍。
雨粒がトタン屋根を叩く音が、やけに遠くで聞こえている。
……おかしい。
少女は、大きく目を見開いたまま、固まっていた。
倒れない。
目の前にいる金髪の女の子は、目を剥いて倒れ込むどころか、すぐ目の前で不思議そうに小首をかしげて、ぱちぱちと琥珀色の瞳を瞬かせている。
それだけではない。
ぱきり、しゃりしゃり、と絶え間なく鳴り続けていた『葬白の繭』の袖口の音が、灯里の手のひらが触れている場所から、すうっと嘘みたいに静まり返っていた。
まるで、少女の肌から滲み出る冷たい『死』が、灯里の手のひらから流れ込んでくる「何か」に包み込まれて、春の陽だまりに溶ける雪のように眠りについてしまったかのようだった。
そして、何よりも。
「……あ……」
少女の小さな唇から、震える吐息が漏れた。
自分の両手を包み込んでいる、灯里の手のひら。
少しだけ杖ダコがあって、泥と擦り傷で汚れているその手から、今まで少女が生きてきたなかで一度も知らなかった「感覚」が、じんわりと伝わってきていたのだ。
冷たくない。
硬くもない。
灰になって崩れたりもしない。
トクン、トクン、と規則正しく脈打つ、生きている人間の命の鼓動。
そして、まるで小さな焚き火に手をかざしたときみたいに、指先から手首へ、手首から胸の奥の冷たい空洞へと、じわじわと染み込んでくる、ほんとうに柔らかくて、心地よい「熱」。
少女は、呆然としたまま視線を落とし、灯里の手に包まれた自分の小さな手を見つめた。
「……こ、壊れてない……?」
かすれた声が、ぽつりと落ちた。
どうしてなのかは、少女自身にも、そして握っている灯里自身にも、まったくわからなかった。
研究所のどんな頑丈な合金も、魔法少女が張った魔力も、凶悪な魔人の外殻すらも、少女の肌に1秒だって耐えることはできなかったのに。
目の前にいる、自分で「一番下のF級」と言っていたこの少女の素手だけが、何事もなかったかのように、少女の『死』をそのまま受け止めている。
「えっ? 壊れてないって……あ、いたた、まあちょっと脇腹とか膝とかは痛いけど、これくらいのかすり傷じゃ死なないよぉ!」
灯里は自分の怪我のことを心配されたのだと思って、照れくさそうに笑った。
しかし、少女がいつまでも無言のまま、握られた手をじーっと見つめて小刻みに震えているのに気づくと、灯里はハッとしたように顔色を変えた。
自分の手を見る。
さっき泥水たまりに転んだせいで、灯里の手のひらには泥や擦り傷の血がこびりついていた。それを拭いもせずに、こんなお人形さんみたいに綺麗で真っ白な女の子の手を、いきなり両手でぎゅっと握ってしまったのだ。
「あっ……ご、ごめんねっ!」
灯里は耳まで真っ赤になって慌てふためいた。
「あたしの手、泥で真っ黒に汚れてたのに、うれしくて勝手にギュッて握っちゃって……! そりゃ嫌だよね、こんな汚い手でいきなり触られたらびっくりするよね、ごめんなさいっ!」
灯里は申し訳なさそうに眉を下げて、握っていた両手の力を抜き、そっと自分の手を引っ込めようとした。
あたたかい手のひらが、少女の指先から離れかける。
そこにまた、あの白い部屋と同じ、冷たい外気の感触が戻ってこようとした――その刹那だった。
ぎゅっ。
「……え?」
灯里の手が、止まった。
手を引っ込めようとした灯里の指先を、白銀の少女の小さな両手が、思いがけないほどの力で、必死に掴み返していたのだ。
さっきまで無表情で、人形のように静かだった少女の顔が、今にも泣き出しそうなほど必死な色に染まっていた。
まるで、暗い海の真ん中でたったひとつの流木を見つけた小さな子どもが、それを失ったら二度と息ができなくなるとでも言うように、少女は灯里の指に自分の小さな指をぎゅっと絡ませていた。
「……離さないで」
消え入りそうなほど細くて、けれど、心の底から絞り出された声だった。
少女はうつむいたまま、自分の両手のなかにある灯里の手のひらに、自分の白い頬をそっと擦り寄せた。
生まれてからずっと、白い部屋のなかでひとりぼっちだった。
スプーンも、お皿も、壁も、お花も、あの優しいお姉さんも、自分が触れればぜんぶ壊れて死んでしまった。この広い世界のどこにも、自分が触れていいものなんて、ひとつもないと思っていたのに。
ここにある。
自分がどれだけ強く握っても、どれだけ肌を押しつけても、壊れないで、死なないで、ただ優しい熱を分けてくれる手が、ここにあったのだ。
「……あたたかい」
少女は、灯里の手のひらに頬を預けたまま、赤い瞳をうるうると揺らして灯里を見上げた。
「あなたの、手……すごく、あたたかい。……壊れない。死なない」
大きな赤い瞳が、生まれて初めて知った人間の体温に戸惑うように、細かく揺れている。
「汚れ、てなんかない……だから、お願い。……手を、離さないで」
その言葉を聞いた瞬間、灯里の胸の奥が、きゅっと音を立てて熱くなった。
どうしてこの子が、ただ手を握られただけのことで、こんなにも必死な顔をして「離さないで」と縋りついてくるのか。
その理由はやっぱりわからなかったけれど――さっき自分が感じた通り、この小さな女の子が、これまで誰の手の温もりも知らないまま、ずっと冷たい場所でひとりぼっちでいたのだということだけは、痛いほど伝わってきた。
「……うんっ!」
灯里は、引っ込めかけていた自分の手に、もう一度ぎゅっと力を込めた。
今度は遠慮なんかしないで、少女の冷え切った小さな両手と、その白い頬ごと包み込むように、ありったけの温もりを込めて握りしめる。
「離さないよ! あなたが『もういいよ』って言うまで、あたし、ぜったいにこの手を離さないからね!」
灯里がそう言って笑うと、ちょうどそのとき、路地裏の頭上を覆っていた分厚い灰色の雨雲の隙間から、夜明けの最初の光がひとすじ、斜めに差し込んできた。
冷たい雨が、ぴたりと止む。
濡れたアスファルトと水たまりが、差し込んできた朝日の光を受けて、きらきらと金色に輝き始めた。
白銀の少女は、生まれて初めて見る本物の「お日様」の光と、自分の手を包むひまわりみたいな少女の温もりのなかで、まるで魔法にかけられたように、ただ静かに目を細めていた。




