第13話 消えないもの
朝日の差し込む路地裏で、日向灯里は自分の手をぎゅっと握りしめている小さな女の子を見下ろして、少しだけ困ったように笑った。
あれからしばらく経ち、シャッターの前で倒れていたパン屋のおじさんが「ううん……」と呻き声を上げて目を覚ましたので、灯里は慌てて変身を解き、いつも着ている少しヨレたパーカー姿に戻っておじさんを介抱した。
おじさんは魔人の姿を見る前に後ろから瘴気で気絶させられたらしく、「いやあ、貧血で倒れちまったみたいだ。灯里ちゃんが通りかかってくれて助かったよ!」と豪快に笑って、お礼に焼きたてのロールパンが詰まった紙袋を持たせてくれたのだ。
そのあいだもずっと、白銀の少女は灯里のパーカーの裾や指先を片手でしっかりと掴んだまま、一歩も離れようとしなかった。
「えっと……おじさんも無事だったし、パトロールもこれで終わりなんだけど」
商店街の大通りに出たところで、灯里は立ち止まり、自分の左手を両手で大事そうに抱え込んでいる少女に声をかけた。
朝の光の下で見ると、少女の白銀の髪はほんとうに透き通るようで、黒いゴシック調のドレスと相まって、まるで絵本の中から抜け出してきたお姫様のように見えた。
ただ、その足元だけは、やっぱり靴も靴下も履いていない真っ白な裸足のままだった。
「ねえ、あなたのお家はどこ? さっきは本部のすごい先輩かと思ったけど……もしかして、迷子になっちゃったの?」
少女は、灯里の手の甲に自分の白い頬をぴたりとくっつけたまま、ガラス玉のような赤い瞳で灯里を見上げた。
「……お家?」
「うん。あなたが帰る場所だよ。お父さんとか、お母さんとか、あるいは協会の寮とか……」
灯里が優しく尋ねると、少女はしばらく考えるように瞬きをしたあと、ゆるゆると首を横に振った。
「……ないよ」
「ないって……じゃあ、昨日の夜まではどこにいたの?」
「暗いところ。白い壁の、小さな箱のなか」
少女は、他人事のように静かな声で言った。
「でも、そこはもう、ぜんぶ砂になって壊れちゃったから。……帰る場所なんて、どこにもない」
「えっ……」
灯里は思わず息を呑んだ。
白い壁の小さな箱。靴も履かされていない裸足。そして、人の手の温もりに触れただけで、こんなにも必死にしがみついてくる小さな指。
灯里の脳裏に、さっき路地裏で感じた嫌な予感がふたたびよぎった。
この第13区の周辺には、魔法少女協会の目が届かない違法な魔導研究施設や、魔力の適性を持つ子どもを勝手に攫って実験台にする悪い連中が隠れ潜んでいるという噂がある。
もしかしたらこの子は、本部のエリートなんかではなくて、そういう悪い大人たちの施設に閉じ込められていたところを、自分の力が暴走して逃げ出してきたばかりなのではないだろうか。
「じゃあ、お名前は? 名前くらいはあるでしょう?」
「……名前も、ない。みんな、わたしのことは『0号』って呼んでた」
少女がぽつりと答えた瞬間、灯里の胸の奥が、ぎゅうっと痛く締めつけられた。
間違いない。
こんなにかわいくて、こんなに小さな女の子に、名前もあげないで番号で呼ぶなんて。どれほど冷たくて酷い場所に閉じ込められていたのか、想像するだけで涙が出そうになった。
「そっか……もう帰る場所、ないんだね」
灯里は、自分の手を握りしめている少女の小さな手を、反対の手でそっと撫でた。
もし今、この子を第13支部に連れていったらどうなるだろう。
あの冷たい支部長や先輩たちのことだ。きっとこの子を「危険な実験体」や「貴重な研究サンプル」扱いして、また別の冷たい部屋のなかに閉じ込めてしまうに違いない。さっきの中位魔人を一瞬で消してしまった力を見れば、なおさらだ。
――そんなの、ぜったいにだめだ。
せっかく暗い箱から出てきて、こうして自分の手を「あたたかい」と握ってくれているこの子を、また冷たい場所へ送り返すなんて、灯里にはどうしてもできなかった。
「よしっ、決めた!」
灯里は顔を上げると、朝の光を弾くような満面の笑みを浮かべた。
「帰る場所がないなら、今日からあたしのお家に一緒に帰ろう! 狭くてボロいアパートだけど、白い箱なんかよりはずっと日当たりがいいよ!」
少女は赤い瞳を丸くして、灯里の顔を見つめた。
「……一緒に、いていいの?」
「あたりまえじゃない! あたし、あなたが『もういいよ』って言うまで手を離さないって約束したでしょ?」
灯里は、パン屋のおじさんからもらった紙袋を片腕に抱え直し、少女の手をしっかりと握ったまま歩き出した。
「それにね、番号なんかじゃ呼べないから、後でちゃんとかわいい名前も考えようね! さあ、行こう!」
「……うん」
少女は小さく頷き、灯里に引かれるまま、白い裸足で朝の歩道をぺた、ぺた、と歩き始めた。
不思議だった。
さっきひとりぼっちで歩いていたときは、自分のドレスの裾が揺れるだけで、道端の街灯も自動販売機もみんなパチパチと音を立てて死んでしまったのに。
今こうして灯里と手を繋いで歩いていると、自分の体から絶えず溢れ出していたはずの『死』の気配が、まるで灯里の温かい手にぜんぶ吸い込まれて落ち着いているみたいに、周りのものを何ひとつ壊さなくなっていたのだ。
古い商店街を抜け、朝の匂いがする住宅街の細い坂道を登っていくと、やがて赤いトタン屋根の木造2階建てアパートが見えてきた。
建物の脇には小さな花壇があり、黄色いパンジーが朝日を浴びて揺れている。
『こもれび荘』と書かれた木製の看板をくぐり、灯里はギシギシと鳴る外階段を登って、2階の真ん中にある『202号室』の扉の前で足を止めた。
「ここがあたしのお家、『こもれび荘』の202号室だよ! さあ、入って入って!」
灯里がポケットから鍵を取り出すために、ほんの一瞬だけ、少女の手から自分の手を離した。
ガチャリ、と鍵を開けて扉を押し開ける。
「ただいまー……って、いつもは誰もいないから言うことないんだけどね。えへへ、足が泥だらけだから、今タオル取ってくるね!」
灯里が靴を脱いで部屋のなかへ上がりかけた、そのときだった。
手を離された少女は、玄関のたたきに立ったまま、すぐ横の下駄箱の上に置かれていた「小さなガラスのコップ」に目を留めた。
なかには水が張られ、道端で摘んできたらしい小さなシロツメクサが飾られている。
少女は、「あ、お花だ」と思った。
さっき灯里と手を繋いでいたときは何も壊れなかったから、もしかしたら、もう自分は普通にお花やコップに触れるようになったのかもしれない。
そんな淡い期待を抱いて、少女は白い人差し指を伸ばし、ガラスのコップの縁に、ちょん、と触れた。
ぱきり。
静かな玄関に、乾いた音が響いた。
少女の指先が触れた場所から、透明なガラスのコップに無数の白いひびが走り――次の瞬間には、コップも、なかの水も、飾られていたシロツメクサも、すべてがさらさらと灰黒色の砂になって、下駄箱の上へ崩れ落ちてしまったのだ。
「……あっ」
少女は、弾かれたように指を引っ込めた。
顔から、すうっと血の気が引いていくのがわかった。
治っていなかった。
さっき周りを壊さなかったのは、自分の力が消えたからじゃない。灯里があの手で、自分に触れていてくれたからだったのだ。
少女は、下駄箱の上に積もった黒い砂の山と、部屋の奥からタオルを持って戻ってきた灯里の顔を、怯えたように交互に見た。
あの研究所の大人たちも、地下室に突入してきた白い服のお姉さんたちも、自分が何かを壊して砂にした瞬間、みんな顔色を変えて怒鳴り始めた。
『化け物!』と叫んで、自分を殺そうとした。
せっかく優しい声で「お家に帰ろう」と言ってくれたのに。お部屋に入れてくれたのに、わたしはすぐにお部屋のものを壊してしまった。
きっと、灯里も怒る。
やっぱりお前なんか怪物だから、ここから出ていけって、手を離されてしまう――!
「ご、ごめんなさい……っ」
少女は小さな肩をぶるぶると震わせ、自分の両手を背中に隠すようにして、玄関の隅で小さくうずくまった。
「こ、壊すつもりじゃ、なかったの……っ。お外に、出ていくから……怒らないで……」
今にも消えてしまいそうな声で謝る少女を見て、タオルを持った灯里は、目を丸くして立ち尽くした。
下駄箱の上には、たしかにさっきまであったガラスのコップが消えて、見たことのない黒い砂の山ができている。昨日の夜、あの中位魔人が消えたあとに残った砂と、まったく同じ色だった。
――そっか。
灯里は、その黒い砂を見て、ようやくすべてが腑に落ちた。
さっき路地裏で、この子が『わたしに触ったら死んじゃうから』と言っていたのは、冗談でも照れ隠しでもなかったのだ。
この子の手は、触れたものをなんでもこんなふうに砂にして壊してしまう力を持っている。だからこそ、この子は猫にも花にも触れられず、自分の手だけが壊れなかったことに、あんなにも驚いて縋りついてきたのだ。




