第14話 ふかふかの布団
「……怒ったりなんか、しないよ」
灯里は、玄関で小さく丸まっている少女の前にしゃがみ込むと、背中に隠された少女の小さな両手を、もう一度自分の温かい手で引っ張り出して、ぎゅっと握りしめた。
「……え?」
少女が、おそるおそる顔を上げる。
灯里の顔には、恐怖も、嫌悪も、怒りも、ひとかけらも浮かんでいなかった。あるのは、さっき路地裏で見せてくれたのとまったく同じ、春の陽だまりみたいな笑顔だけだった。
「あのコップね、100円ショップで買った安物だから、ぜんぜん平気だよ! それより、怪我はなかった? ガラスの破片とか、指に刺さってない?」
「……刺さって、ない。……わたしが触ると、なんでもすぐ、死んじゃうから」
少女は、灯里がどうして怒らないのかわからなくて、戸惑いながら呟いた。
「だから、わたしがこのお部屋にいたら、あなたの大事なもの、ぜんぶ壊しちゃう……」
「ううん、大丈夫だよ! ほら、これを見て!」
灯里は少女の左手首を自分の左手でしっかりと握ったまま、右手に持っていた白いフェイスタオルを、少女の右手にそっと握らせてみた。
少女は「あっ、また砂になっちゃう」と思って目を閉じた。
けれど。
1秒経っても、2秒経っても、ぱきりという音は鳴らなかった。
少女がおそるおそる目を開けると、自分の右手のなかには、ふわふわとした白いタオルが、壊れることなくそのままの形で残っていた。
「ほらね! やっぱり!」
灯里が嬉しそうに声を弾ませた。
「さっき一緒に歩いてたとき、あなたが掴んでたあたしのパーカーの裾、ぜんぜん砂にならなかったでしょ? たぶんね、あたしがあなたの手を握っているあいだか、あたしがいつも使っていてあたしの魔力や匂いがついているものなら、あなたが触っても壊れないんだよ!」
少女は、自分の右手に握られた柔らかいタオルと、左手を包んでいる灯里の温かい手を、信じられないものを見るように見つめた。
ほんとうだ。
ふわふわしている。
さっき地下室で触ろうとして灰にしてしまった白いマントとは違う。ちゃんと布の柔らかさが、指先に伝わってくる。
「ね? これなら、このお部屋にいてもなーんにも問題ないでしょ!」
灯里は立ち上がると、少女の手を引いて、まずは玄関のすぐ横にある小さな浴室へと連れていった。
「まずは冷えた体をあっためて、足の泥を落とそうね。あたしが手を繋いだまま洗ってあげるから、お湯も消えたりしないよ!」
灯里の言葉は、その通りになった。
狭いタイル張りの浴室で、灯里が少女の肩や手にずっと自分の肌を触れさせたままシャワーをかけると、温かいお湯は霧になって消えることなく、少女の冷え切った白い肌を優しく包み込んだ。
生まれて初めて浴びる、あたたかいお湯。
そして、灯里の手のひらが、甘い匂いのする泡をたっぷり立てて、少女のくるぶしまである長い白銀の髪を、しゃっしゃっと優しく撫でるように洗っていく。
「……ん……」
少女は小さな風呂椅子に座ったまま、気持ちよさのあまり、猫のように赤い瞳を細めてうっとりと首を傾げた。
白い部屋のなかでは、体はいつも冷たい消毒液の霧で拭かれるだけだった。誰かの温かい指で髪を梳かしてもらい、頭を撫でられながら洗ってもらうのが、こんなにも心地よくて、胸の奥がふわふわするなんて知らなかった。
お風呂から上がると、灯里はバスタオルで少女の髪を丁寧に乾かし、自分がパジャマ代わりにいつも着ている、大きめの白いTシャツと柔らかいショートパンツを少女に着せてくれた。
灯里の体温と微かな魔力がたっぷり染み込んだそのシャツは、少女が肌に着てもまったく崩れず、今までずっと着せられていた『葬白の繭』の代わりに、洗い立ての石鹸と太陽の匂いで少女の体を優しく包んでくれた。
小柄な少女が灯里のシャツを着ると、裾がワンピースのように膝下まで届き、だぼだぼの袖口から小さな指先だけがちょこんと覗く。
「うわぁ……っ、やっぱりすごく似合う! 髪の毛もサラサラになって、ほんとうに天使みたいだよ!」
灯里に褒められて、少女はだぼだぼの袖口をぱたぱたと揺らしながら、不思議そうに自分の胸元を見下ろした。
ぱきり、しゃりしゃり、というあの冷たい音が、今はもうどこからも聞こえない。それだけで、なんだか自分が普通の女の子になれたような気がした。
そのとき。
ぐぅ、と、とても小さくて可愛らしい音が、少女のおなかから鳴った。
少女はぱちくりと瞬きをして、自分のおなかを押さえた。昨日の朝から、何も食べていなかったことを思い出したのだ。
「ふふっ、おなか空いたよね! パトロールの前から煮込んでおいたクリームシチューがあるから、今すぐあっためるね!」
灯里は少女を6畳間の真ん中にある小さなちゃぶ台の前に座らせると、ミニキッチンで小鍋を温め直し、ロールパンと一緒に2人分の白いお皿を運んできた。
湯気とともに、牛乳とバター、それに甘く煮えた玉ねぎと鶏肉の、たまらなく美味しそうな匂いが部屋いっぱいに広がる。
少女はちゃぶ台の向かいに座るどころか、いつの間にか灯里のすぐ隣にぺたりと引っ付いて座り、灯里の太ももの上に自分の左手を乗せたまま、お皿の上の白いシチューをじっと見つめていた。
「スプーン、あたしが持って食べさせてあげるね。ちょっと熱いから、ふーってしてからだよ。……はい、あーん」
灯里が木のスプーンでシチューをすくい、軽く息を吹きかけて冷ましてから、少女の小さな唇の前へと差し出した。
少女は少しだけ迷うように灯里の顔を見たあと、小さな口を、あーん、と開けた。
温かいシチューが、舌の上に乗る。
次の瞬間、少女のガラス玉のような赤い瞳が、ぱっと大きく見開かれた。
「……っ!」
少女は、もぐもぐと小さく口を動かしたまま、固まった。
あの白い部屋で毎日出てきた、鉛色のチューブに入った味のしない栄養ペーストとは、ぜんぜん違う。
あたたかくて、とろりとしていて、お口の中いっぱいに甘くて優しい味が広がる。ごくん、と飲み込むと、おなかの底からぽかぽかとした熱が湧き上がってきて、まるで灯里の手の温もりをそのまま食べているみたいだった。
「どう? あたしのお料理、口に合ったかな?」
灯里がドキドキしながら尋ねると、少女は表情を変えないまま、ごくんとシチューを飲み込み――そして、無言のまま、もう一度「あーん」と小さく口を開けて灯里の方へ顔を突き出した。
まるで、親鳥からエサをもらうのを待つ雛鳥みたいな仕草だった。
「ぷっ……あははっ! そっか、気に入ってくれたんだね! いっぱいあるから、おかわりもたくさん食べていいからね!」
灯里は嬉しくてたまらないといった様子で笑い、それからふたりで1つのパンを半分こに分け合いながら、鍋が空っぽになるまで少女の口へとスプーンを運び続けた。
夜勤明けのパトロールのあとで、あたたかいお風呂に入り、おなかいっぱいシチューを食べた2人は、やがてどちらからともなく眠気に襲われた。
まだ外は午前中だったけれど、雨上がりの窓にカーテンを引くと、6畳の畳の部屋は優しい薄暗さに包まれた。
「お布団、1組しかないから、ちょっと狭いけど一緒に入ろうね」
灯里が畳の上に敷いたふかふかの布団に潜り込み、掛け布団を持ち上げて手招きする。
少女は、ためらうことなくその中へと滑り込んだ。
ふわりと掛け布団が下ろされる。
灯里がいつも寝ている布団のなかは、外の世界のどんな場所よりも温かくて、灯里と同じ、ひだまりのような匂いがした。
「パトロールの報告は、夕方起きてから支部に行けばいいや……。おやすみ、またあとでね」
灯里はよほど疲れていたのか、少女の小さな肩を優しく抱き寄せると、ほんの数分で、すう、すう、と穏やかな寝息を立て始めた。
静かな部屋のなかで、白銀の少女だけは、まだ赤い瞳を開けていた。
少女は布団のなかで、もぞりと小さく身をよじり、眠っている灯里の胸元――鎖骨のすぐ下のあたりに、自分の額と頬をそっと押し当てた。
トクン。トクン。トクン。
耳のすぐ奥から、力強くて、あたたかい音が聞こえてくる。
地下室で黒い髪のお姉さんに触れたときは、この音は一瞬で止まってしまった。自分が近づけば、どんな生き物の心臓も、必ず止まって冷たくなってしまうはずだったのに。
灯里の心臓だけは、少女がこうしてぴったりとくっついていても、ちっとも止まらない。
それどころか、「ここにいてもいいよ」と言ってくれるみたいに、規則正しく、優しいリズムを刻み続けている。
少女は、自分の小さな両手を伸ばし、灯里のパーカーの胸元をきゅっと掴んだ。
生まれて初めて知った、壊れない温もり。
生まれて初めて見つけた、自分が触れても死なない、たったひとりの人間。
――この人を、なくしたくない。
少女は、灯里の温かい胸に顔を埋めたまま、ゆっくりとまぶたを閉じた。
難しいことはわからない。正義とか、悪とか、魔法少女とかいう言葉の意味も、まだよく知らない。
けれど、もしもこの先、このあたたかい人を傷つけようとするものや、自分の手からこの温度を奪おうとするものが現れたなら。
それが何であっても、自分がぜんぶ「殺して」しまえばいい。
心地よい鼓動の子守唄に包まれながら、すべてを殺す死の少女は、生まれて初めて、ひとりぼっちではない眠りへと落ちていった。




