第8話 一人ぼっち
道端に置かれた自動販売機の横をかすめれば、明るく光っていた商品サンプルの照明が端から順番に落ちていき、なかの冷却モーターが低い唸りを上げて停止する。
彼女のドレスの裾からこぼれ落ちる微かな『死』の余波が、近くにある機械の電気回路や魔力素子を、通りすがりに撫で殺していってしまうのだ。
まるで、彼女が歩く場所だけ、世界から少しずつ「光」と「熱」が死に絶えていくかのようだった。
少女は消えてしまった自動販売機のガラスに映る自分の姿を見た。
暗いガラスのなかに、雪のように白い顔と、ガラス玉みたいな赤い瞳をした小さな女の子がぽつんと立っている。
その横を、1本の傘に2人で入った若い女の子たちが、楽しそうに笑い合いながら通り過ぎていった。お互いの肩を寄せ合い、冷たそうな手を繋いで、当たり前のように触れ合いながら歩いていく。
少女は、遠ざかっていくその2人の背中を、瞬きもせずにじっと見つめていた。
どうして、あの人たちは触れ合っても壊れないのだろう。
どうして、自分だけが、何にも触れられないのだろう。
古い商店街のアーケードの入り口まで来たとき、足元から、とても小さな鳴き声が聞こえた。
「みゃあ……」
少女が足を止めて見下ろすと、屋根の下で雨宿りをしていたらしい小さな黒猫が、濡れた段ボール箱の陰からトコトコと歩いてくるところだった。
まだ生まれて間もない子猫なのだろう。
黒猫は、目の前に立つ少女から意地悪な気配がしないと思ったのか、まん丸な黄色い瞳で少女を見上げた。そして、甘えるように喉をごろごろと鳴らしながら、少女の白い裸足のくるぶしに自分の頭を擦りつけようと近づいてきた。
ふさふさした黒い毛並みと、小さな温かい命の気配。
それを見た瞬間、少女の胸の奥が、きゅっと強く跳ねた。
――だめ。
少女は反射的に、一歩、大きく後ろへと飛び退いていた。
これまで、毒ガスを流し込まれても、魔導レーザーで撃たれても、大剣で斬りつけられても、ただの一度だってその場から動こうとしなかった少女が、生まれて初めて、自分の意志で「逃げた」のだ。
「……来ちゃ、だめ」
少女は背後のシャッターに背中をぶつけながら、自分の黒いドレスの裾をぎゅっと握りしめ、必死に首を横に振った。
「わたしに触ったら、死んじゃうから。……あっちへ、行って」
頼りなく震える声だった。
子猫は、少女が急に離れたことにびっくりしたように足を止め、もう一度だけ「みゃあ」と小さく鳴くと、くるりと背を向けて暗い路地の奥へと走っていってしまった。
小さくなっていく黒い影を見送りながら、少女はその場に立ち尽くしていた。
本当は、撫でてみたかった。
あんなに小さくて、やわらかそうで、あたたかそうな生き物に、一度でいいから触れてみたかった。
けれど、触ればあの白い野花と同じように、小さな黒猫も冷たい灰にしてしまうことがわかっている。自分が一歩後ろへ下がらなければ、この世界の可愛いものも、綺麗なものも、ぜんぶ自分のせいで死んでしまうのだ。
少女は、自分の白い両手を見つめた。
どれだけ眺めても、普通の人間の女の子と変わらない、小さな手だ。それなのに、この手は決して誰かの温もりに触れることを許されていない。
少女がうつむき、雨を避けるようにしてアーケードの横の暗い裏路地へと足を踏み入れた、そのときだった。
「おいおい、ちょっと待てよ。こんな夜更けに、なんだあの子は?」
「おい、見ろよあの銀髪……コスプレか? いや、めちゃくちゃ可愛いぞ、まるで人形じゃねえか」
路地の暗がりにある雑居ビルの階段下から、安い酒とタバコの匂いを漂わせた2人の男がふらりと出てきた。
派手な柄のジャケットを着た、目つきの悪い若い男たちだった。夜通し飲み歩いていたらしい2人は、街灯の薄明かりの下にぽつんと立つ銀髪の少女を見つけるなり、下卑た笑みを浮かべて行く手を塞いだ。
「ねえちゃん、こんなところでひとりか? 靴も履いてねえじゃん。どっかのお金持ちの家から家出でもしてきたのかよ」
背の高い方の男が、ニヤニヤと笑いながら少女のすぐ目の前まで歩み寄る。
少女は足を止め、感情の読めない赤い瞳で、自分よりずっと背の高い2人の男を見上げた。
男たちの顔には、あの研究所の大人たちのような恐怖もなければ、白い服のお姉さんたちのような優しさもない。ただ、弱いものを見つけて面白がっているような、濁った色をしていた。
「おい、なんとか言えよ。雨で冷えるだろ、俺たちがいい場所に連れてってやるよ」
もうひとりの小太りの男が、少女の華奢な肩と白い手首をつかもうとして、無造作に汚れた手を伸ばしてきた。
少女は逃げなかった。
さっきの子猫のときとは違って、目の前の男たちがどうなろうと、別に構わないと思ったからだ。ただ、これ以上自分の足元に動かない人が増えるのはすこし面倒だなと思って、少女は小さな唇を開いた。
「……触らないで。死んじゃうよ」
「あぁ? 死んじゃうって、お前――」
男が鼻で笑いながら、少女の細い手首をむんずと掴んだ。
同時に、背の高い方の男も、少女の美しい白銀の髪に指を絡めようとして、その白い頬の横に指先を触れさせた。
ぴたり。
路地裏から、2人の男の笑い声が消えた。
少女の白い肌に指が触れた、その瞬間。
男たちの酔っ払った脳も、下卑た欲望に早鐘を打っていた心臓も、すべてが同時に「死」に染め上げられたのだ。
痛みすら感じる暇はなかっただろう。ただ、彼らが少女の手首に触れたところから、生きるための熱と鼓動が、底なしの穴に吸い込まれるように消え失せただけだ。
「……が……?」
手首を掴んでいた男の指から、すうっと力が抜ける。
2人の男は、自分たちに何が起きたのかを認識することすらできず、目を剥いたまま前のめりに倒れ込んだ。
ばしゃり、と水音が響き、路地裏の汚れた水たまりのなかに2つの体が折り重なって沈む。そのまま、指先ひとつ動かなくなった。
少女は、自分の手首に残った冷たい感触を払うように、小さく手を振った。
「……だから、言ったのに」
足元に転がる2人の男を見下ろしても、悲しくもなければ、怖くもなかった。
ただ、胸の奥にある冷たい空洞が、またすこしだけ広がったような気がしただけだ。
空を見上げると、いつの間にか雨足がすこし強くなっていた。
灰色の雲の向こう側が、ほんのわずかに白み始めている。夜が終わって、朝が来ようとしているのかもしれない。
少女は寒さを感じない。おなかも、もう空いているのかどうかわからなくなっていた。
ただ、この広くてたくさんの人がいる外の世界に出てきても、結局あの白い部屋のなかにいたときと、何ひとつ変わらないのだという事実だけが、彼女の小さな肩に重たくのしかかっていた。
誰にも触れられない。
誰からも触れられない。
自分はきっと、このまま誰とも言葉を交わさず、誰の手も知らないまま、この灰色の空の下をひとりぼっちで歩いていくだけなのだ。
少女が白い裸足で水たまりの横を通り抜け、古い商店街の裏路地をさらに奥へと進もうとした――そのときだった。
ドォンッ!
前方の路地のさらに奥、古びた看板がいくつも突き出した曲がり角の向こうから、空気をビリビリと震わせるような激しい爆発音が響き渡った。
少女はぴくりと足を止めた。
さっき地下室の扉を壊したお姉さんたちの魔法に似ているけれど、それよりもずっと濁っていて、禍々しい黒紫色の光が、路地の奥の壁を不気味に照らし出している。
そして、崩れ落ちる瓦礫の音に混じって。
「きゃあああぁぁっ!!」
「はぁ、はぁ……っ、だ、誰か……早く、逃げて……っ!」
雨音を切り裂くようにして、必死に何かから誰かを守ろうとする、若い女の子の苦しげな悲鳴が聞こえてきた。
その声と一緒に、黒紫色の禍々しい闇のなかで、今にも消えてしまいそうなほど小さくて、けれど不思議と目を奪われる「あたたかいオレンジ色の光」が、ぱちり、と瞬いたのが見えた。
少女は、赤い瞳をわずかに見開いた。
普通なら、踵を返して逃げるべき場所だ。
けれど、今の少女には、逃げる理由もなければ、向かうべき場所もなかった。
ただ、暗い路地の奥で揺れているあの小さなオレンジ色の光が、黒い髪のお姉さんが最後に言っていた「お日様」のかけらみたいに思えて――少女は、吸い寄せられるように、音もなくその曲がり角へと足を踏み出した。




