第7話 初めて見た灰色の空
ぺた、ぺた、と小さな足音が暗闇に響いていた。
ひしゃげた防爆扉の隙間を通り抜けた先には、錆びついた鉄の非常階段が、まるで底なしの井戸の壁を這うように上へと続いていた。
照明はすでに切れている。
それでも、暗い部屋のなかで長い時間を過ごしてきた少女の赤い瞳には、手すりの輪郭も、ひび割れたコンクリートの段差もはっきりと見えていた。
一段、また一段と、白い裸足で冷たい鉄の階段を登っていく。
少女が足を乗せるたび、長年積もっていた赤錆と埃がさらさらと黒い砂になって零れ落ち、代わりに彼女が纏う『葬白の繭』のレースが、ぱきり、しゃりしゃり、と静かな音を立てて編み直される。
これまで彼女が知っていた世界は、白い壁に囲まれた小さな部屋と、その向こうにある観測室だけだった。
そこには階段なんてなかったし、上へ行くという感覚すら知らなかった。
だから、こうして自分の足でどんどん高い場所へ登っていくのは、なんだかとても不思議な気分だった。
どれくらい登っただろうか。
ふくらはぎに軽い疲れを覚え始めたころ、ずっと同じだった鉄とカビの匂いに、少しずつ違う匂いが混じり始めた。
濡れた土の匂い。冷たい水の匂い。そして、どこまでも広くて、壁のない場所の気配。
階段の最上段に辿り着くと、そこには古びた鉄板の扉があった。
外の世界から研究所の存在を隠すための、廃工場の資材倉庫に偽装された裏口だ。
扉の周りには、突入してきた魔法少女たちの仲間が外から張り巡らせたのだろう、淡い青色の封鎖結界が蜘蛛の巣のように光っていた。部外者を寄せつけず、内側から逃亡しようとする者を検知するための魔力の網だ。
けれど、少女が扉の前に立ち、冷たい鉄のノブに小さな手を伸ばした途端――
ぱちん、とシャボン玉が弾けるような軽い音がした。
扉の隙間に貼られていた封鎖用の魔導札が、警報ひとつ鳴らすことなく真っ黒に枯れ果て、結界の魔力そのものが「死んで」白い粉になって消え失せたのだ。
同時に、重たい鍵の金具も内側から風化して崩れ落ち、鉄の扉がギィ、と鈍い音を立ててひとりでに外側へと開いた。
ひゅう、と冷たい風が吹き込んでくる。
少女の足首まである長い白銀の髪が、その風に攫われてふわりと大きく揺れた。
換気口から流れてくる機械の風ではない。温度も強さも気まぐれに変わる、生きた外の世界の風だった。
少女は目を瞬き、開け放たれた扉の向こうへと、小さな裸足を踏み出した。
そこは、赤茶けた鉄骨と崩れた煙突が立ち並ぶ、人気のない廃工場地帯の片隅だった。
足元は、平らで冷たい金属の床ではなく、ざらざらとした砂利と湿ったアスファルトの地面。足の裏に伝わる見知らぬ感触に、少女は思わず足の指先を小さく丸めた。
そして、立ち止まったまま、おそるおそる自分の頭上へと視線を向けた。
「……あ」
小さな唇から、かすかな吐息がこぼれた。
天井が、なかった。
いつも彼女の頭の上を塞いでいた白いパネルも、四隅で光っていた監視カメラも、そこにはない。
代わりに広がっていたのは、どこまで見渡しても端っこの見えない、果てしない灰色の空だった。
夜が明ける直前の、重たい雨雲が垂れ込めた空である。
さっきの黒い髪のお姉さんが言っていた「お日様」はどこにも見当たらなかったけれど、生まれてからずっと白い箱のなかに閉じ込められていた少女にとって、その灰色の広がりは、目が眩むほど大きくて恐ろしいものに見えた。
あんまり広すぎて、そのまま空の奥へ吸い込まれて落っこちてしまいそうな気さえする。
「……お外、こんなに広いんだ」
ぽつりと呟いた声は、壁に跳ね返ることなく、冷たい夜風のなかにすうっと溶けて消えていった。
そのとき、少女の白い鼻先に、ひやりと冷たい粒が落ちてきた。
空から、ぽつり、ぽつりと細い雨が降り始めていたのだ。
「……水?」
少女は不思議そうに首をかしげ、灰色の空に向かって、自分の小さな手のひらを上に向けて差し出した。
部屋のなかでは、水はいつも決まった量のコップに入って出てくるものだった。こんなふうに空の上から勝手に降ってくる水を見るのは、今日が初めてだった。
落ちてくる雨粒を、手のひらで受け止めてみようと思ったのだ。
けれど。
空から舞い降りてきた透明な雨粒は、少女の白い手のひらに触れた瞬間、水滴として弾けることすらなく、まるで焼けた鉄板の上に落ちたみたいに「死んで」白い霧になり、音もなく消えてしまった。
一粒だけではない。
彼女の長い銀髪に降りかかる雨も、黒いドレスの肩に落ちる雨も、すべてが彼女という存在に触れた端からその形を失い、乾いた空気へと還っていく。
周囲のアスファルトは雨に濡れて黒く色を変え、小さな水たまりを作り始めているというのに、少女が立っている足元の丸い地面だけは、最初から雨など降っていないかのように白く乾ききっていた。
「……冷たくない」
さっき鼻先に落ちたときは、たしかに冷たいと思ったのに。実際には、冷たさを感じるよりも早く、雨粒の方が死んで消えてしまうのだ。
少女は差し出していた手を引っ込め、すこしだけ寂しそうに指先を丸めた。
ふと足元に目をやると、錆びた鉄パイプの脇、ひび割れたアスファルトの隙間から、名もなき小さな白い野花が1輪だけ顔を出していた。
冷たい雨粒を受けて、小さな花びらを一生懸命に広げている。
少女はその横にしゃがみ込み、両膝を抱えて、風に揺れる白い花をじっと見つめた。
「……きれい」
白いマントのお姉さんたちが胸につけていた白百合のバッジに、すこしだけ似ている気がした。
あの暗い地下室にあったものは、スプーンも、壁も、お姉さんたちのマントも、みんな壊れてしまった。けれど、この広いお外で咲いているお花なら、もしかしたら壊れないかもしれない。
今度は、絶対に力を入れないようにしよう。
掴んだりしないで、ほんのちょっとだけ、指先で撫でるだけなら大丈夫かもしれない。
少女はそう思って、息を止め、自分の白い人差し指をそっと花びらへと近づけた。
けれど、指先が白い花びらに触れるよりも、ほんのすこしだけ早かった。
彼女の指先から絶えず滲み出ている目に見えない『死』の気配が、小さな花をふわりと撫でたのだ。
かさ、と乾いた音がした。
みずみずしく咲いていたはずの白い野花は、瞬く間に根元から色を失い、灰黒色の炭のようになって、冷たい風のなかにさらさらと崩れ落ちてしまった。
あとには、黒ずんだ砂の跡しか残らない。
少女はしばらくのあいだ、伸ばした人差し指を宙に浮かせたまま、花が消えてしまった場所を見つめて動かなかった。
「……ごめんなさい」
誰に聞かせるでもなく小さく謝って、少女はゆっくりと立ち上がった。
やっぱり、箱の外に出ても同じだった。
自分が触れるものは、スプーンも、人も、空から降ってくる水も、道端に咲いている小さな花も、みんなすぐに壊れて死んでしまう。
少女は白い裸足で、湿ったアスファルトの上を歩き出した。
どこへ行けばいいのかはわからない。ただ、後ろにある暗い地下室へ戻る気にはなれなくて、錆びたフェンスの向こう、遠くに見えるたくさんの明かりの方へと足を向けた。
廃工場地帯を抜けると、そこには第13区の古い街並みが広がっていた。
少女の赤い瞳が、驚きに大きく見開かれる。
道の両側に並ぶ、見上げるほど高いコンクリートの建物。赤や青に点滅するネオンの看板。遠くの高架の上を、光の帯を引いて走り抜けていく電車の音。
そして何より、始発電車に向かう人や夜勤明けの人なのだろう、色とりどりの傘を差して足早に通り過ぎていく、たくさんの「生きている人間」たち。
こんなに大勢の人が動いているのを、少女は見たことがなかった。
しかも、誰も白衣を着ていないし、誰も少女を見て叫んだり、銃を向けたりしない。
たまに傘の下から、雨のなかを裸足で歩くゴシック調のドレスの少女に気づいて、ぎょっとしたように目を丸くする通行人もいた。けれど、少女のあまりに人間離れした白さと、どこかこの世のものとは思えない静かな佇まいに気押されて、誰も声をかけることなく足早に目を逸らしていく。
この第13区のような治安の良くない下町では、妙なものには関わらないのが一番だと、誰もが知っているからだ。
少女もまた、すれ違う人間に自分の肌や髪が触れないよう、道のいちばん端っこを選んで静かに歩いた。
それでも、彼女が通り過ぎたあとには、小さな異変がいくつも残された。
少女が古い街灯のすぐ下を通り抜けると、頭上の水銀灯がジジッ、と音を立てて不自然に明滅し、そのままぷつりと消える。




