第5話 引き返せない
指先が、白銀の髪に触れていた。
月の光を紡いだように細く、柔らかな髪だった。
「外へお日様を見に行きましょう」と微笑んだ神代凛華の唇が、まだ優しい弧を描いたままピタリと固まっている。
階段の上に座っていた少女は、自分の頭頂部に置かれたその白い手を見上げて、悲しそうに赤い瞳を伏せた。
「……だから、だめだって言おうとしたのに」
ぽつりと落ちた呟きは、ひどく静かだった。
凛華には、自分がなぜ動けなくなったのかすら理解できていなかった。
痛みはなかった。衝撃も、熱も、魔力の奔流すらなかった。
ただ、素手の指先が少女の髪に触れた、その刹那――自分の指先から、手首へ、腕へ、そして胸の奥にある心臓と魔力炉へと、底なしの「終わり」が音もなく駆け上がってきただけだ。
特A級の魔法少女である彼女の肉体は、常時展開された濃密な護身魔力によって守られている。戦車の砲弾を至近距離で受けようと、猛毒の霧のなかに飛び込もうと、かすり傷ひとつ負うはずのない誇り高き白百合の鎧。
けれど、少女が纏う『死』の前では、そんな守りは塵ほどの意味も持たなかった。
護身魔力は火花ひとつ散らすことなく「死んで」霧散し、凛華の血管を巡っていた熱い血潮も、脳を駆け巡る電気信号も、魂の奥で燃えていた誇り高い使命感も、すべてが同時にプツリと断ち切られた。
「……え……?」
凛華の喉から、かすかな呼気が漏れた。
それが彼女の最後の声だった。
凛とした輝きを宿していた黒い瞳から、すうっと焦点が消え失せる。優しい笑顔を浮かべたままの顔が、まるで糸の切れた操り人形のように、ゆっくりと前へ傾いた。
どさり。
静まり返ったホールに、やわらかな肉体が金属の床へ倒れ込む音が響いた。
少女の足元に崩れ落ちた神代凛華は、白いリボンで束ねた黒髪を灰の上に広げたまま、ピクリとも動かなくなった。
一拍。
ホールの入り口近くで待機していた4人の隊員たちは、目の前で起きたことが理解できず、ただ呆然と瞬きをした。
「……りん、か……隊長?」
最後尾で魔導書を抱えていた、久遠寺ルルが、間の抜けた声を出した。
「え……なに、今の。凛華隊長、どうしたんですか……? 急に、倒れて……」
誰も答えない。
双剣を収めかけていた、天城結衣も、妹の天城真琴も、凍りついたように立ち尽くしていた。
そして、副隊長の早乙女綾が、左目の単眼ゴーグルに映し出された隊員たちのバイタル表示を見た瞬間――彼女の顔から、すべての血の気が失せた。
レンズの隅で規則正しく脈打っていたはずの『KAMISHIRO RINKA』の緑色の波形が、一直線の赤いラインに変わっていた。
『LIFE SIGN:0(心肺停止・魔力反応消失)』
「――ッ、うそ、でしょ……!?」
綾の喉から、裏返った悲鳴が飛び出した。
「死んでる……!? 凛華が、死んだ!? どうして!? あの子の頭に、ちょっと触っただけよ!?」
「し、死んだって……なに言ってるのよ綾っ! だってあの女、魔力ゼロのただの子どもじゃない!」
結衣が叫び返した、そのときだった。
倒れた凛華のすぐそばで、階段に座っていた白銀の少女が、ゆっくりと立ち上がった。
少女は床に横たわる凛華の顔をじっと見下ろし、それから、入り口の方で騒いでいる4人へと赤い瞳を向けた。
その瞬間、早乙女綾は気づいてしまった。
少女の足元に広がる灰黒色の砂の山。通路を埋め尽くしていた、外傷も血痕もない無数の死体。そして、さっき自分のゴーグルが弾き出した『魔力反応:0』という異常な数値の本当の意味に。
「……違う。魔力がゼロだったんじゃない……っ!」
綾は全身をガタガタと震わせながら、戦弓を握りしめて後ずさった。
「私が飛ばした探知波が、あの子の肌に触れた瞬間に消えたから、反射が返ってこなかっただけなのよ!! 暴走事故なんかじゃなかった……この研究所の連中を皆殺しにしたのは、目の前のその子よ!」
「な――っ!?」
天城姉妹とルルの顔が、恐怖と驚愕に引きつった。
そんな馬鹿な話があるはずがない。
目の前に立っているのは、自分たちの胸元ほどしか背丈のない、裸足の小さな女の子なのだ。今だって、黒いゴシック調のドレスの裾を揺らしながら、どこか寂しそうに小首をかしげているだけなのに。
けれど、その小さな裸足のすぐそばには、自分たちが誰よりも頼りにしていた隊長・神代凛華の冷たい骸が転がっている。凛華の胸元に取り付けられていた協会の記録機が、少女の足元から漂う見えない気配に侵食され、ジジッ、と短い火花を散らしてレンズごと白く風化していくのが見えた。
「り、凛華隊長を……凛華隊長を殺したなぁっ!!」
悲しみと恐怖に耐えきれなくなった天城結衣が、涙を散らしながら絶叫した。
「総員、最大戦闘態勢! 距離を取って、一歩も近づかせるなァッ!!」
副隊長の綾が悲鳴のような号令を飛ばす。
特A級討伐部隊『白百合の聖槍』の4人は、長年の訓練で体に染み込んだ連携で、即座にホール後方へと跳び退いた。
「ルル、多重防壁! ありったけの遠距離魔法で、その場から動かさずに焼き払うわよ!」
「は、はいぃっ! 『多重盾』展開――からの、『氷葬槍雨』『雷鳴縛鎖』、全開でいきますぅっ!」
久遠寺ルルが泣き顔を振り切るように魔導書を大きく開いた。
ページが猛烈な勢いでめくれ上がり、4人の前面に輝く分厚い魔力障壁が幾重にも立ち上がる。それと同時に、ホールの天井近くに巨大な青い魔法陣がいくつも浮かび上がり、大気を凍らせる無数の氷の槍と、空気を焦がす紫電の鎖が豪雨のように降り注いだ。
「私もいくわよ! 『破魔の閃光矢』――撃ち抜けぇっ!」
早乙女綾もまた、極限まで引き絞った戦弓から、A級魔人すら一撃で灰にする純白の光の矢を続けざまに放った。
さらに、左右に展開した天城結衣と真琴が、双剣から真空の斬撃波を飛ばして十字の弾幕を完成させる。
ドガァァァンッ!
耳を劈く轟音が、地下ホール全体を揺らした。
閃光と氷塊、そして荒れ狂う雷撃の渦が、階段の前に立つ小さな影を完全に呑み込む。特A級の魔法少女4人が、魔力の出し惜しみもせず、ただ目の前の脅威を消し飛ばすためだけに叩き込んだ飽和攻撃だった。
床の金属プレートがめくれ上がり、立ち昇る白煙と氷の霧がホールの中央を覆い隠す。
「はぁ、はぁ、はぁ……っ! ど、どう!? やったでしょう!?」
ルルが肩で息をしながら、煙の向こうを睨みつけた。
これだけの魔力の奔流をまともに浴びて、形を保っていられる生き物など存在するはずがない。たとえ高位の魔人であっても、今ごろは塵も残らず消し飛んでいるはずだ。
だが。
白煙がゆっくりと晴れていくにつれて、4人の少女たちの呼吸は、ふたたび凍りついた。
ぱきり。しゃりしゃり。
静まり返ったホールの中心から、あの不気味なほど穏やかな衣擦れの音が、何事もなかったかのように聞こえてきたのだ。
「……う、そ……でしょう……」
早乙女綾の戦弓を握る手が、わなわなと震え出した。
煙の向こうに、白銀の少女がそのままの姿で立っていた。
周囲の床は爆風で抉れているというのに、少女が立っているすぐ足元の円い空間だけは、まるで嵐の目のように静まり返っている。
彼女の白い肌には、かすり傷ひとつ付いていなかった。
ルルが降らせた無数の氷の槍も、綾が放った破魔の閃光も、双子が飛ばした真空の刃も――すべて、少女の肌と黒いドレスに触れた瞬間にその魔力と勢いを「殺され」、ただの冷たい空気になって消え失せていたのだ。
「眩しいの、きらい……」
少女は小さな手で目をこすりながら、すこしだけ困ったように4人を見つめた。
せっかくこの部屋に来てくれた綺麗なお姉さんたちが、どうして急に怒って、あの研究所の大人たちと同じように眩しい光を投げてくるのか、彼女にはわからなかった。
そのあどけない仕草が、かえって4人の精鋭たちの理性を完全に破壊した。
「き、効いてない……!? 私たちの全力斉射が、かすり傷ひとつ付いてないですって!?」
「魔力を吸収する結界!? ううん、違う、魔法そのものが消されたのよ……!」
パニックが伝染する。
誇り高き『白百合の聖槍』の隊員たちにとって、自分たちの魔法がまったく通用しないという事実は、悪夢そのものだった。




