第4話 死の声が聞こえた
途中にあった武器庫も、研究室も、そして通路の真ん中で黒い砂の塊と化していた大型の魔導装甲機も、すべてが同じように静まり返っていた。この巨大な地下施設全体が、まるでひとつの巨大な棺桶になってしまったかのようだった。
やがて一行は、研究所の最奥に位置する中央制御ホールへと辿り着いた。
入り口の分厚い隔壁は開け放たれており、その向こうには広い半円形の空間が広がっている。
「……待って。中から、なにか音がするわ」
先頭を歩いていた凛華が片手を挙げ、足を止めた。
全員が息を殺して耳を澄ます。
誰もいないはずの暗いホールの奥から、確かに、とても小さな音が規則正しく聞こえてきていた。
ぱきり。しゃりしゃり。
ぱきり。しゃりしゃり。
薄い氷が割れるような音と、絹の布地を縫い合わせるような微かな衣擦れの音。
5人は顔を見合わせ、すぐさま臨戦態勢を取った。結衣と真琴が双剣を構え、綾が戦弓に魔力を込め、ルルがいつでも防壁を展開できるよう魔導書を開く。
そして凛華を先頭に、5人は音もなくホールの中へと踏み込んだ。
ホールの正面、かつて隔離室を隔てていたであろう巨大な防爆ガラスの壁は、跡形もなく崩れ落ち、灰黒色の砂の山になっていた。周囲には、やはり白衣の研究員や黒い強化兵たちがいくつも転がっている。
そして、その砂の山のすぐ手前。
冷たい金属の階段の上に、ぽつんと、小さな影が座っていた。
「……え?」
双剣を構えていた天城結衣が、拍子抜けしたような声を漏らした。
そこにいたのは、おそろしい魔人でもなければ、鋼鉄の重兵器でもなかった。
まだあどけなさの残る、とても小さな少女だった。
非常灯の淡い光を受けてきらきらと輝く、くるぶしまで届くほど長い白銀の髪。その華奢な体には、黒地に白いレースを幾重にもあしらったゴシック調のドレスが着せられていた。靴も履いておらず、透き通るように白い小さな裸足が、金属の階段の上にちょこんと乗っている。
さっきから聞こえていた「ぱきり、しゃりしゃり」という音は、その少女が着ている黒いドレスの襟元や袖口から鳴っていた。どういう仕掛けの魔導衣なのか、彼女の肌に触れているレースが小さくひび割れては、ひとりでに編み直されているのだ。
足音に気づいたのだろう。
膝を抱えてうつむいていた少女が、ゆっくりと顔を上げて、入り口に立つ5人を見た。
人形のように整った、真っ白な顔立ちだった。
ガラス玉のように澄んだ大きな赤い瞳が、ぱちり、と二度瞬きをする。その瞳には敵意もなければ、殺気もない。ただ、暗い部屋のなかで長いあいだひとりぼっちでいた小さな子どもが、急に入ってきた見知らぬお姉さんたちを不思議そうに見上げている――そんな無防備な目だった。
「女の子……? うそ、こんなところに、まだ生きてる子がいたの!?」
久遠寺ルルが目を丸くして叫んだ。
「早まらないで、ルル! 擬態した魔人かもしれないわ、私が調べるまで動かないで!」
副隊長の早乙女綾が鋭く制し、左目の単眼ゴーグルに魔力を集中させた。
協会の最新技術が詰め込まれた探知レンズが、階段の上の少女を捉える。見えない魔力の探知波が放たれ、少女の体を撫でた――いや、正確には、少女の肌に触れた瞬間に、探知波そのものが音もなく「死んで」消え失せた。
だが、そんな現象が起きているとは夢にも思わないゴーグルの演算装置は、「反射波なし=魔力ゼロ」と判断し、レンズの上に緑色の文字を浮かび上がらせた。
『魔力反応:0(魔力回路なし・一般人)』
『身体的脅威度:なし』
「……魔力反応、完全にゼロね」
早乙女綾は何度も数値を確認したあと、張り詰めていた肩の力を抜いて、ほっと息を吐き出した。
「魔人じゃないし、魔導兵器でもないわ。魔力回路すら持たない、本当にただの普通の人間の女の子よ」
「普通の女の子って……じゃあ、あの子はいったい?」
真琴が首をかしげると、姉の結衣が少女の背後にある崩れた白い小部屋と、床に落ちていた『被験体0号』と書かれたプレートを見比べて、はっとしたように声を上げた。
「わかったわ! あの子、きっと『冥府の揺り籠』の連中に外から攫われてきて、あのガラスの部屋に閉じ込められてた被害者よ! ほら、足を見てよ、靴も履かせてもらえないで変な拘束服みたいなドレスを着せられて……!」
「あぁっ、なんてひどいことを……!」
涙もろい久遠寺ルルが、今にも泣き出しそうな顔で胸を押さえた。
「こんな暗い地下で、悪い大人たちが勝手に自滅して死んでいくのを、あの子はずっとひとりで見てたってことですか!? そんなの、怖いに決まってますよぉ……!」
疑う者は、5人のなかにひとりもいなかった。
強力な魔人や兵器であればあるほど、肌がビリビリと焼けるような魔力の圧を放つのがこの世界の常識だ。これほど近くで見つめていても、そよ風ほどの魔力すら感じられない華奢な幼女が、この研究所を滅ぼした張本人であるはずがない――特A級の精鋭であればあるほど、自分たちの「常識」と「機器の数値」を疑うことはできなかった。
「……不幸中の幸いね。まさか、こんな地獄の底に生き残っていた被害者がいたなんて」
神代凛華の顔からも、険しい戦士の表情が消えていた。
代わりに浮かんだのは、弱き者を守る魔法少女としての誇りと、こんな小さな子どもを酷い目に遭わせた悪の結社への義憤だった。
「結衣、真琴、あなたたちは制御盤に残っているデータを回収して。綾は地上の待機班に連絡を入れて、保護した子どものための毛布と救急車を頼んでちょうだい」
凛華はてきぱきと指示を飛ばすと、自分が手にしていた白銀の長槍を光の粒子に変えて空間へと溶かした。
刃物を持ったまま近づいて、あんなに小さな子をこれ以上怯えさせるわけにはいかないと思ったからだ。
「凛華隊長、私も一緒に行きましょうか?」
「ううん、大丈夫よルル。大勢で取り囲んだらびっくりしてしまうもの。私ひとりで声をかけてくるわ」
凛華はルルに優しく微笑みかけると、白いブーツの足音をしのばせて、金属の階段へとゆっくり歩み寄った。
足元の黒い砂を踏んで少女の前まで近づくと、どこか冬の夜の雪原に立ったときのような、ひやりと澄んだ空気の冷たさを感じた。
こんな冷たい鉄の床の上に裸足で座らされて、きっと体の芯まで冷え切っているに違いない。
凛華は胸を痛めながら、少女のすぐ目の前で足を止め、純白のスカートの裾を払って片膝をついた。
階段に座る少女と同じ目線の高さになり、精一杯の優しい笑顔を作る。
銀髪の少女は、逃げようともせず、ただ大きな赤い瞳でじっと凛華の顔を見つめていた。凛華の胸元で輝く白百合のバッジを見て、それから後ろにいる4人の隊員たちの白いマントを見て、小さく首をかしげる。
少女にとって、この部屋に入ってきた人間が、彼女を見て叫んだり、武器を向けてきたりしなかったのは、これが生まれて初めてのことだった。
目の前にいる黒い髪のきれいな人は、怒っていない。それどころか、とても柔らかい顔をして笑っている。
「……わたしのこと、怖くないの?」
静寂のなかで、少女がぽつりと尋ねた。
鈴を転がしたように澄んでいるけれど、どこか今にも消えてしまいそうな、たどたどしい声だった。
その問いかけを聞いた瞬間、神代凛華の胸がぎゅっと締めつけられた。
――『怖くないの?』ですって?
こんなにも小さくて可愛らしい女の子が、大人たちからどれほど酷い言葉を浴びせられ、どれほど理不尽な扱いを受ければ、助けに来た人間にそんな悲しい質問をするようになるのだろう。
「怖くなんてないわ。こんなにかわいい子を、誰が怖がったりするものですか」
凛華は、泣きそうになるのを堪えて、ありったけの優しさを込めて微笑んだ。
そして、少女に差し出そうとした自分の右手を見て、ふと動きを止めた。
彼女の右手には、魔力や毒素すら遮断する特製の白い対魔グローブがはめられている。けれど、硬い装甲のついた手袋で撫でるよりも、温かい素手で触れてあげた方が、きっとこの孤独な子どもは安心できるはずだ。
そう考えた凛華は、左手で右手首の留め具を外し、対魔グローブをすっと抜き取って腰のポーチにしまった。
白くしなやかな素手が、少女の目の前に差し出される。
「私は魔法少女協会の神代凛華。もう怖いことは何もないわ。悪い大人たちは、もう誰もあなたを傷つけたりしない」
凛華はそう言いながら、少女の頭頂部――月の光を集めたように美しい白銀の髪へと、温かい右手をそっと伸ばした。
「さあ、お姉ちゃんたちと一緒に、外へお日様を見に行きましょう――」
少女は、階段の上に座ったまま、ゆっくりと自分の頭の上へ降りてくるその手を見上げていた。
手袋をしていない、生きている人間の、あたたかそうな手。
ああ、だめだ、と少女は思った。
せっかく怒らないで笑ってくれたのに。お日様を見に行こうって、優しい声で言ってくれたのに。
わたしに触ったら、この人も、昨日のスプーンみたいに壊れてしまう。
「……あ」
少女が小さな唇を開いて、「触らないで」と言おうとしたときよりも。
凛華の優しい指先が、少女の白銀の髪にふわりと触れたときの方が、ほんのすこしだけ早かった。
とん。
静まり返ったホールの真ん中で、神代凛華の胸の奥にあった熱い鼓動が、ぴたりと音を立てて止まった。




