第22話 デパート大冒険
ちゅん、ちゅん、と窓の外の電線でスズメが鳴く声がする。
部屋の隅にある小さな洗面台の前では、灯里とシオンが、鏡の前にぴたりと縦に並ぶようにして立っていた。
「いい? シオンちゃん、そのままお口を『いー』ってしててね。しゃかしゃか、しゃかしゃか……」
背の高い灯里が、自分のすぐ前に立つシオンの華奢な体を後ろから包み込むように抱え、シオンの小さな右手に自分の右手を重ねて、ピンク色の新しい歯ブラシを一緒に握っている。
シオンは灯里の腕のなかにすっぽりと収まったまま、言われた通りに小さな唇を「いー」と横に引き、鏡のなかの自分と灯里の顔をじっと見つめていた。
シオンの口のなかでは、灯里が選んでくれた子ども用の「イチゴ味の歯磨き粉」が、甘くてふわふわした白い泡を立てている。
こんなふうに甘い匂いがして、誰かのあたたかい胸に背中を預けながら、手を取ってしゃかしゃかと磨いてもらうのは、やはり生まれて初めてのことだった。
「……あかり。あわあわ、いっぱいになった」
シオンが泡のついた唇を動かして、鏡越しに灯里を見上げる。
「ふふっ、ほんとだ! じゃあ、コップのお水で『くちゅくちゅ、ぺっ』ってするよ。せーのっ」
灯里が左手でプラスチックのコップに水を汲み、シオンの左手に自分の指を添えて口元へと運んであげる。
シオンは真面目な顔で水を口に含み、灯里の真似をして、小さな白い頬をリズミカルに膨らませたりへこませたりした。
くちゅ、くちゅ、ぺっ。
それから灯里が濡らしたタオルでシオンの口元を綺麗に拭ってあげると、シオンは自分のツルツルになった前歯を舌先でそっと触ってみて、赤い瞳をわずかに細めた
。
「……すっきりした。イチゴの匂い、まだちょっと残ってる」
「えへへ、上手にできたね、シオンちゃん!」
灯里はシオンの頭頂部をぽんぽんと撫でると、ちゃぶ台の上へと戻った。
ちゃぶ台の上には、昨日支部でもらったわずかな小銭が並べられている。
「えーっと、あたしがコツコツ貯めてた貯金と、昨日の端数の報酬を合わせると……よしっ! これだけあれば、駅前のデパートのセールに行けるよ!」
灯里がガッツポーズを作ると、後ろからトコトコと歩いてきたシオンが、いつものように灯里の横にぺたりと座り、不思議そうに貯金箱を覗き込んだ。
「……デパート?」
「うん! 洋服とか、靴とか、かわいいリボンとか、おいしいものが何でも売ってる大きなお店のことだよ!」
灯里は、シオンが今着ている自分の大きめなTシャツと、部屋の隅に畳んで置いてある黒いドレス……『葬白の繭』を見比べた。
「シオンちゃんが前から着てたあの黒いドレスもすごく綺麗だけど、お外を歩くにはちょっと目立ちすぎちゃうし、あたしのお下がりのTシャツやパーカーばかりじゃ、シオンちゃんに申し訳ないもん。せっかく『シオン』っていう素敵なお名前も決まったんだから、今日はシオンちゃんのための新しいお洋服と靴を買いに行こう!」
「わたし、あかりのシャツで、いいのに」
シオンはだぼだぼのTシャツの襟元をぎゅっと掴んで言った。
「これ、あかりの匂いがするから、すき」
「うっ……そ、そう言ってくれるのはすっごく嬉しいけど、お出かけ用のお洋服も1着くらいはなくちゃだめなの! それにね、あたし、昨日お布団のなかでひとつ実験してみたいことを思いついたんだ!」
灯里は悪戯っぽく笑うと、シオンの手を引いて朝の支度を整え、春の陽気に包まれた街へと繰り出した。
週末の午前中ということもあって、駅前広場へと続く大通りは、買い物客や家族連れで賑わっていた。
昨日の夕方、川岸の護岸ブロックをシオンが砂に変えてしまったあと、2人は誰にも見られないうちに急いでその場を離れたのだが、幸いにして朝のニュースでも「老朽化した護岸の一部が崩落した」と小さく報じられただけで、魔法少女協会が騒いでいるような様子は見受けられなかった。
それでも灯里は念のため、今日もシオンには自分のパーカーを羽織らせ、靴下とスリッポンを履かせて、しっかりと手を繋いで歩いた。
「わあ……あかり、人がいっぱい」
駅前にそびえ立つ7階建ての庶民派デパート『マルイシ百貨店』の自動ドアをくぐると、シオンは赤い瞳を丸くして、自分の体を灯里の腕にぴたりと密着させた。
昨日の支部のロビーとは違い、ここには意地悪な目を向けてくる魔法少女はひとりもいない。
色とりどりの風船を持った子どもたちや、買い物袋を提げたお母さんたち、甘いお菓子の匂いがするショーケース。
生まれて初めて見る「平和な街の休日」の光景に、シオンは圧倒されながらも、興味深そうにキョロキョロと首を巡らせた。
「ここが2階の子ども服、ジュニア服売り場だよ! シオンちゃんは小柄だから、ここの大きめサイズか、レディースのSサイズがぴったりだと思うんだ」
灯里は目を輝かせながら、ハンガーに並んだ可愛らしい洋服の間を歩いていく。
しかし、ここでひとつの大きな問題があった。
「……あかり。わたし、ここのお洋服に触ったら、お店ごと砂にしちゃう」
シオンが灯里の耳元で、小さな声で囁いた。
その通りである。シオンの『死の能力』は、シオンの素肌が直接触れたものを即座に風化させてしまう。昨日の夜からいろいろ試してみた結果、灯里と手を繋いでいるあいだは周囲への無意識な漏出こそ抑えられるものの、シオンが自分の指先で直接「灯里の魔力が馴染んでいない新品の物」を掴むと、やはり数秒でひび割れて砂になってしまうことがわかっていたのだ。
「ふふっ、そのための実験だよ! ほら、まずはあの試着室に入ろう!」
灯里は売り場のなかから、シオンの銀髪に絶対に似合うと思った「淡い空色のワンピース」と、白いフリルのついたニーソックス、柔らかい革のストラップシューズ、そして最後に、自分の髪色と同じ「明るいひまわり色のリボン」を自分の手で選び出し、店員さんに声をかけて奥の試着室へと入った。
カーテンを閉めた狭い試着室のなかで、灯里はまず、選んだ空色のワンピースと靴下と靴を、自分の胸元にぎゅっと抱きしめた。
「いい? 昨日の夜、シオンちゃんが『あかりがいつも使ってるタオルやパーカーなら、手を離しても壊れない』って言ってたでしょ? あたし、どうしてかなって考えたの」
灯里は目を閉じ、自分の胸の奥にある小さな魔石から、普段パトロールで使っているあの『微光魔法』と、かすり傷を癒やす『微弱な治癒魔力』を、抱きしめた新しい洋服の繊維の隅々へと、じんわりと流し込み始めた。
ぽうっ、と。
試着室のなかに、小さな焚き火のような、あたたかいオレンジ色の光が灯る。
攻撃力は豆電球みたいに弱いけれど、誰かの冷えた手を温めるためだけにあるような、灯里自身の体温そのもののような魔力だ。
「あたしの古着が壊れないのは、きっと、あたしの体温とこの微光魔力が、布のなかにいっぱい染み込んでるからだと思うんだ。だからこうして、新しいお洋服にも最初からあたしの魔力をたーっぷり染み込ませておけば……」
しばらくして、オレンジ色の光がすうっと洋服のなかに吸い込まれ、新品特有の冷たい化学繊維の匂いが、灯里と同じ「ひだまりのような匂い」へと変わった。
「よしっ! シオンちゃん、ちょっと右手の指先で、このワンピースの裾に触ってみて!」
灯里がドキドキしながら、空色のワンピースの裾を差し出した。
シオンは少しだけ緊張した面持ちで、灯里の手から一度だけ自分の手を離し、白い人差し指で、そっと空色の布地に触れた。




