第21話 黒い羅針盤
「………………っ」
階段に座っていた灯里が、息を呑んで目を見開いた。
シオンは、黒い砂が舞い散る真ん中でゆっくりと立ち上がると、自分の白い両手を胸の前に引き寄せ、灯里の方へ向き直った。
そのガラス玉のような赤い瞳は、今にも泣き出しそうなほど細く揺れていた。
「……これでも、ほんのちょっとだけなの」
シオンの声は、夕風に消えてしまいそうなほど震えていた。
「わたしが触れるものは、ぜんぶ、こうやって死んじゃう。石も、鉄も、空から降ってくる雨も、道端のお花も……生きている人間も、ぜんぶ」
シオンは、一歩も灯里の方へ近づこうとせず、黒い砂の山の向こう側で立ち尽くしたまま、自分の小さな指先を見つめた。
「暗い部屋のなかにいた大人たちも、わたしを助けに来てくれた白い服のお姉さんたちも、みんな、わたしに触れただけで死んじゃった。……わたしが、ぜんぶ殺しちゃったの」
ぽつり、ぽつり、と告白される言葉は、あまりにも重たくて、あまりにも残酷だった。
「わたしは、誰のことも助けられない。……ただ、触れたものをぜんぶ殺しちゃうだけの、ほんとうの『化け物』なの」
シオンは、ぎゅっと自分の肩を抱きしめ、うつむいた。
怖くて、灯里の顔を見ることができなかった。
きっと今ごろ、あのひまわりみたいな笑顔は凍りついて、あの研究所の大人たちと同じように、真っ青な顔で後ずさっているに違いない。
「……だから、あかりも、わたしが怖くなったなら……もう、手を離しても、いいよ」
シオンが、自分の胸をナイフで抉るような思いで、その言葉を絞り出した――その直後だった。
タッ、タッ、タッ、と。
乾いた地面を蹴る、軽やかな足音が響いた。
「……え?」
シオンが顔を上げるよりも早く。
黒い砂埃がまだ舞っているその場所へ、日向灯里がためらいひとつなく駆け寄ってきて……シオンの小さな体を、正面から両腕で力いっぱい抱きしめたのだ。
「……っ!? あ、あかり……っ!?」
シオンは目を大きく見開いた。
今、自分はパーカーの袖をまくっていた。手足からは、コンクリートの塊を一瞬で砂に変えてしまうほどの濃い『死』が溢れ出していたはずだ。
それなのに。
シオンの素の首筋と頬に、灯里のあたたかい頬がぴたりと押し当てられ、灯里の両腕がシオンの華奢な背中をぎゅうっと包み込んだ途端……
シオンの周りから溢れ出していた冷たい『死』の気配は、まるで大きな毛布にくるまれたみたいに、音もなくすうっと消え失せていた。
「離すわけ、ないじゃない……っ!」
シオンの耳元で、灯里の少しだけ涙声の混じった、けれどどこまでも力強い声が響いた。
「なに言ってるのよ、シオンちゃんのばかぁっ! そんなこと言われて、あたしが『はいそうですか』って手を離すと思ってたの!?」
灯里は一度だけ体を離すと、シオンの肩を両手でしっかりと掴み、目を丸くしているシオンの赤い瞳を真っ直ぐに見つめた。
灯里の琥珀色の瞳には、恐怖などひとかけらも映っていなかった。
そこにあったのは、夕日よりも熱くて、あたたかい、あふれるほどの優しさだけだった。
「石が砂になっちゃったくらいで、びっくりなんかしないよ! むしろ、今のでぜんぶわかったもん!」
灯里は、袖がまくられたままになっていたシオンの白い両腕を、自分の温かい手のひらで上から下へと優しく撫でさすった。
「シオンちゃんは、誰かを傷つけたくてその力を使ってたんじゃないんだね。触れたものが勝手に壊れちゃうから、だからずっと、お花にも猫ちゃんにも触れなくて、あんなに寂しそうな目をしてたんだね……」
「あかり……」
「そんなの、シオンちゃんが悪いんじゃないよ! シオンちゃんをそんな目に遭わせて、閉じ込めてた大人たちが全部悪いんじゃん!」
灯里はぐっと身を乗り出し、もう一度、シオンの小さな体を自分の胸のなかへと抱きしめた。
自分の心臓の音が、シオンの耳にちゃんといっぱい届くように、今までで一番強く抱きしめる。
「それにね、考えてみてよ! 石も鉄も魔法もぜんぶ壊れちゃうのに、どうしてあたしだけは、シオンちゃんにどれだけ触っても、こうしてぎゅーって抱きしめても、ぴんぴんしてると思う?」
「……わ、わからない」
「あたしにも理由はわからないけど……でもね、これだけはぜったいにわかるよ!」
灯里はシオンの銀髪に頬をすり寄せながら、太陽みたいに明るい声で言った。
「それはきっと、あたしがシオンちゃんと一緒にいるために生まれてきたからだよ! 世界中の誰もシオンちゃんに触れなくたって、あたしひとりが触れるなら、それでじゅうぶんじゃない!」
シオンの赤い瞳が、大きく揺れた。
胸の奥の、ずっと冷たくて空っぽだった場所が、あかりの言葉と体温でいっぱいになって、じんじんと痛いくらいに熱くなる。
「これから先、シオンちゃんが綺麗なお花に触りたいときは、あたしが一緒に手を添えてあげる! 猫ちゃんを撫でたいときも、おいしいご飯を食べたいときも、ぜんぶあたしが手を持ってあげる! だから、シオンちゃんはもう、自分の手を『化け物』なんて呼んじゃだめだよ!」
「……ほんとうに、ずっと、一緒にいてくれるの?」
シオンは、灯里のジャケットの背中に小さな指先を食い込ませながら、かすれた声で尋ねた。
「誰かに、わたしのことがバレて、あかりまでいじめられても……手を、離さない?」
「あたりまえでしょ! あたしはF級の落ちこぼれだけど、一度握った友達の手だけは、世界がひっくり返ったって離さないんだから!」
灯里はにっこりと笑うと、シオンの体から少しだけ顔を離し、自分の右手の「小指」を、シオンの目の前にぴんと立てて差し出した。
「ほら、シオンちゃん。これがね、絶対に破っちゃいけない約束をするときにする『指切りげんまん』っていう魔法の契約だよ!」
シオンは、目の前に差し出された灯里の小さな小指を見つめた。
「……契約?」
「うん! あたしたちだけの、秘密の契約! 1つ、あたしはどんなことがあっても、一生シオンちゃんの手を離さないこと! 2つ、シオンちゃんのこのすごい力は、あたしたちだけの秘密にして、他の人にはぜったいに内緒にすること! そして3つ……これからも毎日、一緒にあたたかいご飯を食べて、一緒に眠ること!」
灯里が小指をちょいちょいと揺らして微笑む。
シオンはしばらくその指を見つめたあと、自分の白い右手をゆっくりと持ち上げ、小さな小指を立てて、灯里の小指にそっと絡ませた。
冷たい指と、あたたかい指が、しっかりと重なり合う。
「指切りげんまん、嘘ついたらハリセンボン飲ーます……ゆび、きった!」
灯里が楽しそうに歌うように言って、最後に繋いだ小指のまま、自分とシオンの親指を、ぴたりと合わせた。
「これで契約完了! 今日からあなたは、あたしの大事な家族だよ、シオンちゃん!」
夕日が川の向こうへ沈みゆく最後の光が、小指を絡ませた2人の少女の影を、土手の上に長く、ひとつに重ねて映し出していた。
「……うん。わたし、約束する」
シオンは、絡ませた小指から伝わる確かな熱を感じながら、赤い瞳の奥に静かで揺るぎない光を宿した。
あかりは「一生手を離さない」と約束してくれた。
ならば、シオンの側の契約はひとつだけだ。
これから先、もしもこの不条理な世界が、あかりの笑顔を曇らせようとするなら。神様だろうと、魔法少女だろうと、どんな化け物だろうと……あかりの知らないところで、この手でぜんぶ「殺して」、あかりとのあたたかい日常を守り抜く。
それが、死の少女が初めて自分の意志で結んだ、甘くて残酷な秘密の契約だった。
……そして、同じその時刻。
茜色に染まる川辺から遠く離れた、廃工場地帯の空高くにそびえる錆びついた電波塔の頂上。
冷たい夕風が吹き荒れる鉄骨の上に、漆黒のロングコートをなびかせた男……内部監査局のA級特務審問官、『猟犬』こと黒崎司がひとり立っていた。
黒崎の足元には、上空から周辺の街全域の魔力波長を監視するための、いくつもの探知魔導具が展開されている。
「……監査官殿。第12区および第14区の監視網からは、依然として反応は検出されていません。やはり、すでに街の外へ逃亡したのではないでしょうか」
後ろに控えていた部下が報告した、ちょうどそのときだった。
ピピッ……ジジジジッ!
黒崎が左手のひらに乗せていた、黒鉄の羅針盤が、突如として激しい警報音を鳴らして震え出した。
今まであてもなく揺れていた銀色の磁針が、まるで血の匂いを嗅ぎつけた猟犬のように、勢いよく回転し……夕日が沈みかけた南西の方角、すなわち『旧市街エリア』の一点を、ピタリと指し示して止まったのだ。
「……ほう?」
黒崎の爬虫類のような細い瞳が、歓喜にぎらりと見開かれた。
黒崎は羅針盤のガラス面を指先で愛おしそうに撫で、眼下に広がる古い街並みを見下ろした。
夕暮れの闇が迫る街のあちこちに、ぽつり、ぽつりと家の明かりが灯り始めている。
「逃げてなどいるものか。あの化け物は、今もあの薄汚い第13区のどこかに潜んで息をしている」
黒崎司の口元が、三日月のように残忍に裂けた。
「見つけたぞ、『被験体0号』。……さて、まずはどこのネズミの巣から燻り出してやろうかな」




