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第20話 二人だけの秘密

夕暮れの風が、川面を撫でてゆっくりと吹き抜けていく。


古い商店街と住宅街の境目を流れる大きな川の土手は、西の空に沈みかけた大きな夕日に照らされて、見渡すかぎり鮮やかな茜色に染まっていた。


ススキの穂が金色の光を弾きながらさらさらと揺れ、川の水面には砕けた宝石のような赤い光がいくつも浮かんでいる。


その長い土手の遊歩道を、灯里と白銀の少女は、お互いに片方の手をしっかりと繋いだまま、ゆっくりと並んで歩いていた。


さっき商店街の入り口で買った『イチゴ生クリームクレープ』は、ついさっき最後のひとくちを少女がぱくりと食べて、今はもう空っぽの包み紙が灯里のポケットにしまわれている。


周囲にはもう、意地悪な目を向けてくる支部の魔法少女たちもいなければ、通りすがりの通行人の姿もなかった。


「もうここまで来れば誰もいないから、フード、外しても大丈夫だよ」


灯里が立ち止まり、繋いでいない方の左手を伸ばして、少女が被っていたフードをそっと後ろへ下ろしてあげた。


ふわり、と。


フードのなかにしまわれていた長い銀髪が解き放たれ、夕暮れの風を受けて、まるで赤く染まった絹糸のように美しく波打った。


少女は少しだけ眩しそうに赤い瞳を細め、茜色の空と、きらきら光る広い川面を交互に見渡した。


「……きれい」


少女の小さな唇から、甘いクリームの香りと一緒に、感嘆の吐息がこぼれた。


今朝の夜明けに見た金色の光も綺麗だったけれど、こうして空も雲も水もぜんぶが温かいオレンジ色に溶けていく景色を見るのは、やはり生まれて初めてのことだった。


「えへへ、そうでしょ! あたしね、パトロールや支部のお仕事で嫌なことがあった日は、いつも帰りにこの土手を歩いて、この夕日を見るのが大好きなんだ」


灯里は夕日に目を細めながら、ふと思い出したように「あっ!」と声を上げた。


そして、隣に立つ少女の方へと向き直り、少女の小さな両手を自分の両手で包み込むように握った。


「そうだ! 今朝お家に帰るときに約束したのに、まだ一番大事なことを決めてなかったよ!」


「……大事なこと?」


「うんっ! あなたの『お名前』だよ!」


灯里が琥珀色の瞳を輝かせて言うと、少女はぱちくりと赤い瞳を瞬かせた。


「お名前……」


「そう! いつまでも『あなた』とか『女の子』って呼ぶわけにはいかないし、あの悪い大人たちがつけた『0号』なんて番号は、今日でもうおしまい! これからは、あたしと2人で暮らすんだから、ちゃんとかわいい名前がなくちゃね!」


灯里はうーん、と小首をかしげながら、夕日のなかで揺れる少女の銀髪と、静かで澄み切った赤い瞳をじっと見つめた。


するとそのとき、2人の足元……土手の斜面に生えた草むらのなかで、小さな薄紫色の花がいくつか、夕風に揺れて咲いているのが目に入った。


秋から初冬にかけて、道端や川辺でひっそりと、けれど凛として咲く、優しい色をした野の花だ。


「あ……『紫苑(しおん)』のお花だ」


灯里は目を丸くして、その薄紫色の花を見下ろした。


「むかしね、孤児院の先生が教えてくれたことがあるの。このお花は『シオン』って言ってね、花言葉は『あなたを忘れない』なんだって」


灯里はそこから視線を戻し、少女の透き通るような銀髪と、少しだけ不思議そうにこちらを見上げている赤い瞳を見つめた。


優しくて、静かで、まるで綺麗な詩(うた)の音色みたいな雰囲気を持った女の子。


それに、『0号』と呼ばれていたこの子が、過去の冷たい記憶ではなく、あたたかい思い出だけを忘れずに生きていけるように。


「……ねえ。『希音(シオン)』ってどうかな?」


灯里は、宝物を差し出すような優しい声で言った。


「希望の『希』に、音楽の『音』って書いて、『シオン』! あなたの声、鈴の音みたいにすごく綺麗だし、これからあたしと一緒に、希望がいっぱいの毎日を過ごせますようにって……どう、かな? 気に入らなかったら、別の名前を考えるけど……」


灯里がちょっぴり自信なさげに頬を掻くと、少女は、じっと灯里の顔を見つめたまま動かなかった。


「……し、おん」


少女の小さな唇が、その音を、ひと文字ずつ確かめるようにゆっくりと紡いだ。


『検体』。

『被験体0号』。

『化け物』。


生まれてから今日まで、自分が呼ばれたことのある言葉は、その3つだけだった。

どれも冷たくて、硬くて、自分を白い箱のなかに閉じ込めるための記号でしかなかった。


けれど今、目の前のあたたかい人がくれた『シオン』という音は、夕暮れの風みたいに柔らかくて、さっき食べたクレープみたいに甘くて、胸の奥がじんわりと熱くなるような響きをしていた。


「……シオン。わたしの、名前……」


少女……シオンは、灯里に握られた自分の手を見つめ、それからゆっくりと顔を上げて、灯里の琥珀色の瞳を見つめた。


そして、今までずっと人形のように動かなかったその白い頬が、ほんのわずかだけ、ふわりと柔らかく緩んだ。


春の初めに、凍っていた雪のつぼみがほんの少しだけほころぶような、とても小さくて、けれど紛れもない本物の「微笑み」だった。


「……うん。すき。……ありがとう、あかり」

「――っ!」


その笑顔と、初めて呼ばれた自分の名前を聞いた瞬間、灯里の心臓がドキンと大きく跳ねた。


顔が一気に熱くなり、灯里は思わず片手で自分の口元を押さえた。


「う、うわぁぁ……っ! 今、笑った! しかも『あかり』って呼んでくれたぁっ!」


灯里は感激のあまり、シオンの両手を握ったままその場でぴょんぴょんと跳ねた。


「シオンちゃん、笑うとこんなに可愛いんじゃない! もうっ、これからは毎日いっぱい笑わせちゃうからね、シオンちゃん!」

「……うん。あかり」


シオンはもう一度、その響きが気に入ったように、灯里の名前を小さく呼んだ。


『あかり』。


口に出すだけで、なんだか舌の上までぽかぽかと温かくなるような、不思議な名前だと思った。


灯里はしばらくのあいだ嬉しそうに笑っていたが、やがて夕風がすこし涼しくなってきたのに気づくと、「ちょっとあそこに座ろうか」と言って、土手の斜面にあるコンクリートの階段へとシオンを連れていった。


2人で並んで階段に腰を下ろし、赤く染まる川面を眺める。


しばらくのあいだ、ちゃぷん、という川の水音と、遠くを走る電車の音だけが静かに流れた。


そして。

灯里は、自分の隣でちょこんと膝を揃えて座っているシオンの横顔を、いつになく真剣で、けれどどこまでも優しい目で見つめた。


「……ねえ、シオンちゃん」

「なに、あかり?」

「あたしね、頭があんまり良くないから、難しい理屈とかはぜんぜんわからないんだけど」


灯里は、シオンの小さな左手を自分の両手で包み込み、その白い指先をそっと撫でながら言った。


「さっき支部の外で、シオンちゃんが『あのまま触らせてくれたら、もう二度と意地悪できないようにしてあげたのに』って言ったでしょ?」


シオンの長いまつ毛が、ぴくりと揺れた。


「それに、あの魔人がシオンちゃんの指先に触れた瞬間に砂になって消えちゃったことも。お家の玄関で、ガラスのコップとお花が黒い砂になっちゃったことも……あたし、ずっと考えてたの」


灯里の声には、責めるような響きはひとかけらもなかった。


ただ、大切な友達がひとりで抱えている重たい荷物を、どうにかして半分持ちたいと願うような、まっすぐな温かさだけがあった。


「シオンちゃんが、道端の猫ちゃんやお花に触れないのも、あたしが手を離すとすぐに不安そうな顔をするのも……もしかして、シオンちゃんの手は、触れたものを壊しちゃうだけじゃなくて、生きているものの『命』まで奪っちゃう力があるからなの?」

「……」


シオンの唇が、きゅっと引き結ばれた。


灯里の手のなかにあったシオンの小さな指先が、目に見えてぴんと硬く強張る。

やっぱり、気づかれてしまった。


シオンの胸の奥に、あの玄関でコップを壊してしまったときよりもずっと深くて暗い、氷のような恐怖がひたひたとせり上がってきた。


言いたくなかった。


このあたたかい人にだけは、自分がどれだけ恐ろしい生き物なのか、知られたくなかった。


だって、知ってしまったら。


自分が、あの暗い地下室でたくさんの大人たちを殺して、自分を助けに来てくれた黒い髪のお姉さんや白い服のお姉さんたちまで、ぜんぶこの手で殺してしまった「死神」だと知ってしまったら。


きっと、あかりも怖がる。


せっかくくれた『シオン』という名前を取り上げて、このあたたかい手を振り払って、どこかへ逃げていってしまうかもしれない。


けれど……シオンは、あかりに嘘をつくことだけは、どうしてもしたくなかった。


「……見てて」


シオンは短くそう言うと、灯里の手から、自分の左手をすっと引き抜いた。


「えっ……? シオンちゃん?」


驚く灯里を残して、シオンはコンクリートの階段から立ち上がり、数歩離れた川岸の護岸……長年川の水を受け止めてきた、大人の背丈ほどもある分厚いコンクリートの塊の前へと歩いていった。


そのコンクリートの脇には、頑丈な鉄の柵が埋め込まれ、足元には生命力の強い雑草が青々と茂っている。


シオンは一度だけ後ろを振り返り、階段に座っている灯里を見た。


夕日の逆光のなかで、自分の白い髪が風に揺れている。


「あかりは、そこから動かないで。……近づいたら、危ないから」


シオンはそう言って、自分が羽織っていた灯里のお下がりのパーカーの袖を、肘のあたりまでたくし上げた。


露わになった白磁のような細い腕。


灯里の体温と魔力が染み込んだパーカーから離れた途端、シオンの素肌から、本来彼女が持っている絶対の『死(タナトス)の能力』が、冷たい蜃気楼のように音もなく溢れ出した。


シオンはゆっくりとしゃがみ込み、自分の白い右手の人差し指を、分厚いコンクリートの護岸ブロックへと、そっと押し当てた。


――ぱきり。


夕暮れの河原に、小さな乾いた音がひとつ響いた。


次の瞬間、灯里の目の前で、信じられない光景が起きた。


どんな大水や衝撃にも耐えるはずの巨大なコンクリートの塊が、シオンの小さな指先が触れたその一点から、まるで最初からただの砂で固められた城だったかのように、一気に灰黒色へと変色したのだ。


ひび割れる音すら鳴らなかった。


ざぁぁぁっ……と。


巨大なコンクリートの塊も、そこに深く埋め込まれていた極太の鉄の柵も、足元に生えていた青い雑草も……シオンの指先から広がった目に見えない『死』の波紋に呑み込まれて、ほんの一瞬のうちにサラサラとした黒い砂の山へと変わり、川風に乗って呆気なく崩れ落ちてしまったのである。


あとには、ぽっかりと抉れたように平らになった地面と、風に舞う黒い砂埃しか残っていなかった。




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