第19話 剥き出しの傲慢
「あら、わたくしを誰だと思って? 名門・西園寺の人間が、下々の者の小銭まで全部取り上げたりはしませんわ。ほら、討伐報酬の8割と危険手当はわたくしの口座に引き継ぎましたけれど、残りの『死体発見手当』として、端数の小銭だけはあなたに残してあげてよ。わたくしの慈悲に感謝なさいな!」
窓口の小さなトレイに、チャリン、と硬貨と少額の紙幣が数枚だけ吐き出された。
本来の報酬の1割にも満たない、戦闘服の繕い代にすら足りないような、あんまりな金額だった。
「そんな……」
灯里が言葉を失ってトレイを見つめていると、西園寺は満足そうに髪を払い、くるりと背を向けかけた……が、そこでふと、灯里のすぐ後ろに立っている小さな影に目を留めた。
「……あら? なに、その後ろの薄汚い子は」
西園寺の細い眉が、不快そうにピクリと寄った。
「ちょっと日向。ここは誇り高き協会の支部ロビーよ? 部外者の立ち入りは原則禁止のはずだけれど、そのヨレヨレのパーカーを被ったちんちくりんはいったい誰なの?」
西園寺が、カツ、カツ、とヒールを鳴らして、灯里の後ろにいる少女へと歩み寄ってきた。
「あ、あのっ、この子はあたしの遠い親戚の子で、今日だけちょっと預かってて……っ!」
灯里は咄嗟に嘘をつき、自分の体で少女を隠すようにして一歩前へ出た。
だが、西園寺は鼻で笑うと、取り巻きの2人と一緒に灯里を上から見下ろした。
「親戚ぃ? ふふっ、自分の家賃すらまともに払えないF級の貧乏人が、よくもまあ余計な居候なんか抱え込めたものね。どうせ、どっかの路地裏で似た者同士の宿無しでも拾ってきたんでしょう?」
西園寺はそう言いながら、フードを目深に被って微動だにしない少女の前に立ち、白いシルクの手袋をはめた右手を、無造作に少女の頭へと伸ばした。
「ちょっとあなた、目障りだからその気味の悪いフードをお取りなさいな。顔を見て……」
その瞬間だった。
フードの深い影の奥で、ガラス玉のような赤い瞳が、ぎろり、と冷たく光った。
ロビーの華やかな空気が、少女の足元から、すうっと凍りついたように変質する。
少女は逃げるどころか、西園寺が伸ばしてきた白い手袋の指先を、まっすぐに見つめ返していた。
……この女の人、きらい。
灯里の大事なものを奪って、灯里を悲しい顔にさせて、そのうえ灯里の匂いがついたこのパーカーに、汚い手で触れようとしている。
いいよ。触ればいい。
その手が髪や頬にほんの少しでも触れた瞬間、そのうるさい口も、意地悪な目も、胸のなかで光っている綺麗な石も、ぜんぶその場で砂にして殺してあげるから。
少女がほんのわずか、顎を上げて西園寺の指先を迎え撃とうとした……まさにその紙一重の刹那。
「わわっ、すみません西園寺先輩! この子、すごい人見知りで、知らない人に触られると噛みついちゃうんですっ!」
灯里が悲鳴のような声を上げて、西園寺の手が少女のフードに触れるほんのわずかな手前で、少女の小さな体を両腕でガバッと抱きすくめ、そのまま後ろへと大きく飛び退いた。
パシッ、と西園寺の手が空を切る。
「……っ、なによ、気味の悪い!」
空振りをさせられた西園寺は、プライドを傷つけられたように顔をしかめ、自分の手袋が汚れたかのようにパンパンと払った。
「まあいいわ、そんな口のきけないドブネズミみたいな子どもに触ったら、わたくしの手が腐ってしまいますものね! さあ、行きますわよ2人とも。こんな貧乏臭い連中と同じ空気を吸っていたら、お肌のツヤが悪くなってしまいますわ!」
「「はいっ、西園寺お姉様!」」
高笑いを残して、西園寺と取り巻きの2人はロビーの奥のエレベーターへと消えていった。
残された灯里は、少女を抱きしめたままホッと大きく息を吐き出し、トレイに残されたわずかな小銭を拾い集めると、逃げるようにして自動ドアから外へと飛び出した。
「はぁ……っ、あ、あぶなかったぁ……!」
支部から少し離れた並木道まで来てから、灯里はようやく足を止め、胸を撫で下ろした。
もしあそこで西園寺がフードを取っていたら、この子の人間離れした銀髪が見られて騒ぎになっていたかもしれない。何より、今朝の玄関のコップのことを思えば、灯里が触れていない部分……少女の素肌に西園寺が直接触れてしまったら、いったいどうなっていたか想像するだに恐ろしかった。
すると、灯里の腕のなかにいた少女が、フードの隙間から赤い瞳を覗かせて、じっと灯里の顔を見上げた。
「……どうして、止めたの?」
「え?」
「あの人、あなたをいじめてた。……あのまま触らせてくれたら、もう二度と、あなたに意地悪できないようにしてあげたのに」
少女が、まるで「どうしてゴミを捨てさせてくれなかったの?」とでも聞くような、あまりにも自然で静かな声で言った。
灯里は一瞬、目を丸くして固まった。
この子が言っている「二度と意地悪できないようにする」というのが、どういう意味なのか。今朝の魔人やガラスのコップを思い返せば、わかりすぎるほどよくわかった。
けれど、灯里は怖がるどころか、ふっと優しい顔になって、その場にしゃがみ込んだ。
そして、少女のフードを少しだけ後ろへずらし、その小さな白い頬を両手でそっと挟んだ。
「ありがとう。あたしのために怒ってくれたんだよね」
灯里の声は、夕暮れの風よりもずっと柔らかかった。
「でもね、いいんだよ。あの人たちはちょっと意地悪だけど、あたしのお金をちょっと取ったくらいで、命まで取っちゃったら、あとであなたのことが大勢の人に追いかけられちゃうから」
「……わたしは、追いかけられても平気。みんな、殺せるから」
「あたしが平気じゃないの!」
灯里は、少女の赤い瞳を真っ直ぐに見つめて言った。
「あたしはね、あなたに、誰からも怖がられないで、あたしと一緒に普通のご飯を食べて、普通にお昼寝して、いっぱい笑って暮らしてほしいの。だから、あんな人たちのために、あなたの綺麗な手を使っちゃだめだよ。ね?」
少女は、自分の頬を包む灯里の温かい手のひらを感じながら、ぱちくりと瞬きをした。
『あなたの綺麗な手』。
これまで、研究所の大人たちはみんな、少女の手を「呪われた手」「悪魔の兵器」と呼んで忌み嫌った。
それを「綺麗だ」と言って、自分のために使わないでくれと頼んでくれた人は、この広い世界で灯里ただひとりだった。
「……あなたが、そう言うなら」
少女は、灯里の手のひらに頬をすり寄せながら、小さく呟いた。
「わたし、がまんする。……あなたが『いいよ』って言うまでは、殺さない」
「あはは、物騒な言い方だなぁ! あたしは一生『いいよ』なんて言わないからね!」
灯里は元気に笑い飛ばすと、立ち上がって、自分のポケットからさっきの窓口で受け取ったばかりの小銭を取り出した。
手のひらに乗った、ほんの数枚の硬貨。
「うーん……ほんとは今日のお金で、あなたの新しい靴と、お布団をもう1組買ってあげるつもりだったんだけどなぁ。これっぽっちじゃ、スーパーの特売のお肉を買うくらいしかできないや。ごめんね、あたしがもっと強い魔法少女だったらよかったのに……」
灯里が申し訳なさそうに肩を落とすと、少女は首を横に振って、灯里の手をぎゅっと握った。
「新しい靴、いらない。……あなたの靴が、いい。お布団も、1つの方が、あたたかいから好き」
「っ……!」
予想もしていなかった少女の言葉に、灯里の顔がぱっと赤くなり、それから泣き笑いみたいにクシャリと歪んだ。
「うぅ……なんて可愛いこと言ってくれるのぉ! よーし、じゃあ今日は特別に、帰り道でとびっきり美味しいものを半分こして食べよう!」
灯里が少女の手を引いて向かったのは、商店街の入り口に止まっていた、ピンク色の可愛らしいクレープの移動販売車だった。
甘いバニラと、焦げたバターの香りが、夕暮れの通りにふんわりと漂っている。
灯里はなけなしの小銭から1枚を店員さんに渡し、焼きたての生地にホイップクリームと真っ赤なイチゴがたっぷり詰まった『イチゴ生クリームクレープ』を1つだけ買った。
「ほら、見て! これがクレープっていうお外の甘いお菓子だよ! 紙のところはあたしが持ってるから、上からがぶって食べてみて!」
人通りの少ない街角のベンチの陰で、灯里が白い紙に包まれたクレープを、少女の口元へと差し出した。
少女はフードの下から、白くてふわふわした雲みたいなクリームと、自分の瞳と同じくらい赤いイチゴを見つめた。
そして、小さな口を開けて、ぱくり、と一番上のイチゴと生クリームに噛みついた。
口のなかに、しゅわっ、と夢みたいに甘い雪が溶けていく。
甘酸っぱいイチゴの果汁と、まだほんのり温かいモチモチの生地が絡み合って、今朝食べたシチューとはまた違う、頬っぺたが落ちてしまいそうな幸せな味が広がった。
「……っ。……あまい」
少女は口元に白いクリームをちょこんとつけたまま、赤い瞳をきらきらと輝かせて灯里を見上げた。
「おいしい……!」
「ふふっ、でしょでしょ! 口の横にクリームついてるよ、ほら!」
灯里は指先で少女の頬についたクリームをそっと拭って、そのまま自分の口へひょいと入れて舐めたあと、「次はあたしの番ね!」とクレープの反対側を口で頬張った。
「んーっ! やっぱり甘いものを食べると、嫌なことなんてぜーんぶ忘れちゃうね!」
西園寺に報酬を横取りされた悔しさも、支部の冷たい視線も、隣でもぐもぐと幸せそうにクレープを食べているこの小さな少女の顔を見ているだけで、全部どこかへ吹き飛んでしまう気がした。
2人は1つのクレープを交互にかじり合いながら、夕日に染まる商店街を抜け、赤い光がキラキラと反射する帰り道の川沿いの土手へと歩いていった。




