第23話 可愛さ100倍
ぱきり、という音は鳴らなかった。
布地が白く色褪せることも、黒い砂になって崩れ落ちることもない。それどころか、布地のなかに込められた灯里のあたたかい微光魔力が、シオンの指先から滲み出る『死』を優しく包み込んで、やわらかな手触りをそのままシオンの肌に伝えてくれたのだ。
「……っ! 壊れない……!」
シオンの赤い瞳が、ぱっと大きく見開かれた。
シオンはおそるおそる、両方の手のひらで空色のワンピースの布地をぎゅっと握りしめてみた。
それでも、ワンピースはまったく崩れない。
まるで、その服自体が灯里の手のひらの一部になったかのように、ほんのりと温かくて、ふわふわしている。
「やったぁぁっ! 大成功だよ、シオンちゃん!」
灯里は声を殺して小躍りした。
「あたしが1回ぎゅーって魔力を込めれば、きっと何日かは絶対に壊れないよ! さあ、さっそく着替えてみよう!」
灯里は狭い試着室のなかで、シオンが着ていた『葬白の繭』のドレスの上から……いや、『葬白の繭』はシオンの体から完全に引き剥がすことができないため、灯里が念入りに魔力を込めた白いインナーをまず肌の上に重ね、その上から空色の爽やかなワンピースを着せてあげた。
不思議なことに、肌の表面が灯里の魔力を帯びた布地に包まれると、黒いゴシック調の『葬白の繭』は役目を譲るように薄い影となってインナーの下へと潜み、あの「ぱきり、しゃりしゃり」という音すら完全に鳴り止んだ。
さらに、白いニーソックスと、ぴったりサイズのストラップシューズを履かせ、最後にくるぶしまである美しい白銀の髪をハーフアップにまとめて、明るい色のリボンをきゅっと結んであげる。
「……はいっ、できたよ! 後ろの鏡を見てみて、シオンちゃん!」
灯里が試着室の大きな鏡の方へシオンの体を向けると、シオンは鏡のなかに映る自分の姿を見て、息を呑んだ。
そこに立っていたのは、暗い地下室の『被験体0号』でもなければ、雨の路地裏を裸足でさまよっていた『死神』でもなかった。
青空みたいに綺麗な空色のワンピースを着て、白い靴下と可愛い靴を履き、銀髪に小さなリボンを飾った……どこからどう見ても、愛らしくて幸せそうな、ひとりの人間の女の子だった。
「……これ、ほんとうに、わたし?」
シオンは自分の胸元の空色の布地と、頭の上で揺れる黄色いリボンに、おそるおそる自分の両手で触れた。
どこに触れても、砂にならない。
「うんっ! すごく可愛いよ、シオンちゃん! お外のお日様の下を歩くのに、これ以上ないくらいぴったりだよ!」
灯里に後ろからぎゅっと抱きしめられて、シオンの白い頬が、ほんの少しだけ桜色に染まった。
会計を済ませて試着室から出てくると、売り場にいた店員さんや通りすがりの買い物客たちが、見違えるように愛らしくなった白銀の美少女の姿に、「まあ、なんてお人形さんみたいに可愛い子なの……」「外国のモデルさんかしら」と感嘆の溜息を漏らして振り返った。
フードを被らなくても、誰からも「化け物」と呼ばれない。
ただ、あかりの隣を、普通の女の子として手を繋いで歩くことができる。
そのことが嬉しくて、シオンは新しく履いたばかりの靴で、あかりの歩幅に合わせて一歩、また一歩と弾むようにデパートの階段を下りていった。
「えへへ、いいお買い物ができたね! まだちょっとだけ小銭が残ってるから、外の広場でアイスクリームを食べてから帰ろうか!」
デパートの1階正面入り口を出たところには、噴水とベンチが並んだオープンテラスの広場があった。
休日の昼下がりの日差しが心地よく降り注ぎ、広場の隅にあるアイスクリームの屋台には小さな行列ができている。
灯里はシオンを噴水の近くの木製ベンチに座らせると、あらかじめ自分の魔力をしっかり込めた紙カップ入りの『イチゴとバニラのダブルアイスクリーム』と、プラスチックのスプーンを買ってきて、シオンの隣に腰を下ろした。
「はい、シオンちゃん! あたしの魔力を込めておいたから、自分でカップとスプーンを持っても大丈夫だよ!」
「……じぶんで?」
シオンは目を丸くして、灯里から渡された小さなカップと、スプーンを自分の両手で受け取った。
昨日の夜も、今朝のシチューも、お皿やスプーンはぜんぶ灯里に持ってもらっていた。あの白い部屋のなかで最後に自分の手でスプーンを持ったときは、食べる前にスプーンごと黒い灰にしてしまったからだ。
けれど今、シオンの小さな指がつまんでいるピンク色のスプーンは、ひびひとつ入ることなく、しっかりと形を保っている。
シオンは自分の手でスプーンを動かし、白いバニラアイスと赤いイチゴアイスをすくって、自分の口へと運んだ。
ぱくり。
「……っ! つめたい……あまい!」
シオンは赤い瞳をきらきらと輝かせて、小さな足をベンチの下でぱたぱたと揺らした。
冷たいのに、あの地下室の鉄の床みたいな嫌な冷たさではない。口のなかでとろりと溶けて、バニラとイチゴの甘い香りが鼻の奥へと抜けていく。
なにより、「自分の手でスプーンを持って、あかりの隣で同じものを食べている」という事実が、シオンの胸をくすぐったいような喜びでいっぱいにした。
「あかりも、たべる?」
シオンが、自分のスプーンでイチゴアイスをすくい、隣で頬杖をついてニコニコと見ていた灯里の口元へと、ちょこんと差し出した。
「えっ、あたしに『あーん』してくれるの!? やったぁ、あーんっ!」
灯里が嬉しそうに口を開けてぱくりと食べ、「んーっ、シオンちゃんに食べさせてもらうと100倍おいしいね!」と満面の笑みを浮かべる。
その笑顔を見て、シオンの口元もまた、ふわりと小さくほころんだ。
……だが、その穏やかな休日の空気は、前触れもなく引き裂かれた。
キイィィィン……ボォンッ!!
頭上の高いところ……百貨店の屋上付近から、ガラスが震えるような不快な魔力の共鳴音と、くぐもった破裂音が響き渡ったのだ。
「えっ……? なに、今の音……?」
灯里がハッとして顔を上げ、デパートの屋上を見上げた。
屋上の縁には、デパートの創業祭を宣伝するための「巨大な丸いアドバルーン」と、それを支える分厚い鉄骨の大型看板が設置されていたはずだった。
しかし今、その巨大なアドバルーンの表面が、血管のようにドクドクと黒紫色に脈打ち、ゴムの皮を食い破って、おびただしい数の気味の悪い触手と、濁ったいくつもの眼球がズルリと這い出してきていたのだ。
「……『擬態型』の魔人!? うそ、どうしてこんな昼間の駅前に……っ!?」
灯里の顔から血の気が引いた。
都市の看板や構造物に紛れ込み、周囲の人間の生活魔力を少しずつ吸い取って成長する、C級相当の寄生型魔人『暴食風船』だ。
よほど長いあいだ誰にも気づかれずに屋上で膨れ上がっていたのだろう。限界まで魔力を溜め込んだ魔人は、ギチギチと嫌な音を立てて膨張すると、屋上のコンクリート壁を触手でバリバリと引き剥がし始めた。
「きゃあああぁぁっ!!」
「ま、魔人だ! 屋上に魔人が出たぞォッ!!」
広場にいた買い物客たちが、一斉にパニックに陥って悲鳴を上げた。
そして次の瞬間。
暴れ狂った魔人が、自分が取り憑いていた屋上の「広告看板」を根元から引きちぎり、本体ごと広場の中央めがけて、真っ逆さまに飛び降りてきたのだ。
ミシミシと音を立てて落下してくる鉄骨の看板は、大型バスよりもさらに大きい。
しかも、その真下には、逃げる途中で転んでしまったらしい若い母親と、風船を握りしめた小さな女の子の親子が、恐怖に腰を抜かして座り込んでいた。




