第2話 崩壊する揺り籠
「が、ガスが……毒ガスそのものが、死滅していく……!?」
「なんだよあれは……化学兵器だぞ!? 生き物ですらないのに、どうして『殺せる』んだよ……!」
マイク越しに、今にも泣き出しそうな研究員の声が聞こえてくる。
「撃て! レーザーを撃てぇっ! 熱量と光なら物質ではない、出力最大で蒸発させろ!」
主任の金切り声とともに、隔離室の四方の壁がガシャンと音を立ててスライドした。
壁の奥からせり出してきたのは、黒光りする巨大な魔導砲の砲口だった。研究所の地下深くにある主魔力炉から直接エネルギーを引き込み、戦車の装甲だろうとA級魔法少女の防壁だろうと一撃で溶かし尽くす、拠点防衛用の大口径陽電子レーザーである。
キィィィン、と耳の奥が痛くなるような高い充填音が響き、すべての砲口が青白く輝き始めた。
少女はその眩しさと高い音に顔をしかめ、座っていた金属の椅子からすっと立ち上がった。
次の瞬間。
「消えろ、化け物ォッ!」
部屋の中央に立つ小さな少女をめがけて、四方から青白い光の奔流が放たれた。
直撃だった。逃げ場など最初からなく、少女自身も避けようとはしなかった。
だが、観測室の大人たちが期待したような大爆発は起きなかった。
部屋を埋め尽くすはずだった閃光は、少女の着ている『葬白の繭』と、その下に覗く白い素肌に触れたところで、嘘みたいにプツリと途切れていた。
火花すら散らない。焦げた臭いもしない。
すべてを焼き尽くすはずの超高熱も、光の奔流が持つ運動エネルギーも、少女という「死の塊」に触れた瞬間にその勢いを殺され、最初から何もなかったかのように消え失せていたのだ。
それどころか。
砲口から少女の体へと真っ直ぐに伸びたレーザーの光が、そのまま「通り道」になった。
少女の体から溢れ出していた高濃度の『死』が、光の筋を伝って逆流し、四方の魔導砲と、正面の分厚い防爆ガラスへと一気に駆け上がったのである。
パキ……パキパキッ……。
乾いた音が、静まり返った観測室に響いた。
主任が目を剥く目の前で、絶対に砕けるはずのない特製の防爆ガラスが、一瞬にして真っ白に濁り、無数のひび割れに覆われた。
そして、ザァァァッ、と砂時計の砂が落ちるような音を立てて、ガラスの壁がフレームごと崩れ落ちた。周囲の白い壁も、オーバーヒートした魔導砲の砲身も、すべてが乾いた灰黒色の砂となって床に堆積していく。
少女を閉じ込めていた白い箱は、跡形もなく消え去った。
砂の山となった壁の向こうから、冷たい空気が観測室へと流れ込んでくる。
立ち尽くす研究員たちのすぐ目の前に、白銀の髪を揺らす小さな少女が、裸足のままぽつんと立っていた。
「あ……あぁ……」
最前列にいた研究員が、声にならない呻きを漏らして後ずさった。
少女は崩れ落ちた砂の山を見下ろし、それから顔を上げて、目の前にいる大人たちを赤い瞳で見つめた。いつもガラス越しに見ていた大人たちが、すぐそこにいる。
「う、撃てっ! 警備班! 強化兵部隊! あいつを殺せ、近づかせるなァッ!」
主任が狂ったように叫びながら、部下を突き飛ばして部屋の奥の扉へと走った。
その声に弾かれるように、観測室の左右に控えていた武装警備員たちと、黒い重装甲に身を包んだ大柄な魔導強化兵たちが、雄叫びを上げて少女へ飛びかかった。
銃声が鳴り響き、魔力を帯びた無数の銃弾が少女へ殺到する。
けれど、弾丸は彼女の体に届くことすらなく、彼女の周囲の空気に触れただけで鉛の粉になって床へ落ちた。
「オオオォッ!」
銃が効かないと見た2体の魔導強化兵が、床を踏み抜く勢いで跳躍し、唸りを上げる大剣を少女の細い首筋へと振り下ろした。
少女は動かない。ただ、自分の上へ降ってくる大きな影をじっと見上げていた。
パリン、とガラス細工が割れるような軽い音がした。
少女の肩口に触れた2本の大剣は、彼女の白い肌に傷ひとつ付けることなく、根元から粉々に砕け散っていた。
そして、全力で剣を振り抜いた勢いで少女の小さな肩にぶつかってしまった2体の強化兵が、そのまま空中で動きを止める。
分厚い装甲が少女の銀髪をかすめた、ただそれだけで、彼らの装甲のなかに張り巡らされていた魔力回路も、強化された心臓の鼓動も、すべてがぷつりと断ち切られたのだ。
どさり、と重たい音を立てて、2つの巨体が少女の足元に転がった。
「ひっ……! 触れられただけで、強化兵が死んだぞ……!?」
「ば、化け物だ! 逃げるんだ、ここにいたら全員殺される!」
後ろに続いていた警備員たちが、真っ青になって算を乱した。恐怖に駆られて魔導銃を乱射しながら後ずさる者、パニックのあまりナイフを振り回して突っ込み、少女のドレスの裾に触れた途端に糸が切れたように倒れ込む者。
少女は足元に転がった大人たちの体をよけて、ぺた、ぺた、と裸足で砂の上を歩き出した。
誰かを攻撃しようと思ったわけではない。
ただ、ずっと自分を閉じ込めていた壁がなくなって、その向こうに見たことのない長い廊下が続いているのが見えたから、すこしだけ歩いてみたくなったのだ。
観測室を出て廊下に足を踏み入れると、赤いランプが点滅する通路のあちこちで、大人たちが悲鳴を上げながら走っていた。
そのなかのひとり――いつも受け渡し口からトレイを入れてくれていた若い研究員が、足をもつれさせて廊下の隅に転び、壁に背中を押しつけて震えていた。
少女はその前で足を止めると、小さくしゃがみ込んで、青年の顔を覗き込んだ。
「どうして、みんな走ってるの?」
少女は首をかしげて尋ねた。
青年はガタガタと歯の根を鳴らしながら、何かを叫ぼうとしていたけれど、声になっていなかった。少女はそんな彼を不思議に思いながら、震えている青年の手の甲に、自分の小さな人差し指をそっと伸ばした。
ちょん、と白い指先が触れる。
その瞬間、青年の体から震えがぴたりと止まった。見開かれた瞳から光が消え、開いたままの口から力が抜けて、そのまま壁にもたれて動かなくなる。
少女は指を引っ込めて、自分の指先を見つめた。
「……また、眠っちゃった」
スプーンと同じだ、と少女は思った。自分が触ると、なんでもすぐに壊れるか、こんなふうに動かなくなってしまう。
少女は小さく息を吐いて立ち上がると、ふたたび廊下を歩き始めた。
研究所の奥では、逃げ場を失った大人たちが最後の抵抗を試みていた。地上へ続くエレベーターはパニックに陥った幹部たちによって爆破封鎖され、閉じ込められた警備部隊が自動砲台や火炎放射器、果ては主任自らが乗り込んだ大型の魔導装甲機まで持ち出して、通路を歩いてくる小さな影にありったけの砲火を浴びせかけた。
けれど、通路を満たす紅蓮の炎も、壁を砕く機銃掃射も、少女がそこを一歩踏みしめるだけで春先の淡雪のように消えていく。
暴れ回っていた大型の魔導装甲機も、少女が近づいてその脚部の装甲にそっと手のひらを当てた途端、魔力炉ごと真っ黒に風化して崩れ落ち、なかにいた主任の怒号もそこで途絶えた。
どれくらい歩いただろうか。
やがて、酷使されすぎた研究所の主魔力炉が地の底で鈍い音を立てて停止し、天井の照明が奥から順番に消えていった。
けたたましく鳴り響いていたサイレンも途切れ、予備電源で灯る薄暗い非常灯だけが、静まり返った空間をぼんやりと照らし出している。
『冥府の揺り籠』第7地下研究所。そこにいたすべての人間が、自らが作り出した「死」を前にしてひとり残らず命を落としたのだ。
血の匂いすらしない、不気味なほど清潔な死体置き場と化した中央制御ホール。
その真ん中にある金属の階段に、少女はひとりぽつんと座っていた。
膝を抱え、白い裸足の指先を丸める。静寂のなかには、彼女の『葬白の繭』が繰り返す「ぱきり、しゃりしゃり」という微かな音しか残っていなかった。
周りを見渡せば、白衣を着た大人も、黒い服を着た大人も、みんな床の上で目を閉じて動かない。
もう誰も彼女を怒鳴らないし、あの眩しい光で撃ってくることもない。ずっと邪魔だったガラスの壁もなくなった。
それなのに、どうしてだろう。
少女は自分の小さな白い手を見つめながら、胸の奥にぽっかりと冷たい穴が空いたような感覚を覚えていた。
「……また、ひとりになっちゃった」
ぽつりとこぼした声は、誰にも届かずに暗いホールの空気へ吸い込まれていく。
やっぱり、あの白い部屋のなかでじっとしていた方がよかったのかもしれない。そう思って、少女が膝のなかに顔を埋めようとした、そのときだった。
ドォンッ――!
ホールのずっと奥、外の世界へと繋がる換気シャフトを塞いでいた巨大な防爆扉の向こう側から、地響きのような衝撃音が鳴り渡った。
少女はぴくりと肩を揺らし、顔を上げた。
一拍置いて、二度目、三度目の激しい轟音が大扉を揺さぶる。
『冥府の揺り籠』が厳重に封鎖し、これまで一度も開かれたことのなかった分厚い鋼鉄の扉。その隙間の向こうから、この暗い地下には存在しないはずの、目が眩むほど清らかで真っ白な聖光が漏れ出してきていた。
外の世界からやってきた誰かが今、死の静寂に沈んだこの揺り籠の扉を、力ずくでこじ開けようとしていた。




