第1話 すべてを殺す少女
ぱきり、と小さな音がした。
冬の朝に、薄い氷を指先で突いたような乾いた音。
そのすぐあとに、しゃりしゃり、と絹糸がひとりでにほどけて、また編み直されていくような微かな衣擦れの音が重なる。
少女は真っ白な部屋の真ん中で、冷たい金属の椅子にちょこんと腰かけていた。
床に届きそうなほど長い白銀の髪が、肩から滑り落ちて揺れている。小柄で華奢な体には、黒地に白いレースを幾重にも重ねたゴシック調のドレスが着せられていた。首元から手首までを隙間なく覆うその服は、ドレスというよりも、彼女という存在を閉じ込めておくための黒い繭に近い。
少女が息を吸うたび、鎖骨や胸元の素肌に触れている内側の布地が、ふっと色を失って白く風化する。
灰になった繊維がさらさらと零れ落ちるけれど、それが彼女の裸足の甲に届くことはない。崩れたそばから、ドレスに織り込まれた銀色の魔導糸が淡く光り、目にもとまらない速さで新しい布地を縫い上げていくからだ。
彼女が生まれたときからずっと着せられている、無限再生拘束衣『葬白の繭』。
彼女の肌に触れ続けながら形を保っていられるものは、この広い世界のどこを探しても、きっとこの服ひとつだけだった。
「……また、音が鳴ってる」
少女は自分の胸元に手を当てて、すこしだけ困ったように眉を下げた。
誰ともお喋りをしないせいで、たまに出す声はいつも頼りなく掠れている。ガラス玉みたいに透き通った赤い瞳には、天井の無機質な白い照明がぼんやりと映り込んでいた。
ここには窓がない。
昼なのか夜なのかもわからないし、空というものがどんな色をしているのかも、彼女は知らなかった。
ただ、正面の壁一面を占める分厚い防爆ガラスの向こう側に、いつも白い上着を羽織った大人たちが並んでいるだけだ。大人たちは彼女に名前をくれなかった。マイクを通してこの部屋に響く声は、いつだって彼女のことを『0号』、あるいは『検体』と呼んでいた。
それでも、すこし前までは、今よりずっとマシだったのだ。
ガラスの下にある細い受け渡し口から、決まった時間に金属のトレイが滑り込んでくる。その上に乗せられた栄養ペーストのチューブと、重たい鉛色のスプーン。
『葬白の繭』のレースの手袋越しにそのスプーンをつまみ上げて、味のしないペーストをすくって食べるのが、彼女の唯一の退屈しのぎだった。食べ終わるころにはスプーンの柄が白っぽく変色してしまうから、いつも最後は急いでトレイに戻さなければならなかったけれど。
なのに、昨日のことだ。
いつものようにトレイが滑り込んできて、彼女が「いただきます」の代わりに小さく頭を下げ、スプーンの柄に指先を伸ばした、そのときだった。
かつん、という金属の音すら鳴らなかった。
彼女の手袋が触れたところから、対魔合金で作られた頑丈なスプーンが、まるで最初からただの砂の塊だったみたいに、さらさらと黒い灰になって崩れ落ちたのだ。
スプーンだけではない。その下にあった金属のトレイも、受け渡し口のレールも、彼女の指先から広がった目に見えない波紋に呑み込まれて、音もなく錆びついて砕け散った。
その瞬間、防爆ガラスの向こう側で記録を取っていた研究員たちが、椅子を蹴倒して後ろへ飛び退いたのを覚えている。
誰かが悲鳴を上げ、誰かが非常ベルを鳴らした。
分厚いガラスを隔てているはずなのに、大人たちの顔から血の気が引いていくのがはっきりとわかった。彼らはまるで、今にもガラスを食い破って飛びかかってくる猛獣を見るような目で、床に落ちた灰と少女の顔を交互に見ていた。
「……お皿、壊すつもりじゃなかったのに」
少女は椅子の上で両膝を抱え、くるぶしまで垂れた銀色の髪に顔を埋めた。
おなかも、すこし空いている。昨日の夜から、受け渡し口は分厚い隔壁で塞がれたままで、もう新しいトレイは入ってこなかった。
自分が普通の人たちと違っていることは、おぼろげながらわかっていた。
ずっと前、ガラスの向こうで一番偉そうにしている白髪交じりの男――みんなから「主任」と呼ばれている男が、黒い服を着たお客さんたちを連れてきて、嬉しそうに話していたことがある。
「ご覧ください。これこそが我ら秘密結社『冥府の揺り籠』(タルタロス・クレイドル)が、対魔特務機関の魔法少女どもを根絶やしにするために生み出した最高傑作です」
主任はそう言って、ガラスのこちら側にいる少女を指さした。
「魔法少女どもがどれほど強固な防御結界を張ろうと、どれほど強大な治癒魔法を誇ろうと関係ありません。この“被験体0号”が持つのは、あらゆる事象に終わりを与える『死の能力』。生きた肉体はもちろん、魔力も、物質も、概念すらも、この娘に触れれば例外なく死に絶えるのです」
あのとき、黒い服のお客さんたちは満足そうに頷いていた。
いい子にしていれば、いつかこの部屋から出して貰えるのかな、と少女は思っていた。だから、自分のなかにある危ない力が外へこぼれないように、毎日できるだけ息を潜めて、おとなしく椅子に座っていたのだ。
けれど、彼女の体のなかにある「死」は、彼女自身の願いなど聞いてはくれなかった。
眠っているあいだにも、ただ瞬きをしているあいだにも、その力は暗い水底から湧き上がる冷たい水のように膨れ上がっていった。そして数日前、ついに『葬白の繭』に施されていた抑止用の封印術式をすべて内側から食い破り、彼女の肌から外へとじわじわ滲み出し始めたのだ。
チリッ……パチン。
頭上の高いところで、小さな火花が弾ける音がした。
少女が膝から顔を上げて見やると、天井の隅に据え付けられていた監視カメラのレンズに、蜘蛛の巣のような白いひびが入っていた。
カメラの横でいつも小さく光っていた緑色のランプが、ふっと瞬いて、そのまま消えてしまう。
少女はすこしだけ寂しい気持ちになった。この真っ白な部屋のなかで、あの小さな緑色の光だけが、唯一彼女と一緒に起きていてくれるお友達みたいなものだったのに。
だが、防爆ガラスの向こう側にある観測室では、感傷どころではない怒号が飛び交っていた。
「第4カメラもロスト! だめです、魔力回路が自然壊死を起こしています!」
「馬鹿な、カメラは天井の隅だぞ!? あいつは椅子から一歩も動いていないじゃないか!」
「抑止フィールドの出力を上げろ! 300パーセントまで回せ!」
「すでに回しています! ですが、送り込んだ魔力が隔離室の空気に触れた端から『死んで』消えていくんです! 『葬白の繭』の再生が概念の侵食に追いついていません!」
誰かが誤って通信マイクのスイッチを入れたままにしているせいで、観測室のパニックがそのまま少女の耳にも届いていた。
ガラスの向こうで、主任が持っていたコーヒーカップを床に叩きつけるのが見えた。その顔は土気色に染まり、額には脂汗がびっしょりと浮かんでいる。
「……限界か。これ以上放置すれば、この防爆ガラスすら風化して崩れ落ちる」
主任が震える手でコンソールの安全カバーを跳ね上げ、その下にある赤い認証キーをひねった。
「『検体0号』の廃棄処分を行う! 第1段階、高濃度神経壊死ガスを注入しろ! 同時に第2段階の魔導陽電子レーザーも充填を開始! 隔離室ごとあの化け物を焼き払うぞ!」
「し、しかし主任! 本部からは『なんとしても0号を制御下に置け』との厳命が……もし勝手に処分などすれば、我々の首が――」
「黙れ! 本部の連中は、あの化け物が今どうなっているか見ていないからそんなことが言えるんだ! この第7研究所の人間が全滅するよりマシだろうが! いいからやれっ!」
直後、隔離室の照明が真っ赤な非常灯に切り替わった。
けたたましいサイレンの音が部屋いっぱいに反響し、壁の上にあるいくつもの通気口から、シューッ、と音を立てて黒紫色の煙が噴き出してきた。
見るからに禍々しい色をした煙だった。
本来なら、高位魔法少女の強化された肉体であっても、ひと息吸い込めば肺が焼け爛れ、肌に触れれば神経まで腐り落ちるという暗殺用の猛毒ガスである。
あっという間に白い部屋は黒紫色の濃い霧に呑み込まれ、防爆ガラスの向こうにいる大人たちの姿も見えなくなった。
少女は椅子のうえで目をしばたいた。
煙たいのかな、と思って思わず息を止めかけたけれど、その必要はなかった。
四方八方から押し寄せてきた黒紫色の毒霧は、少女が座っている椅子のまわりに近づいた途端、まるで冬の窓ガラスに吐きかけた白い息が消えていくように、すうっと色を失っていったからだ。
毒が、死んだのだ。
生き物の命を奪うために調合された化学物質も、そこに練り込まれた呪いの魔力も、少女の体から絶えず溢れ出している「死」の気配に触れた瞬間、その役目を終えてただの無害な水蒸気と白い粉に変わってしまう。
少女がそっと手を伸ばすと、目の前を漂っていた紫色の霧がぱっと晴れて、きれいな空気の隙間ができた。
毒の霧が晴れたその丸い空間の真ん中で、少女が不思議そうに首をかしげている姿が、防爆ガラスの向こうの観測室からは丸見えになっていた。




