第17話 落ちこぼれの日常
カーテンの隙間から差し込む日差しの色が、昼下がりの明るい金色から、少しだけ赤みを帯びた琥珀色へと変わり始めたころ。
『こもれび荘』202号室の畳の上で、日向灯里は「んんっ……」と小さな声を漏らしてまぶたを開けた。
たっぷり眠ったおかげで、朝方まで全身に残っていた魔人との戦闘の疲れも、泥水に転がったときの打ち身の痛みも、すっかり綺麗に引いている。
それどころか、なんだかすっかり体がぽかぽかして気持ちがいいなぁ……と思いながら身じろぎをした灯里は、自分の胸元に、ふわふわとした銀髪の毛と、小さな女の子の頭がすっぽりと収まっていることに気づいて、ぱちくりと目を瞬かせた。
「……あっ、そっか」
夢ではなかったのだ。
今朝の夜明け前、路地裏で中位魔人『裂爪のギル』に殺されかけた自分を助けてくれた、不思議で可愛い白銀の女の子。
帰る場所も名前もないと言ったその子を、この部屋に連れて帰ってきて、一緒にお風呂に入って、シチューを食べて、そのまま布団で眠ってしまったのだった。
灯里がそっと視線を落とすと、ちょうど少女の方も、灯里が動いた気配に気づいたのか、長いまつ毛をふるりと揺らして、ガラス玉のような赤い瞳をゆっくりと開けたところだった。
「……あ」
少女は、まだ少し眠たそうに目を瞬かせたあと、自分の頬の下にある灯里の胸元を確かめるように小さな手でぎゅっと押さえた。
トクン、トクン、と規則正しく鳴っている心臓の音を聞いて、ほっとしたように赤い瞳が和らぐ。
「えへへ、よく眠れた?」
灯里が頭を撫でながら微笑みかけると、少女は灯里の胸に顎を乗せたまま、こくりと小さく頷いた。
「……あたたかかった。……まだ、生きてる」
「もう、人聞きの悪いこと言わないでよぉ! あたしはいつだって元気いっぱい生きてるんだから!」
灯里はくすくすと笑いながら、布団から上体を起こし、壁に掛けられた古い時計を見た。
針はすでに午後の遅い時間を指している。
「わっ、もうこんな時間だ! いけない、夕方の当直交代の前に、支部へ行って今朝のパトロールの報告書を出してこなきゃ!」
灯里はパジャマの上から着ていた部屋着を脱ぎ、クローゼットから魔法少女協会の支給品である普段着用のジャケットとスカートを取り出して、手早く着替え始めた。
昨日の夜から今朝にかけてのパトロールでは、本来ならC級以上の小隊が当たるべき中位魔人『裂爪のギル』と遭遇し、結果的にそれが討伐されたのだ。
現場の路地裏から回収しておいたギルの魔力残渣……あの灰黒色の砂を詰めた小さなサンプル瓶を添えて支部に報告すれば、危険手当と臨時討伐報酬が出るはずだった。
いつもならスズメの涙ほどしかもらえないF級のパトロール報酬とは違い、中位魔人の討伐ともなれば、滞納しかけていた来月分の家賃を払ったうえで、この子のための可愛い洋服や靴、それに新しいお布団だって買えるかもしれない。
もちろん、目の前の少女が「指先ひとつでギルを砂に変えた」などと正直に報告するつもりは、灯里には毛頭なかった。
そんなことを言えば、協会の上層部がこの子を放っておくはずがない。どんな嘘をついてでも、この子の存在だけは支部の連中に知られないようにしなければ、と灯里は心に決めていた。
「えっとね、あたし、これからちょっとだけ『支部』っていうお仕事場に報告書を出しに行ってくるね」
着替えを終えた灯里は、布団の上にちょこんと座っている少女の前にしゃがみ込み、優しく言い聞かせるように声をかけた。
「すぐ帰ってくるから、あなたはお部屋のなかでテレビでも見てお留守番しててくれる? あ、でもテレビのリモコンは普通に触ると砂になっちゃうかもしれないから、最初から電源を入れておくね!」
灯里がそう言って立ち上がろうとした……その瞬間だった。
くいっ。
灯里のスカートの裾が、後ろから思いがけないほど強い力で引っ張られた。
「……え?」
灯里が振り返ると、白銀の少女が布団の上から膝立ちになり、小さな両手で灯里のスカートの裾をぎゅっと握りしめていた。
さっきまで穏やかだったガラス玉のような赤い瞳が、まるで世界の終わりでも来たかのように大きく見開かれ、必死な色で灯里を見上げている。
「……行っちゃうの?」
「う、うん。お仕事だからね。でも、すぐに帰ってくるよ?」
「いやだ」
少女は、かぶりを振った。
長い銀髪がしゃらりと揺れ、スカートの裾を掴む小さな指の関節が白くなるほど力が込められる。
「……ひとりに、しないで」
かすれた、今にも泣き出しそうな声だった。
「このお部屋、あなたがいないと、わたしが触ったらぜんぶ壊れちゃう。……それに、外には、さっきみたいな大きい怪物とか、意地悪な人がいっぱいいる。あなた、すぐ怪我しちゃうのに、ひとりでなんか行かせない」
少女は布団から滑り降りると、白い裸足のまま灯里の腰にぴたりと抱きつき、そのおなかに顔を埋めた。
生まれて初めて手に入れた、たったひとつの温もりだ。
もしここで手を離してしまえば、このあたたかい人はそのままどこかへ消えてしまって、自分はまた、あの暗い箱のなかと同じ「ひとりぼっち」に戻ってしまうのではないか……そんな子どもじみた恐怖が、少女の胸を締めつけていたのだ。
それと同時に、今朝の路地裏で、ボロボロに傷つきながら小さな盾を張っていた灯里の姿が、少女の脳裏に焼き付いて離れなかった。
この人は、優しくて、あたたかいけれど、とても弱い。自分がそばにいて、悪いものをぜんぶ「殺して」あげなければ、いつか誰かに壊されてしまうかもしれない。
「……わたしも、行く。手を、離さないって、約束した」
おなかに顔を埋めたまま、頑として動こうとしない少女の頭頂部を見下ろして、灯里はしばらく目を丸くしていたが……やがて、困ったように、けれど嬉しそうに目尻を下げた。
「……そっか。そうだよね、いきなり知らないお部屋にひとりきりで置いていかれたら、寂しいし不安だよね」
灯里は少女の華奢な背中をぽんぽんと優しく撫でた。
それに、言われてみればその通りだった。自分がいないあいだに、この子がうっかり部屋の壁や床に手をついて、アパートごと砂にしてしまったら大変なことになる。
「わかった! じゃあ、一緒に行こう!」
少女がぱっと顔を上げる。
「ただし、そのままだとちょっと目立ちすぎちゃうから、変装していこうね。ちょっと待ってて!」
灯里は押し入れの奥をごそごそと探ると、自分が普段からよく着古している、クリーム色の大きめなフード付きパーカーと、履き慣れた厚手の白い靴下、それに柔らかい布製のスリッポンを取り出してきた。
今朝、浴室やタオルで試した通り、灯里が日頃から身につけていて、灯里自身の微弱な魔力と体温がたっぷり染み込んでいる古着ならば、少女が直接身につけても『死』の力に侵食されずに形を保つことができる。
灯里はまず、少女に着せていたTシャツを脱がせて、元通りあの黒地に白いレースのドレス……『葬白の繭』を着せてから、その上に自分のパーカーをすっぽりと羽織らせた。
さらに、小さな白い裸足を自分の膝の上に乗せ、靴下を履かせてから、少しサイズの大きいスリッポンを丁寧に履かせてあげる。
「……あ。足、壊れない」
少女は、自分の足先を包む柔らかい靴の感触に、目を丸くして足首をぱたぱたと動かした。
生まれて初めて履く、「靴」というものの感触だった。
「えへへ、あたしのお古だからちょっとブカブカだけど、裸足で歩くよりはずっと楽でしょ? あとは、このフードを深く被って……よしっ、完璧!」
灯里がパーカーの大きなフードを少女の頭からすっぽりと被せると、人目を引く銀髪も、人形のように整いすぎた白い顔立ちも、フードの深い影のなかにうまく隠れた。
外から見れば、少し背の小さな女の子が、お姉ちゃんのお下がりのパーカーを着て恥ずかしそうに俯いているようにしか見えない。
「支部についたら、先輩たちに目をつけられないように、あたしの後ろに隠れて、できるだけ黙っててね。手はずっと繋いであげるから!」
「……うん」
少女はフードの奥で小さく頷き、差し出された灯里の右手を、自分の左手でしっかりと握りしめた。
こうして2人は、傾き始めた夕日のなか、『こもれび荘』を出て魔法少女協会・第13支部へと向かった。
古い下町エリアから大通りへと出ると、周囲の建物は急に背が高くなり、ガラス張りの近代的なビルが増えていく。
その一角にそびえ立つ、白亜の宮殿のような美しいドーム型の高層ビルが、対魔特務機関・魔法少女協会の第13支部だった。
自動ドアをくぐって1階の中央ロビーへ足を踏み入れた瞬間、ひんやりと空調の効いた空気と、高級なアロマの香りが鼻をくすぐる。
磨かれた大理石の床に、天井から吊り下げられた煌びやかなシャンデリア。ロビーの奥にあるガラス張りのカフェラウンジでは、A級やB級のバッジを胸に輝かせた上位の魔法少女たちが、専属の給仕から香り高い紅茶やケーキのサービスを受けながら、優雅に談笑していた。
そんな華やかな空間に、擦り切れたジャケットを着たF級の灯里と、古着のパーカーを目深に被った小さな少女が足を踏み入れると、周囲の空気があからさまに冷ややかになった。




