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新聞の購読をやめた。無味乾燥な文章とどうでも良い事象の羅列にほとほと疲れてしまった。学生時代はさんざん周りから「社会人になったら新聞を読め」と言われたが、新聞の内容が公私を含め身の回りの役に立ったことなど殆どない。いや、もしかすると一度もないのではないか?政治経済の動向もスポーツ界の一喜一憂も文化人の論評もさしずめ俺には関係ない。間接的には関係するにしても、今すぐ俺がどうこうする必要のある話などない。世界は俺の知らないところで回り、俺はついぞ世界と何の聯関も持たないところで老いて死んでゆくのである。まるでカフカの『城』の主人公の様に、俺は世界の周りを明けても暮れても右往左往しているのみで、一向に中心には辿り着けないのだ。
世界は目まぐるしく変転していると言うけれども、激動の時代だといつでも喧伝されるけれども、結局いつまで経っても俺は変わらない。何の価値もない一人の凡庸な男に過ぎぬ。いつまで経っても同じなら、別に死ぬのも惜しくはない。俺という人間は既に十分経験した積もりである。
氾濫する情報の中に「世の中」が存在するのか、それとも俺にとっては俺が「世の中」なのか、それが問題である。世界の中心とは一体どこにあるのか?それが後者であれば、外部環境を気にする必要などないし、ましてや要りもしない情報を躍起になって追いかける必要もない。一方前者だとすれば…そもそも俺などは必要ないことになる。どちらにしても外界からの圧力を遮断して生きるほかなさそうだ。しかし必ずしもそうできないのは何故だ?
ところで今の時代に至っても家にパソコンがないという者がいる。何も操作が分からないわけではなく、仕事では大いに使っているけれども、家には必要ないという主義の持ち主である。インターネットが無ければ生活すら危うくなる程のネット依存症である俺からすれば、余程不便を強いられている様に思えるのだが、本人にしてみればさしたる不便も感じていないそうなのである。それは考えてみれば当然で、情報の渦中ではなく自分が世界の中心であると考えているまでの事だ。故に自分に関係のない事は知る必要がない。俺もそんな生き方が出来る様になれば良いと思う。けれどもそれは本当に難しい。どうしても、俺にとって情報が不要というよりも、情報にとって俺が不要であるとしか思えぬのである。
世界にアクセスするには、どうして必ず俺の方からアプローチしなければならないのだろうか?世界の方から俺に向かってやってきてくれれば良いのだ。それが叶わぬならば、すなわち俺は世界にとって不要という事に他ならない。世界の為に俺が存在するのでもなければ、俺の為に世界が存在するのでもない。だが俺は生きなければならぬ。そこで俺はあたかも世界の為に存在している様な振りをして、世界に貢献できる様な顔をして暮らさなければならないのである。世界にとって俺は不要であるにも関わらず。人間とは偉大なる不要者である。




