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湯煙が白く立ち込めるサウナ室の最上段。
92度の熱気の中、沙弓はタオルを顔に当てながら深く息を吐き出していた。
隣には、先日サウナで出会った妖怪の少女・おさきが座っている。本来は人間を脅かす怪異の類だが、すっかりサウナの魅力に取り憑かれ、今では沙弓の「サウナ仲間」だ。
「沙弓、今日のサウナ、いつもより温度が低くないかしら? なんだか妙な湿気を感じるわ」
首の縫い目を気にするようにさすりながら、おさきが囁く。
「うーん、確かにちょっとぬるいかも。よし、そろそろ出ようか」
汗を流し、極上の水風呂を堪能した二人は、いつものように外気浴スペースへと向かった。露天エリアの奥、ととのい椅子が並ぶ一角。
しかし、そこに先客がいた。
インフィニティチェアに深く腰掛け、バスタオルを顔にかけた女だ。微動だにせず、リラックスしているように見える。
「あの人、さっきからずっとあそこにいるのよね。私がサウナに入る前から……もう40分以上経つんじゃないかしら」
おさきが首を少し傾げながら呟いた。
「えっ、40分!? それはさすがに長すぎ……」
沙弓は胸に嫌な予感を覚えながら、そっと女に近づいた。
「あの……すみません、大丈夫ですか?」
応答はない。
胸元が上下していない。息をしていないのだ。
沙弓はおそるおそる、女の顔にかけられたバスタオルをめくった。
――青白い顔。落ち窪んだ目。そして、首筋に深く残された、紫色の指の跡。
「ひ、悲鳴を上げないでね、おさきちゃん……死んでる……!」
「死体……!?」
おさきが目を丸くする。沙弓は慌てて周りを見回した。幸い、今の露天スペースには自分たち以外に客はいない。
「警察を呼ばなきゃ……でも、なんでサウナで死体が……? 熱中症や心不全じゃない。首を絞められた痕があるわ!」
沙弓が動揺する中、妖怪であるおさきは、すっと死体に顔を近づけた。首を少し浮かせ、鼻をひくひくさせる。
「ねえ沙弓。この女の人、全身の水分が抜けてカラカラよ。それと……この首の痕、人間の手じゃないわ」
「え……? どういうこと?」
「これは『湿気喰い』の仕業よ」
おさきの声が低くなった。
「湿気喰い……?」
「サウナや蒸気風呂に棲みつく、タチの悪い低級な妖怪よ。人間の汗や体内の水分、そして命の『気』を蒸気と一緒に吸い上げるの。だからこの女の人、皮膚がこんなに干からびているのよ」
沙弓は息をのんだ。サウナという聖なる癒やしの空間を汚す存在に、フツフツと怒りが湧き上がってくるのを感じた。
「許せない……! サウナを殺人の現場にするなんて、サウナーに対する最大の侮辱よ!」
「沙弓、熱くなってる場合じゃないわ。湿気喰いは一度獲物を仕留めると、さらに上質な『汗』を求めて次のターゲットを探すの。そして今、この施設で一番いい汗をかいているのは――」
おさきの視線が、沙弓に向けられた。
シュー……ッ。
突然、露天風呂の湯気が不自然に渦を巻き始めた。
壁の影から、ぬらりと巨大な影が現れる。それは、白く濁った蒸気でできたような、粘つきのある巨大な顔の妖怪だった。落ちくぼんだ目から、ドロリとした液体が滴り落ちている。
『いい汗だ……上質な、ととのった汗の匂いがする……』
湿気喰いが、不気味な声を漏らしながら沙弓へと手を伸ばしてきた。
「沙弓、下がって!」
おさきが前に出ようとするが、相手は実体を持たない蒸気の塊だ。おさきが手をかざしても、霧のようにすり抜けてしまう。
「くっ……実体がない!? 物理攻撃が効かないわ!」
「おさきちゃん、落ち着いて!」
沙弓は周囲を素早く観察した。
サウナ室から流れ出る熱気。水風呂から立ち上る冷気。そして今、露天エリアに吹き付ける秋の冷たい風。
(蒸気……水蒸気……そうだ!)
「おさきちゃん! あいつを水風呂のほうへ追い詰めて!」
「えっ? 水風呂に!?」
「いいから! 私に考えがある!」
沙弓の気迫に押され、おさきは首を急伸ばし、蛇のように湿気喰いの周りを旋回して威嚇した。
『威勢のいい妖気……だが効かぬ!』
湿気喰いは煩わしそうに、沙弓の導く方向――水風呂のスペースへと移動していく。
「今よ!」
沙弓は水風呂の脇に置いてある、サウナハット掛けから大きな扇子(アウフグース用の巨大団扇)を引っつかむと、壁の「あるボタン」を力いっぱい押し込んだ。
――ゴォオオオオン!
水風呂の頭上に設置された、超強力な「スポット冷風機」が唸りを上げて作動した。急激な冷気が水風呂の表面に吹き荒れる。
「おさきちゃん、首の冷気を出して! あの妖怪の周りの温度を極限まで下げるの!」
「分かったわ!」
おさきは首の縫い目から、妖怪特有のゾクッとする冷気を全開で解き放った。
温かい湿気喰いの体に、冷風機と妖怪の冷気が同時に叩きつけられる。
シュウウウウウウウッ……!
「グガッ……!? なんだ……体が……重い……!?」
湿気喰いが悲鳴を上げた。
気体(蒸気)だった湿気喰いの体が、急速な冷却によって結露し、重い水滴へと変わっていく。
「一気に冷やすことで、気体を水に戻す……! これがサウナの『結露原理』よ!」
沙弓は巨大団扇を大きく振りかぶった。サウナ室で鍛え上げられた、完璧なアウフグースのフォーム。
「サウナの平和を荒らす奴は……これで退散しなさいッ!」
バサァッ―――!!
強力な風が叩きつけられると、水滴の塊となった湿気喰いは、そのまま「水温14度の水風呂」へとドボンと叩き落とされた。
『ギャアアアアアッ! つ、冷たいいいいいいっ!!』
温かい湿気を好む妖怪にとって、14度の水風呂は地獄の激冷スープだ。湿気喰いは見る見るうちに水の中に溶け込み、ただの透明な水へと還元されて消えてしまった。
「……ふぅ。」
沙弓は団扇を置き、荒い息を整えた。
「やったわね、沙弓! 見事な撃退劇だったわ!」
おさきが目を輝かせて駆け寄ってくる。
「うん……でも、事件はまだ終わってないよ」
沙弓は悲しそうな目で、横たわる女の死体を見つめた。
「警察に連絡しよう。事故じゃなくて、妖異による事件だって信じてもらえるかは分からないけど……せめて、ちゃんと供養してあげないと」
「そうね……。上がったら、オロポでも飲んで落ち着きましょ」
湯煙が静かに晴れていく。
事件の恐怖と、サウナの熱気が入り混じる不思議な余韻の中、沙弓とおさきは静かにフロントへ向かうのだった。




