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第二章

渡辺と別れたあと、僕はしばらく迷った末、結局そのまま宮川理恵に会いに行くことにした。

一度外へ出てしまった以上、改めて時間を作って訪ねるのも面倒だったし、

何より、あの少女が嘘をついていたと知ってからというもの、僕はずっとこの件が気になって仕方がなかった。

もし答えを見つけられなければ、きっとこの先もずっと引きずることになるだろう。

僕は、そういう面倒くさい人間なのだ。

だが正直なところ、こんな時ほど「車がない」という事実を恨めしく思ったことはなかった。

宮川理恵の勤め先は、僕の住んでいる場所からそれなりに離れている。

今月の生活費はすでにかなり心もとなく、タクシー代に回せる余裕なんてない。

結局、電車で向かうしかなかった。

電車に乗ること自体は、まだ我慢できる。

問題は、その路線が都心を通るうえに、ちょうど退勤ラッシュの時間帯と重なっていたことだった。

車内は人でぎゅうぎゅうに押し込まれ、

その息苦しさに、全身を小さな虫が這い回っているような不快感を覚える。

普段だって、まったく電車に乗らないわけではない。

ただ、学校へ行く時くらいしか利用しないし、僕の住んでいるあたりは少し外れた場所にあるせいで、こんなふうに人で埋め尽くされた車内に遭遇することはほとんどなかった。

それに、もう一つ気がかりなことがあった。

――こんな時間に宮川理恵のところへ行って、もう仕事が終わっていたらどうするんだろう。

さっきまで何を聞くべきかばかり考えていて、肝心のそのことをすっかり失念していたのだ。

車両の隅の座席に身を縮めるように座り、

僕は俯いたまま、ひたすら早く駅に着いてくれと祈っていた。

こういう時、僕はいつも以上に他人の視線が気になってしまう。

実際には、誰も僕のことなんて見ていないはずなのに。

そんなふうに一人で消耗していた時だった。

すぐ隣に立っていた女子高生らしい二人組の会話が、ふと耳に入ってきた。


「見て見て、この動画で紹介されてる場所、お花見にすごくよさそうじゃない?」

「たしかにー」

「来年の春、一緒に行こうよ」


春。

その言葉を聞いた瞬間、僕の意識は不意に過去へ引き戻された。


「春」というのは、昔ネットで知り合った女の子の名前だ。

もちろん本名ではなく、ハンドルネームにすぎない。

けれど、その名前は彼女に不思議なくらいよく似合っていた。

彼女と出会ったのは、小学生の頃だったと思う。

当時の僕は体が弱く、学校を休みがちで、家にこもってばかりいた。

その頃、唯一の楽しみだったのが父の書斎にあったパソコンだった。

父はあまり家にいない人だった。

家にいる時も、ほとんど書斎に閉じこもっていて、僕と会話を交わすことは滅多にない。

けれど、その部屋にはインターネットに繋がったパソコンがあった。

それが僕にとって、外の世界と繋がる数少ない窓だった。

最初はただ動画を見たり、適当にサイトを眺めたりしていただけだった。

やがて、ある掲示板のような場所に辿り着き、そこで春と知り合った。

彼女は、僕より少しだけ年上だったと思う。

少なくとも、話し方からはそんな印象を受けた。

春はよく喋る子だった。

僕が一つ返事を返す間に、彼女はその何倍もの文章を送ってくる。

今日あったこと。見かけたもの。食べたもの。面白かったこと。腹が立ったこと。

そういう他愛のない話を、毎日のように僕へ聞かせてくれた。

今日、道で可愛いぬいぐるみを見つけたこと。

遊園地でメリーゴーラウンドに乗ったこと。

朝、雨上がりに虹が出ていたこと。

蝉の声を聞いたこと。

公園の白鳥に餌をやったこと。

近所の川で釣りをしたこと。

春の話を聞いていると、まるで別の人生を覗き見ているような気分になった。

病気もせず、家に閉じこもることもなく、

ちゃんと外の世界の中で生きている誰かの人生。

僕にとって春は、そういう存在だった。

彼女が話してくれる景色の中で、特に心を惹かれたものがあると、

僕は紙と鉛筆を取り出して、自分なりにその風景を描いてみた。

そして時々、その絵を春に見せた。

すると彼女は、決まってこう言うのだ。


『私が見た景色より、ずっと綺麗だね』


それが嬉しくて、僕はまた描いた。

そうしていつの間にか、

春が話し、僕が描く――そんな奇妙な関係が出来上がっていた。

そのやり取りは、半年以上続いた。

けれど、それは両親の離婚話が持ち上がったことで終わりを迎えることになる。


気がつくと、電車は目的の駅に着いていた。

僕は慌てて荷物を持ち、足早に車両を降りる。

地上へ出てから大きく息を吸い込み、しばらくその場で呼吸を整えた。

それから、渡辺にもらった名刺を取り出し、

スマホの地図を頼りに、一棟の雑居ビルの前までやって来る。

どうやら宮川さんの勤め先は、この中にあるらしい。

……名刺なんて持っているくらいだから、もっと年配の人なのかと思っていた。

そんなことを考えながらビルへ入り、

書かれていた階数までエレベーターで上がる。

心理カウンセリングセンターの看板は思いのほか目立っていて、

迷うことなく入口の前まで辿り着くことができた。

けれど――

いざその扉の前に立つと、急に足が止まった。

ここでそのまま「宮川理恵さんに会いに来ました」と言えばいいのだろうか。

それとも、こういう場所は事前予約が必要なのか。

そもそも、今の自分はちゃんと人に会っていい格好をしているんだろうか。

そんなことを考え始めると、ますます扉に手が伸びなくなる。

しばらく入口の前で立ち尽くし、

入るべきか帰るべきかを一人で延々と天秤にかけていた、その時だった。

不意に、目の前のドアが開いた。

思わず顔を上げる。

最初に出てきたのは、ベージュ色のコートを羽織った女性だった。

まだ若く見える。丸い細縁の黒い眼鏡をかけていて、

目が合った瞬間、どこかひどく疲れているような印象を受けた。

どう声をかけるべきか迷っていると、

その後ろからもう一人、別の女性が出てくる。

白衣にも少し似た白い上着を羽織り、長い髪を高い位置でまとめている。

肩にはショルダーバッグ。

こちらに気づいた彼女は足を止め、僕を見て口を開いた。


「何かご用ですか?」


「……あ、えっと、宮川さんに会いに来ました」


「宮川理恵のことなら、私ですけど」


そう言って、彼女――宮川さんは腕を組んだまま、僕を頭の先からつま先まで一度眺めた。

まるで、僕がどういう人間なのか見定めるみたいに。


「カウンセリングの相談?」


僕は小さく頷き、

渡辺から渡された名刺を差し出した。


「渡辺に紹介されて来ました」


その名前を聞いた瞬間、

宮川さんの表情が少しだけ変わった気がした。

彼女は名刺を一瞥すると、

半ば呆れたように言う。


「せっかく今日はもう上がれると思ってたのに」


「す、すみません……」


「ああ、いいよ。文句を言うなら渡辺に言うし」


僕としては、この時間に来ると決めたのは完全に自分であって、渡辺に責任はないと思う。

けれど、ここでわざわざそんなことを言っても話がややこしくなるだけな気がして、曖昧に頷いておいた。

その時、宮川さんは先に出てきた眼鏡の女性の方をちらりと見て、

困ったように肩をすくめた。

「ごめんね。今日はもう先に帰って。また今度にしよっか」

相手は何も言わず、小さく頷くとそのまま立ち去っていった。

僕の方を一瞥することすらなかった。

……もしかして、二人の食事を邪魔してしまったのだろうか。

そんなことを考えて、僕は急に落ち着かなくなった。

その後、宮川さんは僕を自分のオフィスへ案内した。

数平方メートルほどの狭い部屋で、デスクの上には資料や本が山のように積まれている。何気なく一番上に置かれていた本に目をやると、どれも心理学に関するものばかりだった。デスクの脇にはウォーターサーバーと観葉植物が置かれている。

彼女は紙コップに水を注いで僕に差し出すと、自分は向かいの席に腰を下ろし、軽く机の上を片付けた。

「じゃあ、まずは自己紹介から。私は宮川理恵。心理カウンセラーをやっています」

「……枯木秋生です。こんな時間に押しかけてしまって、すみません……」

「気にしなくていいよ」

宮川さんは柔らかく笑った。

「ちょうどさっき、友達を下まで送ってから戻って残業するつもりだったし」

「そ、そうなんですね……」

僕は視線を落とし、頭を軽く掻いた。

「それで、今日はどうしてここへ?」

宮川さんは水をひと口飲んでから続ける。

「最近、何か困っていることでもあるの?」

僕は無意識に紙コップの側面を指で叩いた。

オフィスの中は静まり返っていて、今この場には僕と宮川理恵しかいない。彼女は急かすこともなく、ただ静かに返事を待っている。その視線を受けていると、またしても誰かに見定められているような気分になった。

「そんなに緊張しなくて大丈夫。ただ少し話を聞きたいだけだから」

僕の様子を察したのか、宮川さんは椅子にもたれながらこちらを見つめた。

「ここまで来ようと思えた時点で、もう十分すごいことだよ」

僕は深く息を吸い、どうにか気持ちを落ち着ける。

それから顔を上げて、彼女を見た。

「最近……少し、おかしなことがあって」

僕は彼女と出会った経緯、彼女がついた嘘のこと、そして渡辺にここを紹介されたことまで、知っている限りをすべて話した。

一度すでに渡辺へ話していたおかげで、前よりは多少まとまりのある説明になったと思う。

それでも宮川さんの表情はほとんど変わらなかった。

ずっと同じ姿勢のまま、最後まで静かに聞いていた。

「……それで、渡辺から名刺をもらって、ここへ相談に来ました」

そこで一度言葉を切り、僕はずっと気になっていたことを口にする。

「あなたは、この話をどう思いますか?

僕は……いったいどういう状態なんでしょう」

ほんの一瞬だけ、彼女がため息をついたように見えた。

けれど宮川さんはすぐに僕を見つめ返し、数秒の間を置いてから、ゆっくりと口を開いた。

「枯木くん、お酒は飲める?」

「……え?」

まったく予想していなかった問いに、僕は間の抜けた声を漏らした。

いろいろな返答を想像していたけれど、まさかそんな質問が返ってくるとは思っていなかった。

「ビールでも、白ビールでも、黒ビールでも何でもいいんだけど。飲める?」

「えっと……飲めますけど……」

僕が「それと何の関係があるんですか」と続けるより先に、宮川さんは立ち上がった。

「じゃあ行こう。ご飯も兼ねて、飲みながら話そっか。ちょうど夕飯の時間だし、私もちょっとお腹すいてるし」

頭の中に疑問符を浮かべたまま、僕は半ば流されるように彼女の後をついていった。

宮川さんは慣れた様子で通りを歩き、そのまま一軒の居酒屋へ入っていく。

ちょうど夕食時だったこともあって、店内はかなり混み合っていた。

あちこちから聞こえてくる騒がしい声に、僕は思わず眉をひそめる。

もっとも、宮川さんは一番うるさい場所を避け、比較的静かな隅の席を選んでくれた。

やがて生ビールが二杯と、いくつかのつまみが運ばれてくる。

宮川さんは箸を手に取ると、小鉢の料理を適当につまんで口へ運び、そのままビールをひと口飲んだ。心底うまそうな顔だった。

「宮川さん……」

さすがに我慢できず、僕は口を挟む。

すると彼女は楽しそうに笑った。

「枯木くん、こういう場所が苦手なの、まったく隠す気ないよね」

「……」

「大丈夫。ちゃんとあとで話すから。とりあえず今は食べよ?」

「こういうのって……職業倫理的に大丈夫なんですか?」

「ん?」

彼女はきょとんとした顔をしてから、すぐに笑った。

「もう勤務時間は終わってるから。今はカウンセラーじゃなくて、友達として話を聞いてるってことで」

「……」

そこまで言われてしまうと、僕もそれ以上は何も言えなかった。

結局、宮川さんに付き合う形でビールを飲み始めることになる。

とはいえ、その間に彼女が聞いてくるのは、どれも拍子抜けするような質問ばかりだった。

「枯木くん、普段は何食べるの?」

「特に好きなものとかないですけど……」

「じゃあ、今は何してるの? 仕事とか」

「まだ大学生です。働いてはいなくて、家でできるバイトを少し」

そんな調子で、取り留めのない質問が次々に飛んでくる。

しかも、出てくる料理はどれも味が濃くてしょっぱいものばかりで、そのせいもあって僕は生ビールを何杯も空けてしまった。

気がつけば、食事が終わる頃にはもう夜の十一時近くになっていた。

店内には酔っ払いばかりが残っている。

……もっとも、今の僕も見た目だけなら彼らと大差ないのかもしれない。

何時間も続けて酒を飲むことなんて滅多にない。生ビール程度とはいえ、頭の中はすっかりぼんやりしていた。

「枯木くん」

ようやく宮川さんが本題に入る。

「あなたの話だけど、一応いくつか心当たりはあるよ」

「……精神の病気、とかですか」

「うーん。じゃあ、まずは私の知ってる人の話をひとつしてもいい?」

宮川さんはそう言って微笑むと、グラスに残っていたビールを一気に飲み干した。

あれだけ飲んでいるのに、顔色ひとつ変わらない。かなり酒に強い人なのだろう。

彼女は軽く咳払いをしてから話し始めた。

「その人は、中学生の頃までずっと人付き合いが苦手で、いつも一人だった。

このまま誰とも深く関わらずに生きていくのも悪くないって、本気で思ってたみたい」

僕は黙って耳を傾ける。

「でも中学を卒業した年の春休み、家でのんびり日向ぼっこしてた時に、突然ある女の子と出会ったんだって。それからあっという間に仲良くなって、その子の助けもあって、高校では友達もたくさんできた」

そこで宮川さんは少し間を置いた。

「だけど、その子を他の友達に紹介しようとした時、いつも会っていた場所に彼女はいなかった。

その後も結局、その子には二度と会えなかった」

話はそこで終わった。

少し唐突な締め方だったけれど、どこか自分の状況に似ている気がして、僕は妙な居心地の悪さを覚えた。

……いや、それだけじゃない。

この話の“その人”が誰なのか、なんとなく見当がついてしまった気もした。

宮川さんはもう一杯ビールを頼んでから、改めて僕を見た。

「今の話、ちょっと自分に似てるなって思った?」

「……まあ、少しは」

「じゃあ聞くけど、あの子と一緒にいる時、枯木くんはどんな気分になる?」

「どんな……?」

「彼女がどんな子か、じゃなくて。

彼女がそばにいる時の“あなた自身の感覚”」

そんな聞かれ方をするとは思っていなかった。

僕は少しだけ言葉を選んでから答える。

「……安心、します」

自分で言っていて妙な気分だった。

けれど、それが一番近い。

「変かもしれませんけど、彼女がいると……他のことを考えなくて済むんです。

人生をどうやってやり過ごすかとか、何をして時間を潰すかとか、そういうことを考えなくていい。

彼女のそばにいると、自分が何をすればいいのか自然に分かる気がするんです」

宮川さんは驚いた様子もなく、小さく頷いた。

「だと思った」

「……どういう意味ですか」

「たぶん、あなたは無意識のうちに、ずっとそういう存在を必要としていたんだと思う。

だからこそ、彼女の存在を受け入れられた」

「必要としていた……?」

宮川さんはテーブルに肘をつき、静かに言葉を続ける。

「さっき、精神の病気かって聞いたよね。もちろん、長い孤独やストレスで精神に不調が出て、幻覚を見るようになること自体は珍しくない。

でも、あなたのケースは少し違う気がするの」

「違う?」

「だって、普通の幻覚がご飯を作ってくれたりはしないでしょ」

そう言ってから、彼女は少しだけ遠くを見るような目をした。

何かを思い出しているようにも見える。

しばらくしてから、彼女は再び口を開いた。

「私はこれ、単なる幻覚よりもう少し特殊な症状なんじゃないかと思ってる。

いわば“空想の友達”を、もっと現実に近い形で見るような症状」

「空想の友達……」

「この仕事を始めてから、似たケースを何件か見たことがあるの。共通しているのは、みんな人付き合いが苦手で、集団や社交から逃げる傾向があること。

でもその一方で、心のどこかではちゃんと誰かを求めてもいる」

「じゃあ……僕も、その症状なんですか?」

「断言はできないかな」

宮川さんは肩をすくめる。

「あなたの場合、発症した時期が遅すぎるのよ。私が知っているケースは、本人の話を聞く限り、だいたい幼い頃に現れて、その後自然に消えていく。

子どもが持つ“イマジナリーフレンド”に近いの。ただ、もっと高度で、ずっと現実味がある」

そこで彼女は僕を見た。

「でも、あなたの場合は大学生になってから突然現れた。だから、単純に精神的な不調によるものって可能性も、まだ否定はできない」

「……」

「正直、今の時点では私も断定できない。

だから当面のアドバイスとしては――あの子のことを“空想の友達かもしれない存在”くらいに考えて、しばらく普通に付き合ってみて」

「付き合うって……」

「その間に私も少し調べてみる。あなたのケースを追っていけば、この症状についてもう少し深く分かるかもしれないし。そうしたら、その時点で改めて治療法を考えましょう」

僕は少し迷ってから、ずっと胸に引っかかっていたことを口にした。

「もし、本当に病気だったとして……治す方法はあるんですか」

「うーん、現時点ではまだ分からないかな」

宮川さんは少し考えるように視線を泳がせる。

「でも、関連する研究をしてる知り合いに聞いてみることはできる。仕組みさえある程度分かれば、治療の可能性は十分あると思う」

「……もし、その間ずっと彼女が現れなかったら?」

僕がそう尋ねると、宮川さんはむしろ不思議そうな顔をした。

「それなら、それでいいんじゃない?」

そう言いながら肩を回し、席を立つ。

「その方が、あなたは元の生活に戻れるでしょ」


その後、僕たちは連絡先を交換し、僕は酔った身体を引きずるようにして帰りの電車に乗った。

終電に近い時間だったせいか、車内にはほとんど人がいない。

その静けさに少しだけ安堵しながら座席に身を預ける。

とはいえ、眠る気にはなれなかった。

宮川さんから聞かされた話は、どれも現実味があるようでいて、どこかひどく奇妙だったからだ。

そして、もう一つ。

もし僕が本当に、ずっと孤独の中で生きてきた人間だったのだとしたら――

なぜ、子どもの頃にはこういう“幻想の友達”が現れなかったのだろう。

考えているうちに、僕の意識は自然と、あの春の出来事へと引き戻されていった。


僕の両親は、最初からお互いを愛していなかったように思う。

それなら、どうして結婚なんてしたのだろう。

子どもの頃の僕には、それがまったく理解できなかった。

物心ついた頃から、二人は食事の時間以外、できるだけ顔を合わせないようにしていた。

片方が八時に家を出るなら、もう片方は七時台に出ていく。

片方が八時に風呂へ入るなら、もう片方は九時に入る。

そんなふうに、驚くほど息の合ったすれ違い方をしていた。

ただ一つだけ共通していたことがあるとすれば、二人とも僕を厄介な存在だと思っていたことだろう。

僕が病気になるたび、どちらが病院へ連れていくかで言い争いになる。

おかげで僕はかなり早い段階から、風邪薬の種類や簡単な症状の見分け方を覚えた。熱を測って、自分で症状を考えて、薬を飲む。

久病に医者いらず――いや、久病にして良医、というべきかもしれない。

そんな二人が今まで離婚しなかったことの方が、むしろ奇跡だった。

けれど僕にとっては、それはあまり嬉しくない知らせだった。

もし本当に離婚したら、春ともう話せなくなるかもしれない。

当時の僕は法律のことなんて何も知らなかったから、家族が壊れて、しかも両親に嫌われている自分は、そのまま施設に送られるのかもしれないと本気で思っていた。

だから、ある考えが頭に浮かんだ。

――春に会いたい。

少しだけでも話したい。

きっと彼女なら分かってくれる。何か助言をくれるかもしれない。

そんな思いで、僕は彼女にメッセージを送った。

「会えないかな。急にこんなこと言ってごめん。

でも、最近ちょっと色々あって……これから先、もう君と話せなくなるかもしれないんだ。だから、一度だけでも会いたい」

どれだけ迷って送ったのかは覚えていない。

けれど送信してすぐ、春から返事が来た。

「いいよ。じゃあ時間と場所を決めようか!」

あの日、僕は本当に浮かれていた。

土曜日の午後に会う約束をして、その夜は布団に入ってからも、ずっと彼女のことを考えていた。

どんな顔をしているんだろう。

会ったらがっかりされるだろうか。

……いや、春は優しいから、きっと大丈夫だ。

そんなことを思いながら、僕はゆっくり眠りに落ちていった。

翌日、僕はこれまで貯めていたお小遣いを全部持って家を出た。

待ち合わせ場所は家から少し遠く、電車なんてほとんど乗ったことがなかった僕には、運賃がいくらかかるのかもよく分からない。

だから、少ないよりは多い方がいいだろうと思って、ありったけ持っていった。

そうして僕は、一人で電車に乗った。

――けれど、運命はひどく意地が悪かった。

僕は駅を間違えた。

ほんの一文字、名前の似た別の駅へ行ってしまったのだ。

到着した時、約束の時間まではまだ少し余裕があった。

せっかく初めて来た賑やかな街並みに、僕はすっかり気を取られてしまった。

しばらくショッピングモールを歩き回っていると、ふと一軒のぬいぐるみ店が目に入る。

春が前に写真で送ってくれた店に、どこか似ていた。

しかも店先には、彼女が「欲しいけど高くて買えない」と言っていたぬいぐるみが飾られていた。

僕は少し迷ってから、ポケットの中の金を数えた。

買っても帰りの電車代はぎりぎり残る。

そう判断して、思い切ってそれを買った。

会えた時に渡したら、きっと喜んでくれる。

そんなことを考えながら、ぬいぐるみを鞄の中へしまう。

けれど、いざ待ち合わせ場所の公園を探そうとすると、地図のどこにも見当たらなかった。

不審に思って通りがかりの人に声をかけると、返ってきたのはこういう言葉だった。

「その公園なら隣の市ですよ。君、場所を間違えたんじゃない?」

頭の中が真っ白になった。

額から汗が流れ落ちる。頭皮がじわりと痺れるような感覚がした。

僕は慌てて駅へ駆け戻り、正しい駅へ向かった。

けれど、たどり着いた頃にはすでに夜だった。

約束の公園には、白鳥が何羽かいるだけで、春の姿はどこにもなかった。

しかも最悪なことに、行き来の交通費で手持ちの金を使い果たし、もう家に帰るだけのお金すら残っていなかった。

駅前に座り込んだ僕は、生まれて初めて本当の意味での無力感を味わった。

通り過ぎる人々の好奇の視線が、僕の内側まで見透かしてくるように思えて仕方がなかった。

あの数畳の部屋に帰りたい。

ただそれだけを、あれほど強く願ったことはなかった。

結局、通りかかった警察官に声をかけられ、僕は家まで送り届けられた。

警察が玄関を叩き、両親がドアを開けた時になって初めて、二人は僕が丸一日いなくなっていたことを知ったらしい。

翌日、僕は春に連絡を取ろうとした。

事情を説明すれば、きっと分かってくれる。

だって、あれだけ長く話してきた相手なんだから。

そう思ってメッセージ画面を開いた僕の目に飛び込んできたのは、たった二文字だけだった。

「嘘つき」

僕は、春にブロックされていた。

……当然だ。

彼女はきっと、あの公園で何時間も僕を待っていたのだろう。僕が来たら何を話そうか考えながら。通りかかる人を一人ひとり見て、もしかしてこの人かもしれないと確かめて、それでも結局僕は現れなかった。

最後には、諦めて帰るしかなかったはずだ。

そう考えると、全部自業自得だった。

今思えば、あの時スマホさえ持っていれば、状況はまるで違ったのかもしれない。

けれど、そんな「もしも」に意味はない。

ちなみに両親の離婚後、僕は父親に引き取られた。

あの書斎もパソコンも、引き続き使うことはできた。

ただ――話し相手だけがいなくなった。

本当に、何もかもめちゃくちゃだった。


「ただいま……」

駅に着いたあと、僕はふらつく足取りのまま家へ戻った。

靴も脱がず、そのままベッドに倒れ込む。

気がつけば意識を失っていて、次に目を覚ましたのは真夜中だった。

喉が渇いて、ぼんやりしたまま起き上がる。枕元のテーブルに手を伸ばし、水を探す。

けれど、いくら探っても見つからない。

そこでようやく、水の入ったコップは机の上に置いたままだったことを思い出した。

その時だった。

ふいに、誰かが硬いものを僕の手に差し出してきた。

感触で、それがコップだと分かる。

僕は寝ぼけたまま「ありがとう」とだけ言って、それを一気に飲み干した。

コップを置いて、ひとつ大きく息を吐く。

――そこでようやく、おかしいことに気づいた。

ゆっくりと首を横へ向ける。

そこには、人影が立っていた。

一瞬で眠気が吹き飛ぶ。

僕は反射的に後ずさり、壁際まで逃げた。

……空き巣?

いや、この状況だともう強盗かもしれない。

下手をしたらそのまま殺されるんじゃ――。

僕は目を閉じたまま、息を殺して動けなくなった。

見られていないふりをすれば、もしかしたらやり過ごせるかもしれない。そんな馬鹿みたいなことを本気で考えていた。

けれど十数秒経っても、相手は何もしてこない。

耐えきれなくなって、僕は恐る恐る目を開けた。

月明かりに照らされた部屋の中。

そこに立っていた少女は、少しだけ首を傾げながら――

笑いをこらえるような顔で、僕を見ていた。


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