第一章
僕の世界には、一人の「架空の少女」がいる。
見た目はどこにでもいる普通の女の子と変わらない。
可愛いものが好きで、少し甘えん坊で、明るくて活発だ。
僕から見れば、まるで理想の女性像をそのまま形にしたような存在だった。
けれど、彼女は本当に「架空」なのだ。
比喩でもなければ、何かの例えでもない。
現実に存在しているはずのない人間が、確かに僕の目の前にいる。
「ほら、起きる時間だよ〜」
耳元で、湿り気を帯びた柔らかな女の子の声が聞こえた。
けれど僕は聞こえなかったふりをして、寝返りを打つ。
それでも彼女は諦めない。
ときどき指でつついてきたり、髪で僕の頬をくすぐったりしながら、執拗に起こそうとしてくる。
眠気はまだ残っていたが、その攻勢に負けてしまい、僕はようやく重たい瞼を開いた。
まず飛び込んできたのは、窓の外から差し込む朝の日差しだった。
眩しさに思わず目を細める。
その次に視界へ映ったのは彼女だった。
白いワンピースを身にまとい、朝日に照らされながら、小首を傾げて微笑んでいる。
「……君のことを、他の人にも見えていたらよかったのに」
他人が聞けば、きっと奇妙な言葉だろう。
だが少女は微笑みを浮かべたまま答えた。
「それは残念だね」
そう言って、彼女は両手を叩く。
「ほらほら、早く起きて!」
その後、僕は顔を洗い、身支度を整える。
その間に彼女は朝食の準備をしていた。
食卓につく頃には、味噌汁に白いご飯、漬物、それから焼き魚まで並んでいる。
「おかずが少ないとか文句言わないでよね」
彼女は向かい側に座り、頬をぷくっと膨らませた。
「冷蔵庫の中をひっくり返して、やっと見つけたんだから」
正直、この朝食には少しばかり不安があった。
まさか黄泉の国の食事じゃないだろうな――なんて。
日本の伝承では、黄泉の食べ物を口にすると現世へ帰れなくなるという。
もちろん見た目はごく普通だ。
だが、黄泉の食事かどうかなんて、見た目で判断できるものなのだろうか。
……いや。
本当に怖かったのは、そんなことじゃない。
僕が戸惑っていたのは、自分の生活が変わってしまったことだった。
これまでの僕なら昼頃に起きて、カップ麺をすすりながら仕事を始める。
そんな毎日だった。
なのに今は、朝早く起きて健康的な朝食を食べている。
しかも、そのきっかけは自分が妙な病気にかかったせいだ。
そう考えると、素直に受け入れられるはずもなかった。
それでも結局、朝食は残さず食べた。
単純に腹が減っていたというのもある。
それに、もし残したら彼女が悲しそうな顔をする気がしたからだ。
朝食後の時間は、本来なら自由時間だった。
ゲームをしたり、本を読んだり。
だが彼女がいると、それらは許されない。
毎朝どこから引っ張り出してきたのか分からない昔のジャージに着替えさせられ、半ば強制的に朝のランニングへ連れ出される。
「頑張れー! 頑張れー!」
彼女は僕の後ろをついてきながら、応援団のように声を張り上げる。
「一日の計は朝にあり、だよ!」
しかし当の僕は数分も走れば息が上がり、立ち止まって肩で呼吸する羽目になる。
彼女はそんな様子を見て、楽しそうに笑っていた。
正直、僕は外へ出るのがあまり好きではない。
僕が住んでいるのはごく普通の住宅街だ。
若者が集まるような場所はなく、あるのはコンビニと昔から営業している飲食店、それからどこにでもあるような店ばかり。
その代わり家賃は安い。
学生の僕にとってはありがたい環境だった。
そして何より――
ここでは誰も他人に興味を持たない。
誰もこちらを見ない。
それが心地よかった。
住宅街を抜けて、
人気のない道路を歩き、
川沿いの坂を上り、
公園まで行って、
そしてまた同じ道を戻る。
それが毎朝のランニングコースだった。
特別な理由があるわけではない。
ただ、なんとなくそうなっていた。
まだ春になったばかりなので、日陰にはところどころ雪が残っている。
彼女はそれを見つけるたびに駆け寄り、両手で掬い上げる。
やがて雪が溶けてなくなると、何事もなかったように僕の隣へ戻ってくる。
歩きながら手をこすり合わせて、
「寒い寒い〜」
と文句を言う。
……いや、それは自業自得だろ。
馬鹿か。
僕は知らなかった。
なぜ自分がこんなにも自然に、彼女の存在を受け入れられているのか。
それはきっと、もう薬を飲み始めていたからだ。
治療薬を。
彼女が消えるのは時間の問題だと、どこかで理解していたからだ。
…………
周囲から見れば、僕はきっと付き合いづらい人間だったと思う。
クラスメイトとは話さない。
集団行動では隅にいる。
ずっとスマホを眺めている。
別に他人を見下しているわけじゃない。
ただ、人と関わる方法が分からない。
いや――
正確には、人と関わることが怖かった。
僕は昔から身体が弱かった。
しょっちゅう病気になっては学校を休み、
それが続くうちに、いつしか学校へ通わなくなった。
子供にとって、それはとても苦しい日々だった。
数畳ほどの部屋。
机。
本棚。
ベッド。
僕の世界はそれだけだった。
その頃の楽しみはテレビを見ることと絵を描くこと。
外の世界に触れながらも、自分が傷つかずに済む唯一の方法だった。
窓の外を通り過ぎる子供たちを見つけると、僕は窓に張りついて眺めていた。
姿が見えなくなるまでずっと。
そしてまた絵を描く。
その頃の僕は、よく思っていた。
――友達がいたらいいのにな、と。
「また体調を崩したの?」
「お前を病院に連れて行くたびに、どれだけ時間を取られると思ってるんだ」
「今月の医療費だって、また大変な額になったわよ」
両親と食卓を囲むたびに、そんな言葉を何度も聞かされた。
そのたびに僕は申し訳なさで俯くことしかできなかった。
中学生になる頃には体調も多少は改善し、ようやく学校へ通えるようになった。
けれど、その頃にはもう遅かった。
誰かと関係を築く方法が分からなくなっていたのだ。
当時の僕が一番好きだった場所は図書館だった。
本を読むためじゃない。
ただ、人に注目されないから。
誰も話しかけてこないから。
人混みから切り離されたような感覚になれたからだ。
そんな生活は大学に入ってからも続いた。
幼い頃から絵を描いていた影響もあり、僕は美術系の学部へ進学した。
そしてアルバイト代と仕送りを合わせて、大学から少し離れた場所にある十畳ほどのアパートを借りた。
その頃の僕の日常は単純だった。
狭い部屋で小さなモニターを見つめ続ける。
腹が減れば冷蔵庫からビールかカップ麺を取り出す。
好きだからではない。
ただ、その方が楽だったからだ。
◇
転機が訪れたのは十九歳の秋。
季節が秋から冬へ移り変わろうとしていた頃だった。
冬が近づき、気温は急激に下がり始めていた。
街路樹の葉も色を失い、歩道には枯葉が散っている。
僕はいつものようにコンビニへ立ち寄った。
切らしていたカップ麺や酒、それから日用品を補充するためだ。
そしてその日――
僕は初めて彼女を見た。
彼女は年齢には少し不釣り合いな茶色のコートを羽織り、赤い帽子を被っていた。
棚の前に立つその姿を見て、僕はまずこう思った。
――イラストの参考になりそうだな。
ただ、それだけだった。
ところがその瞬間、彼女が振り返った。
そして僕を見て微笑んだ。
言葉を交わしたわけではない。
本当にそれだけだ。
だが、その日を境に彼女は頻繁に現れるようになった。
アパートの廊下。
大学の講義室。
電車の中。
講義中には教室の後ろに座り、退屈そうに授業を聞いている。
通学電車では向かいの席に腰掛け、イヤホンを耳につけたまま目を閉じている。
何を聴いているのかは分からない。
気づけば僕は、彼女を見かけることに慣れてしまっていた。
そしてある日。
公園の前を通りかかったときのことだった。
彼女はベンチに腰掛けていて、僕を見るなり手を振った。
「君って、いつも一人だよね」
僕は黙ったまま彼女を見る。
すると彼女は楽しそうに笑った。
「ねえ、一緒に散歩しない?」
彼女はベンチから立ち上がると、僕の前まで歩いてきた。
少し首を傾げながら僕を見つめる。
僕が反応するより早く、
彼女は当然のように僕の手を掴んだ。
「ほら、行こ」
そのまま半ば強引に街へ連れ出される。
冬の街は人通りが少なかった。
誰もが厚着をして、それぞれの目的地へ急ぎ足で向かっている。
そんな中、彼女だけが自由だった。
僕の手を引きながら、あてもなく歩き回る。
その手にはほとんど温もりがなかった。
それが最初に気になったことだった。
しかも彼女は相変わらず同じ服装のままだ。
「わ、見て見て。カフェがあるよ」
彼女はガラス越しに店内を覗き込む。
「コーヒーって飲める?」
「……別に問題ないけど」
「じゃあ入ろう!」
こうして僕たちは、その古びた喫茶店へ入った。
客はほとんどいない。
店の奥の席に腰を下ろす。
店内には聞き覚えのない曲が流れていた。
たぶんクラシックだろう。
そんなことを考えていると、彼女はメニューを僕の前へ押し出してきた。
「注文は任せるね!」
「私は君と同じのでいいから」
「ご注文はお決まりですか?」
店員に声をかけられ、僕は当初頼むつもりだったブラックコーヒーをやめた。
彼女をちらりと見てから、
「カフェラテを二つお願いします」
と告げる。
注文を終えると、店員は一瞬だけ僕の方を見た気がした。
だが何も言わず、そのまま奥へ引っ込んでいく。
待っている間、僕は特に話しかけなかった。
彼女の方も何か話すつもりはないらしく、きょろきょろと店内を見回している。
だから僕は改めて彼女を観察した。
大人びた服装をしているが、顔立ちはまだ幼い。
高校を卒業したばかりと言われても違和感はないだろう。
やがてカフェラテが運ばれてきた。
僕は彼女の分を向こう側へ押しやる。
そしてようやく口を開いた。
「その……」
少しだけ迷ってから尋ねる。
「僕に何か用でもあるんですか?」
「ん?」
彼女はカップを持ち上げる。
一口飲んだ途端、顔をしかめた。
「うわ、やっぱり苦い……」
そう呟いてから、苦笑いを浮かべる。
正直、彼女が何をしたいのかまるで分からなかった。
話題の振り方も分からず、僕はただ黙ってラテを口に運ぶ。
すると彼女が突然こちらを見た。
「人ってね、慣れる生き物なんだって」
「慣れる?」
「うん」
彼女はカップを両手で包みながら続けた。
「例えばコーヒーとか」
「最初はカフェラテですら苦く感じるでしょ?」
「うわぁ苦い、無理って」
そう言って自分で再現しながら笑う。
「でも飲み続けてるうちに慣れてきて、そのうちブラックでも美味しいって思えるようになる」
僕は黙って聞いていた。
「人付き合いも同じなんじゃないかな」
彼女は窓の外へ視線を向ける。
「最初は人に話しかけるのって迷惑かな、とか思う」
「でもそれを放っておくとね」
少しだけ寂しそうに笑った。
「いつか、人と話すこと自体が面倒になっちゃうんだよ」
静かな店内にクラシック音楽だけが流れている。
僕は彼女の話を聞きながら、別のことを考えていた。
……もしかして。
この人、本か何か売ろうとしているのでは?
コミュニケーション能力向上。
友達ができる心理学。
人生を変える会話術。
そんな類の本の営業だろうか。
さっきから妙に目的意識があるように見える。
それなのに肝心の本題へ入るのを躊躇っているようにも見える。
こういう時は先に断った方がいいのだろうか。
それとも様子を見るべきだろうか。
そんなことを考えているうちに、
彼女は突然立ち上がった。
「じゃあね」
そして軽く手を振る。
「また今度」
「え?」
僕が反応するより早く、
彼女はそのまま店を出ていってしまった。
残された僕は呆然とする。
……何だったんだろう。
最近やたらと顔を合わせるから、
少し励まそうとしてくれただけなのだろうか。
そんなことを考えながら、自分のカフェラテを飲み干した。
そしてふと向かいの席を見る。
彼女のカップはほとんど手つかずのままだった。
僕は店員を呼び、会計を頼む。
「お会計は千二百円になります」
「……え?」
僕は思わず聞き返した。
「彼女の分、払ってないんですか?」
その後しばらくの間、彼女は以前と同じように僕の前へ現れるものだと思っていた。
電車の中で隣に座ってきたり、
コンビニで買い物をしていると、
「そういうのばっかり食べてたら体に悪いよ」
なんて言ってきたり。
けれど、そうはならなかった。
彼女は突然姿を消した。
まるで新しいおもちゃに飽きた猫のように、
何事もなかったかのように僕の日常からいなくなってしまった。
そんなことを考えている自分自身に驚いた。
いつから僕は、誰かが自分に近づいてくることを期待するようになっていたのだろう。
とっくの昔に、
誰かと深く関わることへの興味なんて失ったと思っていたのに。
結局、僕の生活は元通りになった。
そして数日後。
急激な寒波が街を襲った。
雪は昼夜を問わず降り続き、
街全体を白く包み込んでいく。
僕はこういう天気が嫌いではなかった。
雪が積もると街の音が消える。
人々の話し声も、
車の走る音も、
すべてが雪に吸い込まれていく。
静寂だけが残る。
それはまるで、
僕のような人間に与えられた自然からの贈り物みたいだった。
もっとも、
その贈り物を楽しめたのはほんの数日だけだった。
ある夜。
窓の外では雪が舞っていた。
僕は湯を沸かし、
インスタント麺を作ろうとしていた。
その時だった。
ピンポーン。
玄関のチャイムが鳴った。
珍しいことだった。
僕はほとんど通販を利用しない。
近所付き合いもない。
友人が訪ねてくることなどなおさらない。
だから少し警戒しながら玄関へ向かった。
ドアを開ける。
そこに立っていたのは、
細身の少女だった。
厚手のコートを羽織っている。
だが、その下はなぜか素足だった。
「……君?」
思わず声が漏れる。
ここ数日、
ずっと気になっていた相手が、
まさか夜中に自宅のドアを叩くとは思わなかった。
「やっほー……」
彼女は特に驚いた様子もなく、
人差し指で頬をぽりぽりと掻いた。
それから隣の部屋を指差す。
「急に来たからびっくりしたよね」
「実は私、隣に住んでるんだ」
「隣?」
「うん」
彼女は困ったように笑う。
「さっきゴミ捨てに行ったんだけど、鍵を持って出るの忘れちゃってさ」
「しかも管理会社、この時間だともう連絡つかないし……」
そこで彼女は両手を合わせた。
「お願い!」
「一晩だけ泊めてもらえないかな?」
普通なら怪しいと思うのだろう。
けれど僕には判断がつかなかった。
そもそも隣人の顔すら知らない。
なぜ僕を頼ったのか。
何度も顔を合わせているから。
なぜ僕の住所を知っているのか。
隣に住んでいるなら知っていても不思議じゃない。
頭の中で疑問を並べては、
勝手に答えを補完していく。
断るべきだ。
そう思った。
身元もよく分からない相手を家に上げるなんて普通じゃない。
だけど――
もしここで彼女を追い返したら。
僕の人生は、
この先もずっと同じままなのではないか。
そんな考えがふと頭をよぎった。
迷っているうちに、
僕は彼女の手に目を向けた。
指先も、
鼻の頭も、
寒さで赤くなっている。
小柄な身体。
薄い服装。
外では雪が降っている。
もし追い返したら、
彼女はどうするのだろう。
たった一晩。
それくらいのことも面倒だと思うのか。
その瞬間、
食卓での両親の顔が頭をよぎった。
――人に迷惑ばかりかけて。
昔、自分が言われ続けた言葉だった。
「……入って」
僕は少しだけ身体を横へずらした。
すると彼女の表情がぱっと明るくなる。
「本当!?」
そして小走りで部屋へ入りながら言った。
「断られたらどうしようって、ずっと考えてたんだ」
「ありがとう!」
僕はドアを閉め、
振り返る。
その時ようやく理由が分かった。
なぜ彼女が素足だったのか。
コートの下には、
白いネグリジェしか着ていなかったのだ。
……。
僕は慌てて視線を逸らした。
そしてやかんの前へ逃げるように立つ。
その一方で、
ふと別のことを思い出していた。
そういえば、
この前のカフェ代、
まだ払ってもらってないな。
「思ってたより散らかってるね」
不意にそんな声が聞こえた。
振り向くと、彼女はテーブルの上に積まれていた空き缶やゴミを片付け始めている。
「いや、そんなことしなくていいから」
「えー?」
彼女は手を止めずに笑った。
「泊めてもらうんだし、これくらい普通でしょ?」
「……ありがとう」
「どういたしまして」
そう言いながら、彼女は軽快な手つきでゴミをまとめていく。
しばらくして、
彼女がこちらを振り返った。
「そういえば、晩ご飯は?」
「まだ」
僕は湯気を上げるやかんを見ながら答える。
「今から麺でも茹でようと思ってた」
「おっ」
彼女の目が輝く。
「じゃあ私の分もある?」
「……少しなら」
「やった」
短い会話はそこで終わった。
部屋の中には再び静寂が戻る。
窓の外では雪が降り続いている。
聞こえるのは、
湯の沸く音と、
互いの呼吸だけだった。
僕は彼女の分の麺に卵を一つ落とした。
それから二人分の器を運ぶ。
彼女はちょうど片付けを終えたところだった。
「いただきます」
そう言って箸を取る。
数口食べたあと、
彼女はふと思い出したように尋ねた。
「いつも一人で暮らしてるの?」
「うん」
「へえ」
少し部屋を見回してから、
彼女はぽつりと言った。
「なんだか寂しい感じがするね」
「……」
返事はできなかった。
すると彼女は慌てたように笑う。
「あ、ごめんごめん」
「悪い意味じゃないから」
そして麺をすすりながら続けた。
「君ってあんまり喋らないよね」
「そうかな」
「そうだよ」
彼女は即答した。
「でも優しいと思う」
僕は少しだけ視線を逸らした。
褒められることに慣れていない。
彼女は気にした様子もなく窓の外を見る。
「今日は本当に寒いなぁ」
確かに寒かった。
室内にいても冷気が伝わってくる。
もっとも、
僕の部屋にはエアコンも暖房器具もない。
服を着込めば十分だと思っていたし、
何より設置工事のために知らない人を部屋へ入れるのが嫌だった。
僕にとってこの部屋は、
唯一安心できる場所だったから。
……なのに。
目の前の少女が突然入り込んできたことに対しては、
不思議なほど不快感がなかった。
そんな自分に少し驚く。
「そうだ」
彼女が箸を止める。
「さっき片付けてた時に思ったんだけど」
「何?」
「ビール缶、多すぎない?」
「そう?」
「そうだよ」
彼女は呆れたように笑った。
「お酒好きなの?」
「別に好きってわけじゃない」
少し考えてから答える。
「他の飲み物に興味がないだけ」
「へぇ……」
彼女は感心したような顔をした。
「ある意味すごいね」
「?」
「私、苦いもの全般ダメだから」
そう言って味噌汁を飲む。
確かに彼女は以前もコーヒーを苦いと言っていた。
どこか太陽みたいな雰囲気の彼女は、
ビールを飲む姿が想像できない。
だけど、
なぜだろう。
彼女の口からその言葉を聞くと、
少しだけ自分が皮肉られている気分になった。
やがて食事が終わる。
「ごちそうさまでした!」
彼女は手を合わせると、
器を持って立ち上がった。
「洗っとくね」
「いや、本当にそこまでしなくても」
「いいのいいの」
彼女は振り返りながら笑う。
「君はその代わり、お布団の準備してきて」
「……分かった」
面白がっているような笑顔だった。
僕が押し切られる形で役割分担が決まる。
ソファの上に布団を敷き終えた頃には、
彼女も食器を洗い終えていた。
そのままテレビの電源を入れる。
偶然にも、
ちょうど僕の好きなアニメの再放送が始まった。
気付けば僕は彼女の隣へ座っていた。
彼女は視線を画面へ向けたまま、
特に話しかけてこない。
僕も同じだった。
ただ二人で並んで、
物語を見ている。
面白い場面では同時に吹き出し、
緊張する場面では一緒に息を呑む。
そんな時間が思いのほか心地よかった。
気付けば深夜になっていた。
彼女が大きな欠伸をする。
「ふぁぁ……」
それからぐっと伸びをした。
「よし、寝よう!」
そう言ってソファへ向かう。
その時だった。
「……あの」
気付けば僕は声をかけていた。
自分でも驚くくらい自然に。
「もし気にしないなら」
少し言葉を選ぶ。
「ベッド使っていいよ」
彼女が振り返る。
「え?」
「そのソファ、小さいから」
「慣れてない人だと落ちるかもしれないし」
言い終わった途端、
自分でも何を言っているんだと思った。
彼女は数秒間じっと僕を見つめる。
けれど、
緊張している僕にはそれが何分にも感じられた。
やがて彼女は柔らかく微笑む。
「じゃあ、お言葉に甘えようかな」
その夜。
僕は久しぶりによく眠れた。
いつも見る夢がある。
深い森の中央に立つ高い塔。
僕はその中に閉じ込められている。
外へ出ることはできない。
小さな窓からわずかな光を頼りに外を眺めるだけ。
それでも毎日、
どうにかして外へ出ようとしている。
まるで、
森の向こうに何か大切なものがあるみたいに。
けれどその夜は違った。
夢を見た記憶がない。
気付けば朝になっていた。
そして僕は――
盛大な衝撃で目を覚ました。
「痛っ!!」
ソファから転げ落ちていた。
床へ思い切り身体を打ちつけたらしい。
頭を押さえながら起き上がると、
目の前にしゃがみ込んだ彼女がいた。
口元を押さえ、
笑いを堪えながら言う。
「へぇ」
「慣れてる人でも落ちるんだね」
「ふふっ」
彼女は口元を押さえながら笑っている。
「そんなに面白い?」
「だって昨日あんなこと言ってたのに」
そう言うと彼女は僕の真似をするように声色を変えた。
『慣れてない人は落ちるかもしれないし』
「……やめて」
「ごめんごめん」
まったく反省していない顔で笑う。
僕はため息をつきながら立ち上がった。
すると食卓の方から味噌の香りが漂ってくる。
振り向くと、
昨日と同じように朝食が並んでいた。
「おはようございます」
彼女は得意げに胸を張る。
「一晩お世話になりました」
そして指でピースサインを作った。
まるで朝食と一緒に記念写真でも撮るつもりのようだ。
「……ありがとう」
僕は席に着いた。
二人で朝食を食べる。
特別な会話はなかった。
けれど不思議と気まずさもなかった。
むしろ、
これが当たり前の日常であるかのような錯覚すら覚える。
食事を終える頃には、
外の雪もだいぶ弱くなっていた。
彼女はコートを羽織り、
玄関の前へ立つ。
「それじゃあ行くね」
ドアノブに手を掛けたまま振り返る。
「またね」
その言葉に、
僕も軽く手を振った。
「うん」
ドアが閉まる。
静寂が戻る。
さっきまで誰かがいたはずなのに、
部屋は元の姿へ戻ってしまった。
僕はしばらく玄関を見つめていた。
それから視線を逸らし、
シンクの方を見る。
食器が残っている。
洗わなければならない。
「面倒だな……」
そう呟いてから、
なぜかソファへ腰を下ろした。
何をすればいいのか分からなかった。
◇
それから数日。
僕の生活は再び元通りになった。
何度か隣の部屋を訪ねようと思った。
玄関の前まで行き、
インターホンを押そうとする。
けれど、
そのたびに手を引っ込めてしまう。
何を話せばいいのか分からない。
そもそも、
訪ねる理由もない。
そんなことを繰り返しているうちに時間だけが過ぎていった。
ある日。
いつものようにコンビニへ立ち寄った。
酒を買うためだ。
僕にとって最も消費量の多い生活用品だった。
冷蔵コーナーへ向かおうとして、
ふと棚に並んだ味噌を見つける。
その瞬間、
彼女が作ってくれた朝食を思い出した。
気が付けば、
僕は味噌を買い物かごへ入れていた。
そしてそのまま、
袋を提げて隣の部屋の前まで来ていた。
今さら引き返すのも変だ。
そう思い、
軽くドアをノックする。
数秒後。
ドアが開いた。
僕は緊張していた。
何を話そうか。
急に来たことをどう説明しようか。
そんなことを考えていたのだが――
ドアの向こうから顔を出したのは、
彼女ではなかった。
深い皺の刻まれた、
かなり高齢の女性だった。
「はい?」
「何か御用ですか?」
僕の思考が止まる。
しばらく言葉が出てこなかった。
そしてようやく、
口を開く。
「すみません……」
「こちらに、このくらいの背の女の子は住んでいませんか?」
手で高さを示しながら続ける。
「十七歳か十八歳くらいで……」
老婦人は怪訝そうな顔をした。
「え?」
「私はずっと一人暮らしですよ」
「若い女の子なんて住んでいませんけど」
「……」
「……え?」
◇
その日から三、四日が過ぎても、
僕は状況を理解できずにいた。
なぜ彼女は嘘をついたのか。
なぜ僕に近づいたのか。
もし詐欺師なら、
もっと金を持っていそうな相手を狙うはずだ。
僕みたいな人間を見れば、
金にならないことくらいすぐ分かるだろう。
では詐欺師ではないのか。
だとしても、
ますます理由が分からない。
結局のところ、
僕はこういうことに関して何の経験も持っていなかった。
だから助けを求めることにした。
自分の人間関係の中で、
辛うじて友人と呼べる唯一の相手。
――渡辺に。
渡辺という人間は、僕とは正反対の存在だった。
大学ではいつも人の輪の中心にいる。
飲み会でも、
サークルの集まりでも、
自然と話題の中心になる。
誰とでも打ち解けることができて、
周囲の空気を読むのも上手い。
女性にもよくモテる。
SNSを開けば、
いつも違う女性と写った写真が投稿されていた。
冗談抜きで、一週間ごとに隣にいる相手が変わっているように見えるくらいだ。
周囲から見れば、
そんな彼と僕が友人関係にあること自体が不思議だっただろう。
僕たちが知り合ったのは、
大学のあるグループ活動がきっかけだった。
活動終了後、
誰かが言った。
「このままみんなでご飯行かない?」
当然のように賛成の声が上がる。
そういう場面になると、
僕は断れない。
断るという行為そのものが怖かった。
だから流されるまま参加した。
そして案の定、
途中で限界を迎えた。
人の声。
笑い声。
飛び交う会話。
それらが少しずつ胸を圧迫していく。
耐え切れなくなった僕は、
トイレへ向かうふりをして席を立った。
そして個室に駆け込み、
吐いた。
しばらく便器に向かって呼吸を整える。
落ち着いてから外へ出て、
洗面台で顔を洗った。
鏡に映る自分の顔色は最悪だった。
「はぁ……」
思わずため息が漏れる。
僕はポケットから煙草を取り出した。
少しでも気分を落ち着かせたかった。
ちょうどその時だった。
隣の個室から誰かが出てくる。
渡辺だった。
彼は僕の隣へ立ち、
手を洗い始める。
鏡越しに視線が合った。
僕は反射的に目を逸らす。
すると渡辺が口を開いた。
「えっと……久礼木くん、だっけ?」
「……枯木です」
僕は訂正する。
「枯木秋生」
「あー、ごめんごめん」
渡辺は苦笑した。
それから少し気まずそうな顔で言う。
「ライター持ってる?」
「え?」
「ソファに置き忘れちゃってさ」
僕はポケットからライターを取り出して渡した。
彼は慣れた手つきで煙草に火をつける。
一服してから、
ライターを返してきた。
「ありがと」
そして唐突に言った。
「枯木くんって、ああいう空気苦手でしょ」
僕は少しだけ固まる。
数秒後、
静かに頷いた。
「……うん」
すると渡辺は面白そうに笑った。
「やっぱり」
煙を吐き出しながら続ける。
「なんか面白いな」
「?」
彼は煙草を深く吸い込んだ。
吸い込みすぎじゃないかと思うくらい。
肺が真っ黒になりそうな勢いだった。
「信じてもらえないと思うけどさ」
渡辺は天井を見上げる。
「俺、結構君と似てるんだよね」
「……」
僕は露骨に疑いの目を向けた。
すると彼は苦笑する。
「まあ、その反応になるよな」
「俺も昔は人混みとか苦手だったし」
「こういう集まりも嫌いだった」
彼は肩を竦めた。
「興味もない話に合わせたり」
「誰にでも愛想良くしたり」
「空気を悪くしないよう気を遣ったり」
「正直めちゃくちゃ面倒なんだよ」
「でもさ」
渡辺は少し笑った。
「空気読めない奴にはなりたくなかったんだ」
その言葉に、
僕は少し驚いた。
話し方も。
表情も。
少なくとも今の彼は、
嘘をついているようには見えなかった。
渡辺はゆっくり煙を吐き出す。
それから深く息を吸った。
「こういう話、人にするのって難しいんだよな」
その瞬間、
僕は理解した。
なぜ彼がこんな話をするのか。
僕は口が堅い。
いや、
そもそも他人と話さない。
だから彼は安心して本音を話せるのだろう。
僕はきっと、
都合の良い聞き役だった。
「だからさ」
渡辺は笑う。
「たまに君が羨ましくなる」
「僕が?」
「うん」
彼は即答した。
「陽キャのフリって結構拷問だから」
渡辺はそう言って笑った。
僕には理解できなかった。
少なくとも、
周囲から見れば彼の人生は順風満帆そのものだ。
友人も多い。
女性にもモテる。
人望だってある。
それなのに、
なぜそんな生活を続けることを苦痛だと言うのだろう。
「じゃあ」
僕は尋ねた。
「どうして続けてるんだ?」
渡辺はすぐには答えなかった。
手にしていた煙草を見つめる。
火はもうほとんど先端まで燃え尽きていた。
最後の一口を深く吸い込む。
そして吸い殻を灰皿へ押し付けながら呟いた。
「どうして、か」
少し考えるような間があった。
「説明すると長いんだけどさ」
彼は頭を掻く。
「まあ、約束みたいなものかな」
「約束?」
「うん」
それ以上は語らなかった。
誰との約束なのか。
何を約束したのか。
僕には分からない。
けれど、
渡辺の表情を見る限り、
その話題には触れない方がいい気がした。
それから少し沈黙が流れる。
トイレの換気扇の音だけが聞こえていた。
やがて渡辺が顔を上げる。
「そうだ」
「?」
「連絡先交換しようぜ」
「……え?」
「気兼ねなく話せる相手って意外と少ないんだよ」
そう言ってスマホを差し出してくる。
僕は少し戸惑いながらも、
彼と連絡先を交換した。
それが僕と渡辺の始まりだった。
◇
それ以来、
だいたい半月に一度くらいの頻度で、
渡辺は僕を飲みに誘うようになった。
もっとも、
居酒屋のような場所へ行くことはほとんどない。
人混みが苦手なのは、
どうやら本当だったらしい。
彼が好んだのは、
人の少ないマンションだった。
正確には、
その屋上だ。
適当に見つけたマンションへ忍び込み、
非常階段を上る。
そして誰もいない屋上で、
缶ビール片手に話をする。
一ケースのビールが空になるか、
日が沈むまで。
そんな時間を過ごしていた。
大抵は渡辺が喋る。
僕は聞く。
ただそれだけだ。
もしかすると、
聞き役としては悪くなかったのかもしれない。
「なんで屋上なんだ?」
以前そう尋ねたことがある。
すると渡辺は笑いながら答えた。
「子供の頃から好きなんだよ」
彼はフェンス越しに街を見下ろす。
「人は嫌いだけどさ」
「街は好きなんだ」
夕暮れに染まる建物群。
無数の窓明かり。
遠くを走る電車。
確かに、
それらを眺めていると不思議と落ち着いた。
渡辺は缶ビールを傾けながら続ける。
「中学の頃の俺って、今じゃ想像できないくらい陰キャだったんだぜ」
「そうなのか」
「本当本当」
彼は笑う。
「顔は今と変わらなかったけど、性格が終わってた」
「……」
「その反応ひどくない?」
僕は肩を竦めた。
渡辺は苦笑しながら話を続ける。
中学時代の彼は、
大人しい性格と整った顔立ちのせいで、
逆に周囲から浮いていたらしい。
昼休みはいつも一人。
屋上へ行き、
そこで弁当を食べていたという。
そして中学卒業の春。
彼は一つの決意をした。
「人生変えようと思ったんだよ」
高校デビュー。
言葉にすればそれだけだ。
だが彼は本気だった。
服装を研究し、
会話術を学び、
雑誌を読み漁り、
一か月近くかけて徹底的に自分を作り変えた。
そのために、
わざわざ家から遠く離れた私立高校まで受験したらしい。
「結果は大成功だったけどな」
渡辺は笑う。
「友達もできたし」
「彼女も何人かできた」
「それからはずっと今のキャラのまま」
彼は空になった缶を転がした。
そして、
いつものように付け加える。
「まあ、人間としては結構クズだけどな」
その自己評価だけは、
妙に信用できた。
◇
今回、
渡辺を呼び出したのは僕の方だった。
それはかなり珍しいことだった。
だからだろう。
事情を聞いた渡辺は、
二つ返事で了承した。
待ち合わせ場所は、
あの少女と初めてまともに話した喫茶店だった。
古びた店内。
相変わらず流れているクラシック音楽。
僕は少し早めに到着し、
コーヒーを二杯注文していた。
約束の時間になると、
渡辺はぴったり現れた。
緑色のワークジャケットにジーンズ。
店のレトロな雰囲気とは妙にミスマッチだった。
彼はすぐに僕を見つけ、
向かいの席へ腰を下ろす。
そしてコーヒーを一口飲んだ。
「おっ」
「意外と美味いな」
「そうか?」
「こういう店ってさ」
渡辺は真顔で言った。
「何年も発酵させた酢でも混ざってるんじゃないかってくらい酸っぱいコーヒー出してくる時あるじゃん」
「どんな店だよ……」
「こういう店ってさ」
渡辺は真顔のまま続けた。
「何年も発酵させた酢でも混ざってるんじゃないかってくらい酸っぱいコーヒー出してくる時あるじゃん」
「そんな店、見たことないけど……」
「俺はある」
渡辺は断言した。
「昔、コーヒー豆の袋と納豆の袋を同じ場所に置いてたことがあってさ」
「……」
「気付かずに淹れたら、とんでもない味になった」
「それはお前が悪いだろ」
渡辺は肩をすくめた。
「まあな」
それからカップをソーサーへ戻す。
先ほどまでの軽い雰囲気が少しだけ薄れた。
「で?」
彼は僕を見る。
「わざわざ呼び出したってことは、今回は本当に何かあったんだろ」
僕は小さく息を吸った。
そして話し始める。
最初に彼女を見た日のこと。
コンビニでのこと。
何度も偶然出会ったこと。
公園で声を掛けられたこと。
喫茶店で話したこと。
突然家へ来たこと。
隣人だと言っていたこと。
そして、
隣の部屋にはまったく別の人が住んでいたこと。
順番もまとまりもないまま、
思いつく限りを話した。
渡辺は最初こそコーヒーを飲みながら聞いていた。
だが途中から、
ほとんど手を付けなくなる。
表情も少しずつ変わっていった。
何かを考えているような、
妙に複雑な顔だった。
ようやく話し終えた頃には、
店内のクラシック音楽だけが流れていた。
「……以上」
僕が言う。
渡辺はしばらく黙っていた。
そして不意に口を開く。
「悪い」
「ん?」
「もう一回最初から話してくれ」
「え?」
「いいから」
仕方なく、
僕はもう一度最初から説明した。
二回目が終わる頃には、
自分でも少し疲れていた。
だが渡辺は依然として真剣な顔をしている。
腕を組み、
何かを考え込んでいた。
その様子を見ているうちに、
僕の方が不安になってくる。
「……何か変なところでもあった?」
僕がそう尋ねると、
渡辺はようやく我に返った。
「あ、悪い」
そう言って頭を掻く。
「ちょっと考え事してた」
彼は一度コーヒーを飲み、
それから静かに尋ねた。
「秋」
大学で彼だけが僕をそう呼ぶ。
「一応聞くけどさ」
「うん」
「この店の店員には聞いたのか?」
「その女の子のこと」
僕は頷く。
「さっき会計の時に聞いた」
「でも覚えてないって」
「まあ、僕のことも覚えてなかったけど」
渡辺は小さく「なるほど」と呟いた。
それからポケットを探り始める。
煙草を取り出し、
いつもの癖で火をつけようとして――
「あ」
動きが止まった。
「また忘れた」
「ライター?」
「うん」
僕は慣れた手つきでポケットからライターを取り出した。
渡辺は苦笑しながら受け取る。
「助かる」
火をつけ、
深く煙を吸い込む。
そして長く息を吐いた。
「ふぅ……」
少しだけ肩の力が抜けたようだった。
その後、
彼は財布を取り出した。
かなり分厚い財布だった。
中には大量の名刺が詰め込まれている。
渡辺はその中をしばらく探り、
一枚を抜き出した。
「これ」
そう言って僕の前へ差し出す。
「一回ここに行ってみろ」
僕は名刺を受け取った。
白い紙だった。
中央には大きく、
こう書かれている。
心理カウンセリングセンター
「……」
僕はゆっくり顔を上げる。
「つまり」
「僕の頭がおかしくなったって言いたいのか?」
渡辺は即座に首を振った。
「いや」
そして少し考えてから付け加える。
「正直そういう可能性もあるとは思ってる」
「おい」
「でも目的はそれじゃない」
渡辺は灰を落としながら続ける。
「なあ」
「俺、中学卒業の時の話したことあったよな?」
「一か月くらい特訓したって話?」
「そこまでしか話してないか」
彼は苦笑した。
「その後の話があるんだよ」
「?」
「まあ説明すると長くなる」
そう言うと、
名刺を指で軽く叩く。
「その人に会えば、多分俺より上手く説明してくれる」
僕は改めて名刺を見た。
左下には住所。
そして中央には名前。
宮川理恵
黒い文字が静かに印刷されている。
渡辺は煙草を咥えながら言った。
「ちなみに元カノ」
「は?」
「まあ付き合ったと言っても、ほとんど何もないまま別れたけど」
「……」
「でも信頼はしてる」
「少なくとも俺よりはずっとまともだ」
僕は胡散臭そうに名刺を見る。
もしかして単なる客引きなのではないか。
そんな疑いも浮かんだ。
だが、
渡辺はこれまでずっと僕に親切だった。
だから最終的には名刺を財布へしまった。
すると渡辺が面白そうに笑う。
「なんかさ」
「?」
「お前の話、続きがありそうなんだよな」
彼は残っていたコーヒーを飲み干した。
「宮川さんのところで何か分かったら教えてくれ」
「面白そうだから」
「最後の一言で全部台無しだよ」
「はは」
渡辺は手を振りながら席を立った。
僕も軽く別れを告げる。
店を出て、
会計を済ませる。
冷たい風が頬を撫でた。
僕はポケットから名刺を取り出す。
白い紙を見つめる。
だが頭に浮かんだのは、
宮川理恵という名前ではなかった。
雪の夜。
白いネグリジェ姿で微笑んでいた、
あの少女の姿だった。




