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 穏やかな波の音だけが聞こえる。太陽は水平線に近づき、海風が少し冷たさを増してきた。

「私、モデルをしているんです」

 手のひらに砂をためた。

「ん?モデルですか。あの素敵な服を着て写真を撮ったり、ファッションショーで歩くやつですよね?」

 彼は、足元の砂に目を落としている。

「そうです、そうです」

「へぇすごいですね。 華やかな世界だ」

 彼の声に大きな変化はなく、手は貝殻をいじり続けていた。

「華やか、そうですね」

 オレンジの空が広がっていた。

「モデルは、周りにいるたくさんのスタッフで成り立っています」

 息を吸う音が止まる。

「逃げてきたんです」

 水平線はどこまでもまっすぐ横に細く伸びている。

「自分で選んだ道なのに」

 声が足元に向かった。砂の上にシーグラスは見当たらない。

「頑張っているんですよね、たぶん」

「え?」

「あ、いや、偉そうなことは言えないんですけど」

 彼は、少し眉をひそめて笑った。

「だから、僕の言えることがあるとしたら」

 彼はパーカーを広げて、胸元の文字を指差した。

「やっぱり、『気楽に生きようぜ』ですかね」

 オレンジの光が彼の横顔を照らした。それに合わせてTシャツもオレンジに染まった。彼の笑い声が波と重なると、彼はまた砂浜に目を移した。高い身長を窮屈に折り曲げていた。

 

 日の光が水平線の向こうに隠れた頃には、彼の袋はずっしりとしていた。

「あ、もうこんな時間。すみません」

 彼は腕時計を見て、手に持っていた石をしまった。

 風が前髪を揺らす。波が遠くに現れては消えていった。

「いえ、とっても楽しかったです」

 彼は手のひらで海とは反対の方向を指した。

「よかったら、この近くの喫茶店で、コーヒーでもどうです? あ、えっと、もちろん、純粋にお礼として、です」

 息を吹き出した。

「ありがとうございます。でもごめんなさい。もう行かないと」

「そう、ですよね」

 彼の声がゆっくり、弱くなる。

「いえ、なので、また今度というのはいかがですか?」

「え? もちろん。ぜひお礼させてください」

 彼の影が勢いよく顔を上げた。

「私、次の休みが、二週間後の土曜日なんですが、いかがですか?」

「二週間後ですね。土曜日はいつも休みで、その日も特に何もないはず。うん、二十六日ですね。大丈夫です」

 暖かい風が通り過ぎた。

「よかったです。では午後三時。場所は――」

 海沿いの道路には車が行き来している。

「鎌倉駅で待ち合わせでもいいですか?」

「もちろんです。そのほうがわかりやすいと思います。東口の改札前で」

 波の音が近く、大きく鳴った。バッグを肩にかけると、Tシャツのクラゲが顔を出した。

「ここまではバスですか?」

「いえ、タクシーで」

「なるほど。帰りもタクシーがいいですかね」

「そう、ですね」

 彼は足早に海岸沿いの国道に出て見渡す。

「この辺で運が良いとタクシー拾えるんですが、呼んだ方が早いかもしれません」

 数台の車が右へ左へと流れた。

「あっ」

 彼の視線の先に顔を向けると反対車線の「キコリ食堂」と書かれたお店の前にタクシーが停まり、乗客が降りていく。

 彼が声をかけると、タクシーの運転手が彼に向かって手を挙げた。

「ラッキーですね。ついてます」

「ありがとう、ございます」

「ああ、そうだ」

 彼が振り向いた。

「大事なことを忘れていました。名前を聞いてもいいですか? 僕は中森です」

「中森、さん。私は詩織です。一ノ瀬詩織、です」

「一ノ瀬詩織さん、ですね」

 中森は滞ることなく繰り返した。その表情は特に変わらない。そのままこめかみを人差し指で何回か叩いた。

「よし、と。覚えました」

 中森の口角が片方だけ上がった。

 止めていた息を吐いた。人差し指でこめかみを数回叩く。

「中森さん。私も、覚えました」

 笑い声が混じり合った。

 タクシーが目の前に停まる。

「じゃあ、気をつけて」

「はい。中森さんも」

 タクシーが走り出す。何度も振り返りながら小さく手を振った。中森も見えなくなるまでずっと手を振っていた。

 

 鎌倉駅につき、切符を買って改札に向かう。切符を通しても赤いライトはつかなかった。

 ホームに入ってきた電車がドアを開けた。電車が速度を上げると、車窓に顔が映り込んだ。目尻が下がり頬の緊張が解けていた。

 座席に腰を下ろしバッグをデニムのパンツに乗せる。バッグからティッシュの包みを手に取ると、スマートフォンが倒れた。反対の手でスマートフォンを取る。画面が黒い。

 電源ボタンを長押しすると、メーカーのロゴが浮かび上がった。いくつもの通知が重なる。双葉やメイクスタッフのものも混ざっているが、その多くは「佐々木チーフ」と表示されていた。

 電車のドアが開いて、人と空気が入れ替わった。通知の山を消去し、スケジュールアプリを開く。四月二十六日。「午後三時、鎌倉駅、中森さんと」

 入力を終え、ホーム画面に戻ると動きが止まった。

「あっ」

 指が連絡先アプリの上で止まっている。広告のタレントが笑顔を見せていた。

 窓に映るTシャツのクラゲは、車内の照明の柔らかい光に照らされていた。ティッシュをゆっくり開き、白いシーグラスを明かりを当ててみた。歪で傷だらけ、少し曇った白い透明の欠片。握る指は白く変色していた。熱のこもった手を胸に押し当てた。

 窓の外には光り輝くビルが、延々と立ち続けていた。

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