①
カメラのレンズは正面をとらえていた。身体をおおう真紅のドレスが音もなく動いている。
カメラマンやスタッフからの賞賛が壁に反射して消えた。エアコンの冷たい空気がスタジオを駆け巡っている。カメラのシャッター音、フラッシュのチャージ完了を知らせる電子音が鳴り続けていた。
「もう少し右へ」
「目線を外してください」
フラッシュの光がカメラマンの居場所をさえぎった。
「オッケーです」
カメラマンの掛け声が何百回と続いた閃光を止めた。息を吐く音が時間をかけて細く広がった。
お礼の言葉をカメラマンやスタッフに向けると、彼らは目を合わせずに会釈して自分の作業に戻った。
照明を反射した廊下の真っ白な壁。その青白い光はいくつもの影を同時に作っていた。
飾り気のないドアに、金色の蔦を模した模様のドアノブが浮いていた。
誰もいない室内には鏡が並び、正面のイスを均等に映し出している。
机には「水晶の薔薇、一ノ瀬詩織」とタイプされた雑誌があった。その雑誌を裏返しイスに腰を下ろすと、金属の擦れる音がした。
鏡にメイクを施された女の顔が映った。縁に沿って配置されたライトは施されたメイクの陰影を消す。幅の広い二重が見つめていた。
スニーカーの小刻みな音が近寄ってきた。
「詩織さん、これ」
「あ、双葉」
双葉から渡された水のペットボトルは常温だった。
「とてもカッコよかったです」
双葉の語気が強まる。
「ありがとう」
鏡の女は目だけを下に向けて水を飲んだ。
「あ、そうだ。次は」
双葉のタブレットは、指が当たるたびに乾いた音がした。
「一時間後です。それまで休憩です」
壁にかかった時計の秒針は止まることなく延々と回転している。
「本当にかっこよかったです。あの表情は詩織さんにしか出せません」
双葉の小さい声が届く。
「カメラマンの指示が的確だっただけよ」
「いえいえ、あの深い目は誰もがとりこになります」
ぬるいペットボトルのキャップを固く閉めた。隣にいる双葉の目には、鏡で見るより多くの光の点が映っていた。
「双葉がそばにいてくれて本当に良かったわ」
「いえ、そんな」
双葉の顔が赤らみ、視線が下がった。
メイク室のドアがノックされ、双葉の肩が素早く揺れた。硬いヒールの音とともにドアが開いた。体の動きをトレースするスーツを着た女性。ふちのない眼鏡は、目の動きがよく見える。ローズとジャスミンのフローラルな香りが、一気に部屋に充満した。
「失礼します。一ノ瀬さん。差し替え分の段取りを記したファイルです。お目通しください」
ファイルが鈍い音を立てて机に置かれた。びっしりと貼られた付箋は、すべてがくすんだ黄色だった。
「あの、佐々木さん」
「なんでしょうか」
佐々木の唇はほとんど動いておらず、目はタブレットに向いている。
「休みをいただけないでしょうか。疲れが」
言葉をそこで閉じた。佐々木は、ずれていないメガネを直した。
「いわゆる風邪症状のようなものはございますか」
「そういうわけでは。このままでは良いパフォーマンスができません」
佐々木の口から小さく息が漏れた。口紅は赤く光沢がない。
「体調不良でもなく、疲れたからという理由では、スケジュールの変更は致しかねます。クライアントやスタッフの予定も決まっています」
双葉は、タブレットを持ったまま、揺れることなく直立していた。
「体調管理も業務です。プロフェッショナルの自覚を持っていただきたい。事務所のただの損失ですので。発熱などがあったら再度お知らせください」
木目調の床タイルには、イスのタイヤあとがわずかに黒く残っている。体の影は足元につぶれて、小さくまとまっていた。
「詳細な日程は共有カレンダーに反映しておきます。ご確認ください」
床と靴の擦れる音がなった。佐々木の足先が双葉に向けられた。
「清水さん。あなたもマネージャーアシスタントとして、一ノ瀬さんのスケジュール管理や体調管理を怠らないように」
「はい」
閉じられたドアが風を作り、居残った香水がほおをなでた。手に持つペットボトルのラベルには点線が入っている。それを指でなぞった。
事務所を出る頃には、空の太陽は完全に姿を消していた。星はほとんど見えないが、硬質な建造物から漏れる光であふれていた。




