プロローグ
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アスファルトの地面に、土の匂いが立ち込めている。太陽は雲に隠れている。風が吹くたびに桜の花びらが側溝に溜まっていく。
道を塞ぐ車の手前で自転車を降り、歩道に移る。自転車を押して歩いた。
通りには飲食店や文具店、スイーツ店などが軒を連ねている。そのほとんどはシャッターが下りていた。
全面がガラス張りの店の前で足を止める。薄暗い店内には大型のバイクが列をなしていた。大きく湾曲するハンドル、低い位置にあるシート。黒光りするタンクは周りの景色を映し出している。店内の時計は九時を指していた。
にわかに太陽が辺りを明るくした。自転車を押す猫背の姿がガラスに反射し、店内のバイクと重なる。ずれたメガネを上げ、天然パーマの髪の毛をかき分けた。自転車のカゴには、ポリ袋に入ったコーヒー粉のパッケージが見えた。
再び日光が遮られ猫背の姿が消え、生暖かい風が通り過ぎた。
アパートの駐輪場に自転車を止めていると、目の前の公園から子どもの笑う声が風に乗って届いた。葉が擦れてざわめき、枝葉の間から光が揺れている。
公園のベンチの座面は木製で端が黒ずんでいる。そのベンチに近づき腰を下ろす。わずかにきしむ音が聞こえた。
パーカーのファスナーを下げると、胸元にこもり始めた湿気が逃げていった。
小さな公園には一人の女性が駆け回る子どもに視線を送っていた。
アパートに横付けされた「郵便局」と書かれた赤いバイクが走り去った。
すぐ近くで砂に鈍く打ち付けられる音がした。男の子が地面に膝をついている。土埃が収まるより早く手が伸びた。
「大丈夫かい。膝を擦りむいてるね。そこの水道で洗おうか」
低学年くらいの男の子は歯を食いしばって鼻をすすった。手を引いて水道に連れて行くと、大人の足音が近づいてきた。
「すみません、ありがとうございます」
女性の低いゆっくりした声。
「いえ」
蛇口を捻り、水の流れに手を添えた。
「さあ、よく流さないといけないからね」
勢いの消えた水が傷口にたどり着いた。
「痛い」
男の子の口が真横に広がった。
「そうだな。ほら、これでおしまい」
蛇口から甲高い音が鳴り水の流れが止まった。取り出した小さいポーチには絆創膏がいくつも入っている。男の子の膝の傷は絆創膏で見えなくなった。
「ありがとうございます」
そばにいた女性は顔を下に向けたまま、目だけを上げた。後ろで白い花びらが渦を描いていた。
「教員なので、慣れてます」
抑揚のない声が出た。
女性の眉が上がり眉間の縦じわが薄くなった。女性は会釈をし、男の子と手をつないで出口に向かった。
足元の石を靴の横ではじくと少し転がった。
蛇口から水が一定のリズムで落ちている。ステンレスの匂いが近くに漂う。蛇口をもう一度締め直した。
親子が向かった公園の出口には、もう誰もいなかった。
ベンチのポリ袋を取りアパートに顔を向けた。
靴の踵が地面を擦る音がするたびに、土の匂いが後をつける。
猫がアパートの階段の下でじっと見つめていた。アパートの壁は真新しい。ところどころにひびがあり、上から被せられた塗料が盛り上がっている。
郵便受けには、部屋の鍵の他に「中森照彦様」と印刷された電気会社からの封筒が入っていた。空<から>になった郵便受けを閉じると鈍い音がした。
アパートの階段は一段一段が高く、足音が大きく聞こえた。
台所には冷めたコーヒーが、微かに匂いを残している。外の光はあまり届いていない。壁のスイッチに手が伸び、LEDの青白い光が部屋を照らした。
ソファーが深く沈み込む。手に持ったスマートフォンの画面が白く光った。右上の電池残量アイコンは赤い。
ブラウザアプリを立ち上げた。検索ボックスで縦棒が点滅し続ける。
スマートフォンのメロディが鳴り、画面に「着信 祐介」と表示された。
「もしもし」
「おーい照彦、この前の旅行の件だけど、どうなった?」
部屋のカレンダーには、四月十二日土曜日に三角の印がある。
「やっぱり、行くのやめておくよ」
「なんで」
「なんでって、ほら、新学期の図工の準備しなくちゃ」
「卒業式が終わったばっかりだろ? もう準備するのか?」
壁に点々とついたシミを指でこすった。
「卒業式は僕にはあんまり関係ないよ」
「どっちにしろ、旅行は土曜だぞ」
「そうだけど」
「どうした? 体調不良か? なんか嫌なことでもあったか?」
「大丈夫だよ。体調は悪くないし」
「じゃあなんなんだよ」
「何って」
「まぁお前の訳のわからなさは今に始まったことじゃないけど」
「うるさいな」
「わかったよ。もう言っても無駄だな。次は参加しろよ」
スマートフォンを離した。天井のライトが揺らぐことなく光り続けている。
カーテンレールにかけたままのTシャツには大きなサルのキャラクターが描かれている。襟がよれよれになっていた。
白い画面に「Tシャツ」と打った。画面を指がスライドする微かな音しか聞こえない。たくさんのTシャツが整然と列をなしていた。
ゆるいクラゲのイラストが描かれたTシャツの上で手が止まった。「気楽に生きようぜ」と手書き風の文字が印字されていた。
強く短い息が漏れた。指で下になぞると、グレーの「カートに入れる」ボタンが現れた。サイズを選ぶとオレンジ色に変わった。
画面が一段、暗くなった。指は動かない。真っ暗になるとまぶたが半分下りた目と、わずかに上がっている口角が映った。外を車が数台続けて走った。
再び画面に明かりを灯し「カートに入れる」めがけて指を動かした。
ゆっくり立ち上がりカレンダーの前に進むと床がきしんだ。「東京」の文字に二本線を引き、ペンの後ろでおでこ数回叩いた。
「材木座海岸 シーグラス」
ペンのキャップが音を立てて閉められた。
「クラゲのTシャツ、か」
その乾いた声はカレンダーに当たった。
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