⑦
店内の時計を見ると十時を回っていた。
喜楽の引き戸を閉めると、店内の温かい光と賑やかな笑い声が遠ざかった。
「こんなに楽しくお酒をいただいたのは、初めてかもしれません」
「僕も、すごく楽しかったです」
ポケットに手を入れて歩きだすと、詩織も後に続いた。
詩織の顔はほのかに赤く染まっていた。
「バス、三十分くらい来ないですね。タクシー呼びますか?」
詩織の目がアスファルトに向く。
「駅まで歩くと、遠いですか?」
「そうですね、二十分くらいはかかります」
「歩きたい、です。送ってくださいますか?」
「もちろんです」
詩織は目を下に向けたまま口を横に開いた。
足音が交互に聞こえている。
「あ、あの」
声が裏返った。
詩織の横を車が通り過ぎる。ブレーキランプが赤く灯った。
「いや、なんでもないです」
後ろから詩織の笑い声が聞こえた。
「照彦さん、せっかくの縁です。またお会いできませんか?」
目尻は下がっていた。
「ぜ、ぜひ」
詩織の目が細くなり、瞳は見えなくなった。
自転車がすぐ横を通り過ぎる。
足音がわずかに遅くなった。
「照彦さんは、海みたいですね」
詩織は足元を見て、一歩一歩進んでいた。
「どんなものも、優しく包み込んでくれる」
わずかに湿り気のある空気が、木の葉を運んでいった。
足を止め、暗くなった空を見上げた。銀色の細い月が星空に浮かんでいる。
「じゃあ、詩織さんは、月かな」
「月?」
詩織の口元がこわばり、アスファルトに目を落とした。
「うん。僕のちっぽけで、平凡な世界を、静かに照らしてくれる」
詩織は顔を上げる。目を見開いていた。
「海に月。合わせて海月<クラゲ>。ほら、ちょうどいい。僕たちに、ぴったりだ」
「うわぁ」
歩く詩織の足音が少し近づいた。
鎌倉駅のホームに夜風が吹き抜けた。
自動販売機の前でスマートフォンの画面を見つめた。詩織もスマートフォンに目を落としている。
「そっか。なかなかタイミングが合いませんね。残念だな」
「本当ですね」
詩織は肩の力が抜けていた。
「でもほら、もう連絡先、知ってるから」
スマートフォンを振ってみせる。
詩織は目尻を下げてほんの少し微笑んだ。
電車が滑り込んできた。
「じゃあ、また。気をつけて」
「はい、また。今日はありがとうございました」
「こちらこそ」
ドアが閉まり、詩織の姿が見えなくなるまで、手を振り続けた。
窓越しの詩織は小刻みに手を振っていた。左手にはスマートフォンが握りしめられている。
右手のスマートフォンを大きく振った。




