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「さ、着きましたよ」

 頭上の看板には「酒処 喜楽」と書かれていて、後ろのライトの光を透過している。

「きらく?」

「そうです。喜楽です」

「わかりました。『気楽』に生きようぜ、ですね?」

「へ? あ、本当だ。気付かなかった」

 光が漏れる引き戸を開けた。

「お、照彦くんとお連れさん、いらっしゃい」

 カウンターの席に近づき、大将から差し出された熱いおしぼりで手を拭いた。

「詩織さん、何飲みます? 僕はビールかな」

「では、私も」

 詩織は答えながら、あたりを見渡していた。

「オッケー。大将、とりあえずビールと塩だれの焼き鳥とはんぺんフライを2つずつ」

「ほーい」

 焼き鳥を焼く音と煙が立ち上がった。

「何か食べたいものがあったら言ってくださいね」

「ありがとうございます。どれも美味しそう」

 メニューを見る詩織の背筋が伸びている。

「ここは、僕が若い頃、仕事で大きなミスをしてしまって、先輩がここで一晩中、黙って話を聞いてくれて」

 詩織はメニューを手にしたまま、目を向ける。眉毛は下がっていた。

「それは、特別な場所ですね」

「はい。それ以来、すっかり行きつけで。よく、友人とも飲みに来ます」

 ビールが二つ運ばれてきた。

「では、クラゲの出会いに、乾杯」

 詩織は口元を緩ませながら、ジョッキを両手で持った。

「クラゲの出会い、そうですね」

 軽くガラスの当たる音が響く。

 目を閉じてビールを煽った。

「プハー。 うまい」

 詩織は一口飲むと、目を瞑った。

「プハッ。美味しい」

 潤った詩織の唇は、少し口にしまわれた。詩織はジョッキを静かにテーブルに置いた。

「その、さっきおっしゃってた仕事での失敗ってどのようなものですか?」

「あぁ。えっとですね」

 壁には茶色くくたびれた手書きのメニューが並んでいる。中には真新しい白い紙に書かれたものもあった。

「ある児童の、表現を奪ってしまったことがあるんです」

 ジョッキの水滴が下に流れ落ちた。

「翔太くんという、男の子でした。翔太は、素晴らしい色彩感覚を持っていました。二年生の時に描いたライオンなんて、たてがみが虹色で、空がピンク色だった」

 ジョッキに付いた水滴を親指で撫でると、そこだけビールの色が濃くなった。

「でも、学年が上がるにつれて、周りの大人が口を出すようになったんです」

 タオルで手を拭き、ビールを一口飲んだ。

「翔太に、『正解の絵』っていうんですかね。それを求めました」

 カウンターに置かれたジョッキは鈍い音を立てた。

「僕は、いろんな先生のやり方を知った方が成長になるか、なんて思って傍観して」

 琥珀色のビールは泡を残していた。

「そして翔太は、市のコンクールで『市長賞』を取りました。画題は『未来のまち』。お手本のようでした」

 詩織は目は手元から動かず、机のビールは減っていなかった。

「彼の卒業式の翌日です。僕は図工室のゴミ箱の中で、それを見つけました」

 持ち上げる仕草をした。

「市長賞を取ったあの絵。クシャクシャに丸められて、捨ててあったんです。翔太にとって、きっとあの絵は、自分のじゃなかったんです」

 詩織の手が拳を作った。

「なんていうか、情けなくて。その時に先輩にここで支えてもらったんです」

 カウンターの奥からフライを揚げる音がした。

「わかる、気がします」

 詩織が自分の手を見つめている。

「私は、商品。正解でなければならない。中身なんて関係ない。常に完璧であること。それが存在理由」

 詩織は左右の指を絡めていた。

「昔はそれでも熱があったんです。頑張ろうって。でも、今は何を目指せばいいのか。何のためにレンズを見続けているんだろうかって」

 詩織の長いまつ毛が下を向く。ビールの小さい泡が、下から線を作っていた。

「もしかしたら」

 一口飲んでジョッキを下ろすと泡だけ残った。

「もしかしたら、すでに自分なりの正解を探しているところなのかもしれませんね」

 詩織の動きが止まった。ゆっくり頷き詩織に笑顔が戻る。

 カウンターの内側から、香ばしい煙と共に大将が声をかけた。

「ほーい、先生、塩だれお待ちどう」

 大将が、焼き鳥が乗った皿を二人の前に置いた。

「大将、だから先生はやめてくださいよ」

 大将は楽しそうに笑っていた。お皿を覗き込む詩織の目も細くなっていた。

「あとはんぺんフライね」

 大将がもう一皿、黒っぽい揚げ物を詩織の前に置いた。

「これが、はんぺんフライ?」

 詩織の目が大きく見開かれた。

「静岡の郷土料理なんだって」

「私の知っているはんぺんとは全く違う」

「そうでしょ。まぁ難しいことなしで、熱いうちに食べてくださいよ」

 大将は他の客の注文を受けに少し離れていった。

 詩織はお箸を両手で持つ。お箸の先だけを使い、切り分けようとした。

「思ってたより固いですね」

「そうなんですよ」

 そのままかぶり付くと、衣が歯に当たり噛み切られる音が周囲に広がった。

 詩織は小さく頷き、そのままかぶりついた。何度も咀嚼し、目を左右に動かしていた。

「美味しいです。練り物をぎゅっと固くしたような。初めての食感です。魚のお味が口いっぱいに広がりました」

 おもむろに頷いた。

 詩織はビールを飲みながらお店を見渡した。大将の動きに合わせて、詩織の顔もついていく。

 大将が他のお客に声をかけると、笑い声が大きくなった。

「とても、いいお店ですね」

 詩織が顔を向けた。

「大将も喜びます。この店は大将の作品ですから」

「『いい作品』、ですね」

 詩織が上目遣いになった。

「それです。あ、そうだ。作品と言えば」

 ジャケットのポケットから小さな包みを取り出した。

「あの、これ、よかったら、もらってください」

「え?」

 詩織は手を伸ばして包み紙を受け取った。詩織の爪は整えられていて光沢があった。

 中から現れたのは、小さなクラゲのキーホルダーだった。

「たまたま、雑貨屋でこのキーホルダーを見つけまして。あ、このシーグラスは、一緒に拾った中から、ちゃんと一番綺麗だったやつを選びました」

 詩織はそれを手に取り、手のひらに乗せると見つめ続けた。

「このワイヤーは、照彦さんが加工したんですか?」

「なかなかいい出来でしょ。シーグラスが雫にも、電球にも見えるような」

「本当にすごいです。お店でも売ってないですよ」

「そんな大袈裟な。シーグラスを一緒に拾ってくれたお礼になりますか」

 詩織は大きく顔を上下させた。キーホルダーをバッグにつけ、指で優しく撫でた。

「『クラゲちゃん』って名前にしよう」

 焼き鳥のたれの甘い匂いが通り過ぎた。

「喜んでもらえてよかった」

「はい、とっても。宝物にします」

 詩織はクラゲちゃんを指で揺らしていた。

「休みに頑張って作った甲斐がありました」

 詩織の口は大きなカーブを作る。うっすら歯が見えた。

「モデルさんって定休日はあるんですか?」

「定休日、ですか?」

 詩織は目を瞬いた。

「いや、ほら、芸能界って不定休っていうじゃないですか」

「芸能界、と言っていいのかわかりませんが、そうですね。仕事は平日が多いですが、ファッションショーなどは土日に入ります」

「うわっ、休みなし?」

「いえいえ、午前だけの時もあったり、丸一日オフの時もあります」

「午前だけでも仕事があったら休みじゃないですよ。無理しちゃダメですよ」

「はい、その言葉だけで、頑張れます」

 詩織は口を片方に寄せ、拳を作った。

「あれ? 逆効果かな? でも本当に無理は禁物ですよ」

 指を立て、横に振った。

「はーい、先生」

 二人の笑い声が静かに広がった。


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