⑥
「さ、着きましたよ」
頭上の看板には「酒処 喜楽」と書かれていて、後ろのライトの光を透過している。
「きらく?」
「そうです。喜楽です」
「わかりました。『気楽』に生きようぜ、ですね?」
「へ? あ、本当だ。気付かなかった」
光が漏れる引き戸を開けた。
「お、照彦くんとお連れさん、いらっしゃい」
カウンターの席に近づき、大将から差し出された熱いおしぼりで手を拭いた。
「詩織さん、何飲みます? 僕はビールかな」
「では、私も」
詩織は答えながら、あたりを見渡していた。
「オッケー。大将、とりあえずビールと塩だれの焼き鳥とはんぺんフライを2つずつ」
「ほーい」
焼き鳥を焼く音と煙が立ち上がった。
「何か食べたいものがあったら言ってくださいね」
「ありがとうございます。どれも美味しそう」
メニューを見る詩織の背筋が伸びている。
「ここは、僕が若い頃、仕事で大きなミスをしてしまって、先輩がここで一晩中、黙って話を聞いてくれて」
詩織はメニューを手にしたまま、目を向ける。眉毛は下がっていた。
「それは、特別な場所ですね」
「はい。それ以来、すっかり行きつけで。よく、友人とも飲みに来ます」
ビールが二つ運ばれてきた。
「では、クラゲの出会いに、乾杯」
詩織は口元を緩ませながら、ジョッキを両手で持った。
「クラゲの出会い、そうですね」
軽くガラスの当たる音が響く。
目を閉じてビールを煽った。
「プハー。 うまい」
詩織は一口飲むと、目を瞑った。
「プハッ。美味しい」
潤った詩織の唇は、少し口にしまわれた。詩織はジョッキを静かにテーブルに置いた。
「その、さっきおっしゃってた仕事での失敗ってどのようなものですか?」
「あぁ。えっとですね」
壁には茶色くくたびれた手書きのメニューが並んでいる。中には真新しい白い紙に書かれたものもあった。
「ある児童の、表現を奪ってしまったことがあるんです」
ジョッキの水滴が下に流れ落ちた。
「翔太くんという、男の子でした。翔太は、素晴らしい色彩感覚を持っていました。二年生の時に描いたライオンなんて、たてがみが虹色で、空がピンク色だった」
ジョッキに付いた水滴を親指で撫でると、そこだけビールの色が濃くなった。
「でも、学年が上がるにつれて、周りの大人が口を出すようになったんです」
タオルで手を拭き、ビールを一口飲んだ。
「翔太に、『正解の絵』っていうんですかね。それを求めました」
カウンターに置かれたジョッキは鈍い音を立てた。
「僕は、いろんな先生のやり方を知った方が成長になるか、なんて思って傍観して」
琥珀色のビールは泡を残していた。
「そして翔太は、市のコンクールで『市長賞』を取りました。画題は『未来のまち』。お手本のようでした」
詩織は目は手元から動かず、机のビールは減っていなかった。
「彼の卒業式の翌日です。僕は図工室のゴミ箱の中で、それを見つけました」
持ち上げる仕草をした。
「市長賞を取ったあの絵。クシャクシャに丸められて、捨ててあったんです。翔太にとって、きっとあの絵は、自分のじゃなかったんです」
詩織の手が拳を作った。
「なんていうか、情けなくて。その時に先輩にここで支えてもらったんです」
カウンターの奥からフライを揚げる音がした。
「わかる、気がします」
詩織が自分の手を見つめている。
「私は、商品。正解でなければならない。中身なんて関係ない。常に完璧であること。それが存在理由」
詩織は左右の指を絡めていた。
「昔はそれでも熱があったんです。頑張ろうって。でも、今は何を目指せばいいのか。何のためにレンズを見続けているんだろうかって」
詩織の長いまつ毛が下を向く。ビールの小さい泡が、下から線を作っていた。
「もしかしたら」
一口飲んでジョッキを下ろすと泡だけ残った。
「もしかしたら、すでに自分なりの正解を探しているところなのかもしれませんね」
詩織の動きが止まった。ゆっくり頷き詩織に笑顔が戻る。
カウンターの内側から、香ばしい煙と共に大将が声をかけた。
「ほーい、先生、塩だれお待ちどう」
大将が、焼き鳥が乗った皿を二人の前に置いた。
「大将、だから先生はやめてくださいよ」
大将は楽しそうに笑っていた。お皿を覗き込む詩織の目も細くなっていた。
「あとはんぺんフライね」
大将がもう一皿、黒っぽい揚げ物を詩織の前に置いた。
「これが、はんぺんフライ?」
詩織の目が大きく見開かれた。
「静岡の郷土料理なんだって」
「私の知っているはんぺんとは全く違う」
「そうでしょ。まぁ難しいことなしで、熱いうちに食べてくださいよ」
大将は他の客の注文を受けに少し離れていった。
詩織はお箸を両手で持つ。お箸の先だけを使い、切り分けようとした。
「思ってたより固いですね」
「そうなんですよ」
そのままかぶり付くと、衣が歯に当たり噛み切られる音が周囲に広がった。
詩織は小さく頷き、そのままかぶりついた。何度も咀嚼し、目を左右に動かしていた。
「美味しいです。練り物をぎゅっと固くしたような。初めての食感です。魚のお味が口いっぱいに広がりました」
おもむろに頷いた。
詩織はビールを飲みながらお店を見渡した。大将の動きに合わせて、詩織の顔もついていく。
大将が他のお客に声をかけると、笑い声が大きくなった。
「とても、いいお店ですね」
詩織が顔を向けた。
「大将も喜びます。この店は大将の作品ですから」
「『いい作品』、ですね」
詩織が上目遣いになった。
「それです。あ、そうだ。作品と言えば」
ジャケットのポケットから小さな包みを取り出した。
「あの、これ、よかったら、もらってください」
「え?」
詩織は手を伸ばして包み紙を受け取った。詩織の爪は整えられていて光沢があった。
中から現れたのは、小さなクラゲのキーホルダーだった。
「たまたま、雑貨屋でこのキーホルダーを見つけまして。あ、このシーグラスは、一緒に拾った中から、ちゃんと一番綺麗だったやつを選びました」
詩織はそれを手に取り、手のひらに乗せると見つめ続けた。
「このワイヤーは、照彦さんが加工したんですか?」
「なかなかいい出来でしょ。シーグラスが雫にも、電球にも見えるような」
「本当にすごいです。お店でも売ってないですよ」
「そんな大袈裟な。シーグラスを一緒に拾ってくれたお礼になりますか」
詩織は大きく顔を上下させた。キーホルダーをバッグにつけ、指で優しく撫でた。
「『クラゲちゃん』って名前にしよう」
焼き鳥のたれの甘い匂いが通り過ぎた。
「喜んでもらえてよかった」
「はい、とっても。宝物にします」
詩織はクラゲちゃんを指で揺らしていた。
「休みに頑張って作った甲斐がありました」
詩織の口は大きなカーブを作る。うっすら歯が見えた。
「モデルさんって定休日はあるんですか?」
「定休日、ですか?」
詩織は目を瞬いた。
「いや、ほら、芸能界って不定休っていうじゃないですか」
「芸能界、と言っていいのかわかりませんが、そうですね。仕事は平日が多いですが、ファッションショーなどは土日に入ります」
「うわっ、休みなし?」
「いえいえ、午前だけの時もあったり、丸一日オフの時もあります」
「午前だけでも仕事があったら休みじゃないですよ。無理しちゃダメですよ」
「はい、その言葉だけで、頑張れます」
詩織は口を片方に寄せ、拳を作った。
「あれ? 逆効果かな? でも本当に無理は禁物ですよ」
指を立て、横に振った。
「はーい、先生」
二人の笑い声が静かに広がった。




