カルミラの怒り
私が恐る恐る扉の方へと目をやると、カルミラが太い両腕を組み、冷酷な眼差しで壁に背を預けたまま、こちらの様子をじっと見つめていた。
その背中には、以前、フランの肩を無慈悲に貫いた、あの黒く太い凶悪な槍が平然と携えられている。
カルミラはゆっくりと背を壁から離すと、衣服の擦れる音すら立てない不気味なほど静かな足取りで、私たちの元へと確実に歩み寄ってきた。
「ガルシア……。私は常々、言っていたよな?
『裏切りは、等しく万死に値する』と。
……お前が今ここで私の『花嫁』に対して行おうとしていた真似は、明らかに私への裏切りだな?」
そのカルミラの声に宿る絶対的な死の気配に、ガルシアは一瞬にして顔面から血の気を完全に無くし、ガバッ!!! と弾かれたように私の身体から飛び退いた。そのまま立ち上がると、カルミラの方へとその巨体を向けた。
私は床の上でようやく自由になった上半身を必死に起こし、衣服の胸元を押さえながら、二人の間に流れる張り詰めた空気を固唾を飲んで見続けた。
「か……、カルミラ様っ!! 違います、これには深い理由が……っ!!」
ドスッ――!!!!
男の必死の弁明を、カルミラの長い槍の刃が、文字通り瞬き一つする間すら与えず真っ直ぐに突き破った。
あまりの超速度に、何が起きたのか私の脳が理解するのが遅れた。
床に座り込む私の目の前で、直立していたガルシアの背中の肉を突き破り、黒い槍の鋭利な先端がこちら側へと生々しく突き出ている。
肉を強烈に割く嫌な音と同時に、鮮やかな血がパッと辺りの虚空へと勢いよく噴き出し、冷たい水に濡れていた床の藁を、みるみるうちにどす黒い赤へと染め上げ始めた。
「が、はっ……あ……っ」
ガルシアが漆黒の瞳を見開いたまま、口から大量の血の塊を吐き出す。
カルミラは顔色一つ変えぬまま、ガルシアの胸に深々と突き刺していたその長い槍を、骨の軋む音と共にガッと強烈な勢いで引き抜いた。
ガルシアの巨体がどさりと床の藁の上へと崩れ落ちる。
カルミラは血を滴らせている槍を左手に握ったまま、私の元へと静かに近づき、その膝を折って背を低くした。
そして、私が未だに必死の思いで握りしめていた、歪に割れたあの花瓶の残骸へと、その手をそっと添えた。
「お前がそんな玩具を握る必要はない。
……お前のその綺麗な手は、これっぽっちも穢す必要はないのだ」
カルミラはそう優しく言いながら、私の手から力ずくではなく、滑らかに花瓶を引き抜いて床の藁の上へと転がせた。
そして、私の自由になった細い身体を、躊躇いなくその強靭な両腕で力強く抱き上げた。
「すまない、メアリー。……お前に、こんな酷く怖い思いをさせてしまった。
……こうならないように、お前の身の安全のため、私と、本当に信頼のおけるナターシャの目にしか触れさせない安全な部屋に隠していたというのに……」
私の身体をしっかりと抱きしめてくれている、カルミラのその大きな手が――ほんの僅かに、繊細に震えているのが、密着した肌を通してダイレクトに伝わってきた。
驚いてカルミラの顔を見上げると、狂おしく愛おしそうな眼差しで私をじっと見つめていた。
けれど、その底の知れない漆黒の瞳の奥には、隠しきれない深い『悲しみ』の色彩が、確かに見て取れた。
――そうだ。さっき、ナターシャが部屋で教えてくれた。
カルミラとガルシアの二人は、幼い頃からずっと同じ一族として、互いに切磋琢磨して過酷な環境を生き抜いてきた、唯一無二の存在だったのだと。
たとえ一族の掟を破った『裏切り』であったとはいえ、長年自分の隣にいた男を、自らの手で容赦なく突き殺さなければならなかったカルミラ自身も、決して心が平穏であるわけはなかったのだ。
そう気がついた瞬間、私は思わず抱きかかえられた体勢のまま、自分の両腕をカルミラの分厚い背中へと優しく回し、彼女の震えを止めるようにぐっと強く、その身体を抱き締めていた。
私の肩口のすぐ近くで、カルミラの驚いたような微かな吐息が聞こえ、続いて低い声音が響く。
「……そうか。そんなに怖かったのだな。
……安心しろ、もう大丈夫だ。何があっても、これからはこの私がお前の命を命がけで守ってやろう……」
カルミラの、私を自分のものとして抱き締める大きな腕に、さらにみしりと強い力が込められた――。
「メアリーさん……っ!! カルミラ様……っ!! だ、大丈夫ですか……っ!?」
その時、肩を激しく上下させて息を切らし、完全に血相を変えたナターシャが部屋の中へと飛び込んできた。
カルミラは私をその強靭な両腕で優しく抱きかかえたまま、ゆっくりとナターシャの方へと向きを変えた。
そして、先ほどガルシアを突き殺した時とはまるで別人のような、穏やかで美しい声を放った。
「ああ、ナターシャ。よくぞ異変を察知して、私を呼びに走ってくれた。お前の迅速な機転のお陰で、間一髪のところで間に合ったよ」
私が腕の中で呆然とカルミラの顔を見つめていると、カルミラは私の金の髪にそっと触れ、まるで幼い子供に言い聞かせるように優しく説明してくれた。
「ナターシャはな、ガルシアがこの部屋に来たのを見て、すぐに異変を感じ取ったのだよ。
だが、自分の非力な手ではあのガルシアを力ずくで止めることは出来ないと瞬時に判断し、私を呼びに来てくれたのだ」
――あ、そうだったんだ……!!
あの時、廊下を走っていった彼女の足音は、ガルシアの手から私の命を救い出すために、カルミラを今すぐこの部屋へと連れてくるための、命がけの疾走だったのだ。
「ナターシャ……。私を助けてくれて……本当に、ありがとう」
私が心の底からの感謝を真っ直ぐに伝えると、ナターシャは驚いたように一度目を見開き、それから酷く恥ずかしそうに床の藁へと視線を落とした。その耳の付け根が、微かに赤く染まっているのが見える。
カルミラは私の身体を、宝物を扱うかのようにとても丁寧に床の上へと下ろした。
「さあ、ナターシャ。私の可愛い妹よ、すぐに最高の婚儀の準備を始めよう。メアリーを美しく整えてくれ。
……ああ、それと。床の上のあと片付けも、お前にすべて任せたぞ」
「は、はい……! カルミラ様……!」
カルミラは冷たく床に転がるガルシアの骸を一瞥すると、今度こそ満面の笑顔を浮かべて、私の左手を取り、歩き出した――。




