婚儀に対する思い
その時だった。
部屋の頑丈な木の扉を、コン、コン、と低くノックする不気味な音が静寂を破った。
続いて、扉の向こう側から、聞いたことがある、憎々しいあの男の声が聞こえてきた。
「――ナターシャ。カルミラ様が、至急お前をお呼びだ」
その声を聞いた瞬間、ナターシャはビクッと身体を強烈に震わせ、パッと右手の櫛をその場に置いたかと思うと、まるで何かから逃げ出すようにして、慌てた足取りで扉へと向かって行ってしまった。
彼女がそれほどまでに恐れるのも無理はなかった。
何せ相手は、自分を激しく嫉妬し、嘘を並べ立てて国から非情に追い出した、あの因縁のガルシアなのだから。
部屋の扉がパタンと静かに閉まり、ナターシャがパタパタと廊下の奥へと足早に走って行く足音だけが、部屋の中にまで小さく響いてきた。
「ふぅ……っ」
私は緊張の糸が切れたように深く息を吐き出すと、鏡の中に映っている自分の姿へと改めて目をやった。床の藁を踏みしめて立ち上がり、姿見のすぐ目の前まで近づくと、その冷たいガラスの表面へと、そっと自分の白い手のひらを触れる。
鏡の向こうには、綺麗に梳かされた金の長い髪と、私の深い緑色の瞳が映っていた。
――と、その瞬間だった。
ギィィ……と、錆びついた嫌な音が部屋の中に響き、背後の扉がゆっくりと開いていく気配が伝わってきた。
――しま、った……!! 油断した……っ!!!
心臓が、ドクンッ!! と嫌な音を立てて激しく跳ね上がる。
さっき、ナターシャが部屋から去っていく足音は確かに聞こえた。
そう、ナターシャの足音だ。廊下を走っていく、彼女の足音『しか』聞こえなかったのだ。
ゆっくりと振り返った私の視線の先、開かれた扉の向こう側に、ぞっとするほど不敵な笑みを浮かべたガルシアの姿が、ぬっと不気味に現れた。
「やあ、王女様。……一人で退屈していたかい?」
右腕を失い、包帯を巻いたままのその男は、私の逃げ場を完全に塞ぐようにして、ゆっくりと部屋の中へと足を踏み入れてくる。
婚儀が始まるまでの間、この部屋にはカルミラとナターシャの二人しか立ち入ることを許されない。
――そう言い渡されていたはずなのに、何故この男がここにいるのだ……
ガルシアが下卑た笑みを浮かべたまま、じり、じりと確実に私との距離を詰めてくる。
「お前ら他国の人間が現れるまで……すべては完璧だったんだ……」
ガルシアが一歩歩み寄るたびに、床の藁を踏みしめる音がミシミシと不気味に響く。
切り落とされて間もない彼の右腕の包帯には、滲んだ血液が赤黒く固まった生々しい痕が残っており、距離が詰まるにつれて、男の脂汗と血の不快な匂いが部屋の中に濃く立ち込めてくる。
「あのナターシャの出来損ないを国から上手く追い出し、俺はやっとカルミラ様の唯一無二の側近として上手くやっていっていたんだ……! それなのに、お前らのせいでこのザマは何だ!!
誇り高き右腕を失う羽目になっただけでなく、せっかく追い出したナターシャがまた手柄を引っ提げて戻ってきたじゃないか!!」
私は恐怖に後ずさりをしながら必死に距離を離そうとしたが、窓のない狭い部屋ではすぐに限界が訪れ、もう目の前にはガルシアの巨大な体躯が立ち塞がっていた。
ガルシアは私を蛇のように激しく睨みつけながら、残された左手で自身の腰から鋭い剣をすらりと引き抜いた。こちらに向けられた白刃が、小さな窓から差し込む濁った昼下がりの光を反射し、ギラリと私の顔を冷酷に照らし出す。
「お前さえ、お前さえ……この国に現れなければ……っ!!」
「こんな愚かなことをして、もしカルミラにバレたらどうなるか分かってるの……っ!?」
私は必死に声を張り上げて最後の足掻きを見せた。
だが、ガルシアはその脅しを鼻で笑うように、低く笑い出した。
「ククク……お前は何も分かっていないな。カルミラ様はな、身内の『裏切り』が何よりも大嫌いなお方なんだよ。
……お前がこの部屋から不届きにも一人で逃げ出そうとしたから、一族のために俺がここでやむなく斬り殺した――とでもカルミラ様へ報告しておけば、すべて問題ないのさ。ハハハ!」
恐怖にジリジリと後退りし、もう少しで背中が冷たい壁につこうかというところで、私の足が藁にもつれた。
バランスを完全に崩し、どさりと後ろへと尻もちをつく最悪の形で床へ倒れ込んでしまう。
逃げ場を失った、床の私を見下ろした瞬間――ガルシアの表情と声音が、さらにドス黒く粘着質なものへと変化した。
「……そうだな。ただ今すぐここで殺してやるだけじゃ、あまりにも物足りん。
どうせカルミラ様へ引き渡す前に死体になるんだ。……その前に、この俺の慰みものとして、たっぷりとその身体で楽しませてもらうとしようか……!」




