ナターシャの事情
やがて、部屋の重い木の扉が静かに開き、ナターシャが私を迎えにやってきた。
私は彼女の先導の元、昨日までの殺風景な仮眠室を出て、一族の最深部にある、姿見の置かれた白を基調とした部屋へと移動させられた。
壁には、ひと目で婚儀に使うものだとわかる、真っ白のドレスが掛けられていた。
部屋の高い位置には小さな窓が一枚だけ嵌め込まれており、そこから外の広大な空を臨むことが出来るようになっている。
窓の向こうには、どこまでも澄み渡るような青い空に、穏やかな白い雲が浮かんでいる。外はさぞかし、気持ちの良い優しい風が吹き抜けていることだろう。
……だが、私はこの美しい部屋から、自分の足で外へ出ることは決して許されないのだ。
皮肉なことに、窓の向こうの空が美しければ美しい程、己の心がどこまでも暗く曇っていくのを私は嫌というほど感じた。
――どうせなら、この世界ごと荒れ果てた天気になればいいのに。
木々を根こそぎ吹き飛ばさんとするほどの激しい大嵐が吹き荒れ、窓を狂ったように殴る強い雨が降ればいい。外の世界がそれほど凄惨で不快な地獄のようになってしまえばいい。
そうすれば……この冷たい手枷を嵌められた檻のような部屋の中にいる自分の方が、まだいくらかマシで、少しでも「幸せ」なのだと、自分の哀れな心に嘘をついて思い込むことが出来るから。
カルミラには、あの監禁部屋で一人にされてからというもの、一度も会っていない。
私は、姿見の前に置かれた冷たい椅子に静かに腰掛けさせられ、背後からナターシャに髪を梳かしてもらっていた。
ふとした拍子に、自分の左手首に嵌められたあの禍々しい金属の手枷が鏡越しに目に入る。
そのたびに、胸の奥をどす黒い絶望のようなものがじわりと支配しそうになるが、私は強く奥歯を噛みしめて自分に暗示をかけ、『こんなもの大したことない、なんともない』と心の中で必死に言い聞かせ続けた。
ふと、部屋の中に、微かに甘い花の香りが満ちていることに気がついた。
カルミラへの危害を禁じられた身の上では、首を大きく動かして周囲をキョロキョロと探すことすら本能的に制限されているのだろうか。
私は頭を固定したまま、目線だけを左右へと必死に動かして匂いの元を探し見た。
すると、大きな姿見のすぐ真横に、ピンクや黄色の可愛らしい小さな花々で作られたこじんまりとした花束が、ガラスの花瓶にそっと挿して置いてあった。
その足元には、数枚の鮮やかな花びらが寂しげに散っている。
それはまるで、祝福されるべき花嫁が手にする『ブーケ』のようだった。
いや、きっと他ならぬ本物のブーケなのだろう。
ナターシャは何も話さず、ただただ、私の長い金の髪を大きな櫛で丁寧に梳かし続けている。時折、櫛が途中で引っかかるところを見つけると、彼女はさらに念入りに、時間をかけて優しくその絡まりを整えていく。
「ナターシャ……」
静寂に耐えかねて私が小さく声をかけると、私の髪に触れていた彼女の櫛を持つ手が、ピクッと微かに震えた。その繊細な振動が、金の髪の毛の一本ずつ通して、頭皮へとダイレクトに私に伝わってくる。
けれどナターシャは、その後も何事もなかったかのように、黙々と私の髪を梳かし続けた。
「カルミラとは、本当はどういう間柄だったの?
一度は魔力が弱いからと国を追い出されたようだったけれど……今のカルミラのあなたに対する信頼は、とても深い気がしたから」
ナターシャは重い口をゆっくりと開き、今にも橙色の光のなかに溶けて聞き逃してしまいそうなほどの、酷くか細い声をポツリと発した。
「……私は、混血なのです」
「え? それって……カイトみたいな、別の種族同士の……?」
カイトは、大空を駆ける『鳥人』の母と、ゼインの父である前国王との間に生まれた子どもだった。
ナターシャは髪を梳かす手を片時も止めぬまま、さらに心の奥底から言葉を絞り出す。
「そうです。私は、ここ【操獣の国】の人間と、私たちが訪れた【魔道具を作る国】の人間の血が、半分ずつ混ざり合っているのです。
……だから、我が一族が生まれ持っているはずの、動物を操るための生粋の魔力が、あのように酷く弱いのです」
「……そっか! だから……だから、ナターシャとリオールの瞳の色が、全く同じ綺麗な紫色だったのね……っ!」
私は激しい衝撃に目を見開いて、鏡の中に映っているナターシャの顔をじっと見つめていた。ナターシャは顔色一つ変えないまま、淡々と説明を続ける。
「通常、人間がその身に保有できる魔力の絶対量は、生まれた瞬間から決まっています。
ですが、異なる一族の血筋が混ざり合った『混血』の場合、その限られた容量の中に、両方の性質の魔力が同時に宿ることになるのです。
その割合は人によって全く違うのですが……ですが、カイトさんの場合、鳥人としての力が『10』、つまり保有量のすべてを占めています。
だからこそ、カイトさんは実の兄であるゼイン様のような、高度な結界魔法や解毒、傷の治癒といった人間側の魔力は一切使えないのです」
ナターシャのその解説を聞いて、思い当たる点がいくつかあった。
「なるほど……。だから、カイトは本物の鳥人に劣らないほどの、あの驚異的な飛行能力を持っていたんだ……」
ナターシャは鏡の中で静かに頷きながら、寂しげに続けた。
「はい。……そして、私の場合は、操獣の力が『2』、魔道具製造の力が『8』くらいの比率で混ざり合っていました」
「じゃあ……! それなら、ナターシャは操獣の国になんか無理にいないで、最初から魔道具を作る国にいた方が、ずっと幸せになれたんじゃ……」
ナターシャは悲しみを帯びた紫色の瞳を少しだけ伏せ、櫛を動かしながら、小さな首を左右へと静かに横に振った。
「『8』なんていう数字は、魔道具の国においては、中途半端な出来損ないでしかないんですよ。あちらの職人たちのように、一級品のまともな魔道具を作る能力なんて、私にはありません。
……つまり、私は操獣の国にいても、魔道具の国にいようとも、どちらの世界にいたって誰からも必要とされない、ただの『用なし』だったのです。
……でもね、メアリーさん。私はその、中途半端な『8』の力があったからこそ、あの時、自分の手で自分だけの『杖』を削り出すことが出来たのです。
出来栄えは本当に中途半端だったけれど……それでも、何も持たないよりは、遥かにマシでしたから」




