黒羽の檻
カイトの大きな黒い羽根と逞しい腕にすっぽりと包まれ、一瞬にして周囲の凄惨な様子が何も分からなくなった。
視界が暗闇に閉ざされた直後、外からは男たちの短い、苦しげな呻き声が響いた。
それと同時に、土と血の混じった濃厚な生臭い匂いが鼻腔を突き、衣服が激しく擦れる音に続いて、重い肉の塊が複数、ドシャッ……ドシャッと音を立てて血溜まりへと崩れ落ちる音が聞こえてきた。
心臓の鼓動が一気に跳ね上がる。
私は恐怖のあまり、無意識のうちにカイトの服の胸元をぎゅっと強く握りしめてしまっていた。
すると、私のその動揺を察したのだろう、カイトが私の肩にそっと添えていた大きな手に、グッと強い力を込めて私をさらに引き寄せた。
暗闇の中で彼をそっと見上げると、間近にあるカイトの表情はひどく険しく、その瞳には明らかな不安と恐怖が纏わりついているのが分かった。
どんどん濃くなっていく生々しい血の匂いに耐えきれず、私はこの暗い檻のなかで、極力鼻を使わないように口だけで必死に息をした。
けれど、それでもなぜか、死の匂いは喉の奥へと容赦なく染み込んで、直接脳を揺らしてくる。
密着したカイトの胸からは、私と同じように速くなっている彼の鼓動と共に、確かな温かさと、どこか優しい自然の匂いが優しく漂っていた。
それは、いつか歩いた温かい森の中を散策している時のような、不思議な心地よさにとてもよく似ていた。
それなのに――それすらも外から染み込んでくる冷徹な血の匂いによって無慈悲に上書きされ、次第にカイトの優しい匂いが分からなくなっていく。
私の身体だけでなく、傷つきやすい心まで一緒に包んで、必死に守ってくれているこの温かい羽根。
……ここから一歩外へ出たとき、自分の目に飛び込んでくるであろう凄惨な光景が、嫌でも予測できてしまう。
出来なくていいのに、頭が勝手に最悪の結末を理解してしまうのだ。
――ああ、ずっと、この腕の中にいたい。
……思えば、カイトとは出会ってすぐの頃、本気で殺されそうになった。鋭い刃を向けられたことだってある。
それなのに、カイトは機会があっても、私を本当に殺そうとはしなかった。
それどころか、あれほど激しく険悪だった実の兄――ゼインの前に、己のプライドをすべて投げ打って頭を下げ、仲間の命乞いをしていた。
そんなカイトに、私はかつて服従を誓われそうになった時、こう言ったのだ。
『主従関係なんて結ばない。私はカイトと、対等な友達になりたいから』と。
それから私たちは、本当の友人になった。それが今は、こうして己の肉体を盾にして私を血飛沫から守る、誰よりも頼もしい騎士となっている。
そのことが逞しく、心の底から嬉しくもあるけれど、同時に自分を庇って凄まじい危険を冒させてしまっている事実に、胸の奥がぎゅっと苦しく締め付けられる。
この残酷な世界へと飛ばされてきてから、私は何度も何度も見てきた。人々の尊い命が、あまりにも簡単に、無慈悲に消え去っていく瞬間を。
どんなに凄惨な現場を見ても、心がそれに慣れることなんて決してなかった。
どんなに嫌だ、見たくないと強く拒絶したところで、私はまた次の血の海を見なくてはならなかった。
住む世界が違うのだから、命の価値そのものが違うのだと、必死に自分に言い聞かせた。
人の数と同じだけの思想があって、綺麗事だけでは進めないのだと、必死に自分の心に嘘をついて思い込もうとした。
――だが、どんなに努力したところで、私の心は『殺されても仕方のない命』と、そう割り切ることだけは、どうしても出来なかったのだ。
外から、私を今すぐ離せと、フランが理性を失った声で怒鳴り散らしているのが聞こえた。
その怒号にカイトが低く、軽く返事をし、ふっと腕の中の私に目を落とした。
その時の彼の瞳はひどく申し訳なさそうで、まるで自分を激しく責めているかのように揺れていて、私の胸はぎゅっと引き裂かれるように締め付けられた。
――違うよ、カイト。悪いのはあなたじゃない。
私を守ってくれて、ありがとう。
今すぐそう言って彼を安心させてあげたいのに、ただガタガタと全身が震えるのを無我夢中で我慢するしかできない今の私は、小さな口を開くことすらできなかった。
カイトは誰にもバレないよう、翼で私を隠したまま最後にもう一度私を抱き締め、頭を優しく撫でてくれた。
その手の温もりと一緒に優しさが心の奥にまで直に伝わってきて、目頭が熱くなる。
私は、カイトの胸に顔を埋めたまま、誰にも聞こえないよう、かすかな音のない声で囁いた。
――ありがとう――
この、黒くて優しく、どこまでも温かい世界から、
――私はもう一度、覚悟を決めて外の現実へと出なくてはならない時がきた。




