第四章 モノクロ
木下は、久しぶりに眠ることができた。
箱崎からの映像トリックの解明。
手がかりが掴めるという安心感。
ハトポッポという想定外の敵の登場に、自分の脆さを認めるしかなかった。
4人の枝とのやり取りでは、自分の弱さをあらためて知ることになった。
だが、箱崎の報告で、少しだけ希望が見えた。
それが、木下を眠らせた。
---
目を覚ますと、寝室を出て仕事部屋へ移動した。
パソコンを起動すると、捜査本部からメールが届いていた。
時刻は朝の6時。
目黒駅から歩いて10分の4LDKマンション。
その一室を仕事部屋にしている。
妻と15歳の子供は、今は妻の実家に行っている。
部屋は静かだった。8帖ほどの広さ。壁際に机と椅子。背後に扉。
右側に簡易クローゼット。左側には窓。
遮光カーテンの下から、朝の光が細く差し込んでいる。
メールを開く。
「捜査に進展なし。引き続き捜査継続。何かわかればすぐに報告します」
木下は画面を見つめた。
動揺はなかった。
むしろ、不思議なほど落ち着いていた。
なぜか?
ハトポッポが、木下の中で「想定内」として認知されたからだ。
完全に。
---
車の二重トリック。
木下は、小さく笑った。
恐れ入った。
冷徹な一面が、戻ってきていた。
畑をどうやって鬼怒川まで運んだのか。
今は、それを考えても仕方がない。
畑の足取りと死体発見現場からは、ハトポッポへつながる手がかりは、現時点では見つかっていない。
ならば——。
内通者を探した方が早い。
私も「枝」だという可能性が出てきた。
怪しいと思う人物を、調べていくしかない。
しかし、手掛かりは何もない。
今は枝の4人の報告を待ってみるしかないのか?
木下はさらにメールを確認していく。
東方寄りの議員たちから、立て続けに「会って話したい」というメールが届いていた。
文面はいずれも妙に丁寧だが、どこか急いている。
捜査が進まないことに、彼らも焦りを隠せなくなってきたのか――それとも、別の意図があるのか?
木下は、白で綺麗に塗られている天井を見上げた。
深く息を吸い込み、思いを巡らす。
木下は、あの日のことを思い出した。
あの部屋で、畑の計画を知らされた日。
仲間になり、あらゆることを教えられた。
東方連合による日本人選別計画。
その第一段階は、団塊ジュニアが20歳の時——1990年代から始まった。
就職難を作り出し、子供を産むことができない人を増やす。
そして、30年。
日本は成長しないまま、今日まで来た。
あと少しだ。
外国人に参政権を与えさせれば、計画は完成する。
ハトポッポが何をしようと、もう止まらない。
木下は再びパソコンに向かい、東方よりの議員たちに、会う時間と場所のメールを送る。
パソコンの画面に、新たなメール通知が表示された。箱崎からだ。
木下さん!
鬼怒川駅付近の防犯カメラの映像、取り寄せできますか?
駅付近の広範囲で、お願いしたいです!
何か見つかるかもしれません!
よろしくね!
木下は静かに頷いた。
箱崎は面白がっているだけだが、動いてくれるならそれでいい。
木下は捜査本部に連絡し、至急、鬼怒川駅周辺の防犯カメラ映像の取り寄せを依頼した。
・
車が二重フェイクとわかってから二日後の朝。
緑川は新幹線の指定席に座り、畑の遺体発見現場の資料をあらためて開いていた。
何度見返しても、新たな発見はない。
鬼怒川に向かうのが遅れたのは、栃木県警のベテラン検視官と新人検視官の同行調整に手間取ったためだった。
新人検視官を同行させる理由はひとつ。
プロではないが検視官としての基礎知識はあり、まだ“固定観念”に縛られていない目を持っている。
その素人に近い視点に、緑川は淡い期待を寄せていた。
資料を閉じ、窓の外に目を向ける。
雲が増え、鬼怒川は雨の予報だ。
深呼吸をひとつ。
緑川はパソコンを開き、公安特殊班時代に扱った“畑の起訴取り下げ案件”を再確認し始めた。
理由は簡単だった。
畑をもっとも恨んでいる可能性があるのは、起訴を取り下げられた者たちだ。
畑が直接介入したことを、彼らがどこかから聞きつけていた可能性もある。
その可能性は、ほとんどゼロに近い。
だが、ゼロではない。
無駄だと思いながらも、緑川は確認せずにはいられなかった。
緑川が畑の起訴取り下げのために動いた案件は三十件。
どれも外国人による犯罪だった。
その中でも、特に胸が痛む事件がある。
2002年5月11日。
20歳の女子大学生、橋本なつみさんの事件だ。
彼女は大学の学業と並行して、居酒屋でアルバイトをしていた。
土曜日の夜、店は賑わっていた。
客として来ていた東方連合系の外国人四人組が、橋本さんに目をつけた。
バイトの終わりを狙い、彼女を襲った。
橋本さんは体と心に深い傷を負った。
多くの被害者が裁判をためらう中、彼女は勇気を出して訴えを起こした。
しかし——。
緑川は、その加害者側の証拠を隠蔽した。
眉間にしわが寄り、表情が険しくなる。
何が警察官だ。
私はこの時、自分の正義と矜持を捨てた。
起訴が取り下げられた後、橋本さんが妊娠していることがわかった。
彼女はその事実に耐えられず、命を絶った。
その時そばにいた恋人も、後を追った。
緑川は窓の外に目を向けた。
都会のビル群は消え、田んぼが広がる風景が流れていく。
窓に少しだけ、雨のしずくがつき始めている。
緑川は、別のファイルを開いた。
もう一つ、忘れられない事件がある。
1998年11月。
26歳の男性がマンションから飛び降り、自ら命を絶った。
男性は大学を卒業後も就職活動を続けていたが、当時は就職氷河期。
百社以上受けてもすべて不採用だった。
絶望の中、アルバイトで生計を立てていた。
そんな時、東方連合系のブローカーが近づいてきた。
「良い仕事がある」
男性はその言葉を信じた。
だが、それは詐欺だった。
高額な保証金を要求され、借金を背負わされた。
契約書には、中国語で「返済不能の場合、臓器提供」と書かれていた。
男性は、その意味に気づかなかった。
ブローカーたちは脅迫を始めた。
「返せないなら、臓器を売れ」
男性は追い詰められ、そして——飛び降りた。
緑川は、この事件の証拠を隠滅した。
畑の命令だった。
「この手の事件が表に出れば、外国人受け入れ政策に支障が出る」
ブローカーたちは逃がされ、契約書も脅迫の証拠も消えた。
男性の母親——当時40歳。
夫はすでに他界し、息子が唯一の家族だった。
母親は警察に何度も訴えた。
「息子は殺されたんです。外国人に!」
だが、証拠はなかった。
事件は自殺として処理された。
母親はそれでも諦めなかった。
だが、やがて——記録は途切れている。
緑川は資料を閉じ、深く息を吐いた。
橋本さんも、彼氏も。
この若者も、母親も。
そして、残された家族も——。
あの事件たちで、どれだけの人が傷ついたのか。
その思考を、緑川は意図的に断ち切った。
今は、考えても仕方がない。
緑川は、鬼怒川駅に降りた。
雨は、降り続いていた。
改札を出ると、雨音が強くなった。
灰色の空。冷たい空気。
緑川は、襟を立てた。
---
携帯電話に着信が入った。
栃木県警のベテラン検視官、坂川からだ。
「緑川さん、もう鬼怒川駅に着きましたか?」
「はい、今、改札を出たところです」
緑川は答えながら、周りを見渡した。
黒い車が、静かに近づいてきた。
助手席に座っている男が、携帯電話を持っている。
緑川と視線が合うと、男は手を振った。
坂川だ。
「見えました。今、そちらに向かいます」
緑川は電話を切り、車に向かって歩き出した。
雨が、顔を濡らす。
緑川は、深く息を吐いた。
これから、あの現場に行く。
畑が、餓死した場所へ——。
・
緑川が鬼怒川駅に着いた頃——午前11時。
田園調布の高級住宅地。
その中でも、ひときわ大きな邸宅——村本壮一の自宅の前に、1台の黒いハイエースがゆっくりと止まった。
田園調布の空は、白と黒が混じり合う厚い雲で覆われていた。
だが、雨が降る気配はない。
車を待っていた男は、傘をささずに立っている。
高級な黒いスーツ。
綺麗に手入れされた黒い革靴。
その佇まいは、只者ではない気配を漂わせている。
村本壮一。65歳。
現内閣の財務大臣を務めている。
65歳とは思えない若々しさを保っていた。
髪は豊富にあり、ほどよく焼けた肌。
身長180センチ、体重62キロ。
ほどよく筋肉がついている。
その姿は、まるで50代のようだった。
---
車が完全に止まった。
村本は、自分で扉を開けて中に入った。
政治家になってから、テレビカメラがある時は運転手兼秘書の荒川良治に扉を開けてもらっている。
だが、普段は自分で開ける。
革張りのシートに、優雅に腰を下ろした。
一連の動作に、品格が漂っている。
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運転席の荒川と、バックミラー越しに視線を交わした。
村本は、少しだけ微笑んだ。
「すまない、荒川。急に来てくれと頼んで」
村本は、静かに言った。
「車の中で、考えを整理したくなってな」
「村本さん、そんなに気にしないでください」
荒川は、いつものことで慣れている様子だ。
---
荒川良治。63歳。
村本が政治家を志した30歳の時から、共に歩んできた。
荒川は、村本のことを熟知している。
村本と一緒にいるおかげか、彼も若々しい。
髪のボリュームは少なくなったが、それ以外は若さを保っている。
身長165センチ、体重58キロ。
少し痩せ型だが、筋肉はしっかりとついている。
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車内には、ワルツが流れている。
ピアノソロのコレクション。
村本は、ワルツが好きだった。
特に、考え事をしたい時は、このピアノソロを流すのが定番になっていた。
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村本が、荒川に話しかけた。
「木下くんからのメールの返事が早くて良かったよ」
「それは良かったですね」
荒川が答えた。
「今日の夜8時、赤坂のホテルで会えることになった」
「その前に、畑さんを餓死させたハトポッポに関して、整理したくてね」
村本は、窓の外を見た。
「荒川さんにも調査をお願いしたけど、警察の情報以上のものは出てきましたか?」
「いえ、手を尽くしましたが、警察からの情報以上のものは、まだ出てきません」
「そうでしょうね……」
村本は、静かに頷いた。
「映像加工に、車の二重フェイクまで使うんですから」
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車内のワルツは、次の曲が始まった。
荒川は、この場合、村本が意見を求めていないことを知っている。
ただ、うなづいているだけでいい。
30年の付き合いで、わかっていた。
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「ハトポッポは、計画を知ったのは10年前だと残している」
村本が、静かに言った。
「それが本当なら、畑さんから木下くんに全てを譲渡した年だ」
「この時に関わっている中に、内通者がいるとなると——」
村本は、少し間を置いた。
「探すのは、手間取りますね」
荒川が答えた。
「はい。この年は、いろんな人が畑さんと会合をしていましたから」
村本が頷いて、話し出した。
「しかし、畑さんが計画の全貌を、すべての人に話したとは思えません」
「木下くんは畑さんから先崎さん、箱崎くん、白井さん、平山さんという駒を引き継ぎました。畑さんと違ったのは、彼は恐怖でこの4人を縛り付けたことです。もっとも4人は、恐怖で縛られたふりをしていただけですが。枝を切るという発想は素晴らしい。
しかし一つ欠点がある。このシステムだと、外からの圧力があった時に、木下くんには相談できる人間が誰もいないということです。」
荒川は静かにうなづいた。
「木下くんに会って確かめたいのは、彼がハトポッポという存在によってどうなるか?ということです。官僚というのは、決められた枠の中にいる時は強い。しかし予想外のことには、意外なほどもろい。」
次のワルツが流れ始めた。荒川は何も言わなかった。
「私が畑さんにあの財務省の奥の部屋で言われたのは、「日本人選別計画」に関わっている人たちのことは気にしなくていい、ということでした。つまり畑さん自身も、駒の一つに過ぎないということです。そしてその時紹介されたのが、若かりし平山さんと、東方の代表・趙欣さん、それからその付き添いの2人。この2人は趙欣さんの護衛でした……この趙欣さんも東方の代表というだけで後ろに本当の立案者がいるはずです」
村本は記憶を遡っていく。
すべてを捨てた日——畑との、あの部屋でのやり取りを…
趙欣の護衛の二人は、鍛え抜かれた体をしていた。
手入れされた紺色のスーツが、彼らの異質さを際立たせていた。
今でこそ村本は"東方寄りの議員"として名が挙がるが、初当選の頃はまったく違っていた。
彼が初当選したのは、泉水政権の郵政解散の時だ。
当時、民自党は国民からの不支持が高まっていた。
そこに現れた泉水は、わかりやすい言葉と「民自党をぶっ壊す」という強烈なメッセージで民自党の顔となり、高い人気のまま解散総選挙を行い、党を回復させた。
村本は33歳で当選した。若い頃の彼は、国を良くできると本気で信じていた。
一般会計と特別会計を一本化し、国民に使えるお金を増やす——そんな理想を胸に抱いていた。
畑が村本に目をつけたのは、その政策が官僚にとって最も都合の悪いものだったからだ。
特別会計は、官僚にとって最後の聖域だった。
村本の考えに賛同する仲間も増えつつあり、畑にとって彼は危険な存在だった。
後に村本が知ったことだが、畑が日本人選別計画に加わった理由は、驚くほど個人的なものだった。
バブル期、官僚よりも一般の国民のほうが豊かな時代であった。
青春を犠牲にして勉強だけを積み重ねてきた畑には、それがどうしても受け入れられなかった。
村本が畑についた理由は、政治ではなかった。
娘の命だった。
村本には一人娘がいた。
当時の医療では、治療に莫大な費用がかかる病気だった。
医師から提示された金額は、政治家の収入でも到底払えない額だった。
自分のように"金がないだけで家族を救えない人間"を減らしたい——それが、一般会計と特別会計の一本化を本気で進めていた、もう一つの理由だった。
そこに付け込んだのが、畑だった。
畑は村本が抱える事情をどこからか嗅ぎつけていた。
具体的な金額を提示し、政治家としての安定した資金提供を約束した。
村本は迷った。その場での決断を、畑は迫った。
村本は娘の命を諦めていたはずだった。
それが嘘であることに気づいてしまった。
いや、無理やり閉じ込めていただけだったのだ。
畑は右手を差し出したまま動かない。
村本は下を向き、思考を巡らせた。娘の無邪気な笑顔がよぎる。
娘と一緒にいたい——妻も喜んでくれる。
私は知っている、、、
妻が深夜にテレビをつけたまま、声を殺して泣いているのを。
私に気づかれないように。
「仕方ない」と言ってくれるが、そんなの嘘に決まっている。
それでも、私はその嘘に乗るしかなかった……
村本はゆっくりと顔をあげ、畑の握手に応えた。
「村本さんは、やはり素晴らしい」
畑は趙欣に目で合図した。
趙欣は護衛二人を連れて村本に近づく。
「村本さん、今日から私たちの仲間です。よろしくお願いいたします」
流暢な日本語だった。
「基本的なやり取りは、この二人の護衛を通して行います。護衛は入れ替わりますが、我々とわかる目印があります」
趙欣が一人の護衛に右腕を上げさせた。
スーツの袖には、通常二つあるはずのボタンが——卍の形をしていた。
「このスーツの卍のボタンをつけた者が、私からの伝言を届けてくれます。それと、いいことを思いつきました。これからは合言葉を加えましょう。そうですね……【北京ダックはクリケットが好き】にしましょう」
畑と平山は黙ってうなづく。
畑が平山のほうを向いた。
「平山さん、出番です。村本さんに日本人選別計画の具体的な案を教えてあげてください」
平山はにこやかになり、村本に近づいて話し始める。
「村本さん、簡潔に話します。現在、派遣法を変えて派遣できる業種を広げました。これにより雇用の不安定化が起こります。さらに消費税を上げていきます。これにより大企業は消費税分の還付金が増えていき、消費税は増税したほうが良いというスタンスになっていきます。さらに——」
「村本さん、村本さん、どうされましたか?ずいぶん黙っていますが」
村本は荒川の声に反応する。
「すまない荒川さん、ちょっと昔を思い出してた。このあとの予定は、たしか14時から議員会館での会合だったね?」
「そうです」
「久しぶりにお昼ははるまさにしようかね。若い頃によく2人で食べたよね」
荒川は小さく微笑んで応えた。
「わかりました。はるまさに向かいます」
車ははるまさに向かって走り出した。
——同じ頃。
都内の外れにある廃工場では、名取達が最後の準備を整えていた。
廃工場は、かつて鋳造を行っていた建物だった。
壁は異様に厚く、窓はすべて板で打ち付けられている。
建物内には名取達が用意した簡易照明がバランスよく散りばめられていた。
名取達が動くたびに、照明で作られた影が揺れる。
外に音が漏れる心配はほとんどない。夜になれば、この一帯には誰も来ない。
工場地帯特有の静けさが、逆に不気味さを際立たせていた。
錆びついた鉄骨が風に揺れ、金属が擦れる乾いた音だけが響いている。
その広い空間の中央に、奇妙な装置が置かれていた。二脚の椅子が、レールで一直線に繋がれている。
正反対の向きに、向かい合うように固定されていた。
名取は装置を見つめ、ゆっくりと息を吐いた。
黒いパーカーに、ジーンスを履いている。
靴はカジュアルな運動靴だ。
「力作です。菅原さん」
その横顔を、紺色のスーツに新調した黒い革靴を履いてる羽鳥と堀北が覚悟を決めた目で見つめていた。
畑を拉致する2か月前、不動産会社との交渉はすでに"闇バイト"に任せて済んでいた。
契約書なし、現金四十万。
期間は3ヶ月。
名目は——役作りのための稽古場。
もちろん、そんな稽古など存在しない。
菅原 学46歳。身長160センチ、65キロの中背で、やや中年太りの体型。
使い込んだ黒いジャージに、白がアクセントの運動靴。
動きやすさだけを優先した、飾り気のない格好だった。
大きな目は視力が悪く、黒縁メガネの奥でいつも少し疲れて見える。
髪はまだ十分に残っているが、白髪が目立ち始めていた。
彼も羽鳥と堀北と同じ氷河期世代だ。
物を作ることが好きで、小学生の頃から机や椅子を作っていた。
家の修繕も、父親と一緒に手伝っていた。
本格的な家具作りを夢見て、高校時代に家具店へ履歴書を送ったが、すべて不採用だった。
家は裕福ではなかった。とにかく就職を決める必要があり、彼はホームセンターに就職した。
そのホームセンターで激しいパワハラに遭い、1年で退職した。
そのあとは派遣社員で食いつないできた。
その間も、自分で家具を作りながら家のDIYを続けていた。名取と出会ったのは4年前、44歳の時だ。
名取は菅原に話しかける。
「こっちの椅子には平山を、そして向こうの椅子に用意したものを見た時、彼はどんな反応をするでしょうね」
菅原が答える。
「この椅子に合理性はあるのか?とか言ってくれたらいいですね」
名取と羽鳥と堀北は笑う。
名取が3人に向かって言う。
「それでは、平山さんのピクニック計画を始めましょう。他のみんなもすでに準備しています」
3人は名取に向かって無言でうなづき、歩き始める。
簡易照明に照らされた4人の目には、冷たい怒りが宿っていた。
その目の奥に、底知れぬ闇を感じる。
・
緑川は後部座席に乗り込み、前を向いたまま坂川に声をかけた。
「わざわざ車で来てくれてありがとうございます、坂川さん」
「いえいえ。運転手が新人検視官の森本悟(22)です。緑川さんの要望が“新人検視官だけ”だったので、誰にするか悩んだんですが……こいつにしました」
坂川吾朗(47)は、非番にもかかわらずダークグレーのスーツを着ていた。
身長175センチの普通体型。
つむじ周辺は薄くなり、白髪も混じっている。
垂れ目で、鼻筋がすっとしている。整った顔だか年齢が滲み出でいる。
「悟は推理小説マニアでしてね。それと、現場に行ってもいつも“現場と関係のない場所”に興味を示すんです。理由は私にもよくわからない。なあ、悟」
森本はハンドルを握ったまま、振り返らずに答えた。
「坂川さんには理解されないんですが……推理小説マニアの私からすると、現場にヒントはあります。でも、それは他の人が見ればいい。私は“別のアプローチ”で事件の真相に近づくんです」
緑川は森本の坊主頭と引き締まった体を見て、
(推理小説マニアには見えないな)
と心の中でつぶやいた。
森本も黒いスーツを着ていた。
非番でも東京の警察官と会うということで、坂川が「スーツで来い」と言ったのだろう。
坂川が小さく笑いながら言う。
「悟、緊張してるだろ。深呼吸しとけ」
「してますよ、さっきから」
そのやり取りに、緑川はほんのわずかに口元を緩めた。
緑川は公安所属であることを隠し、
“東京の捜査一課”という肩書で坂川にアポを取っていた。
公安と名乗るのは、警察内部ではタブーに近い。
「坂川さん、森本さん。今日は協力に感謝します」
森本がミラー越しに目を合わせた。
「こちらこそ。現場に行く前に、ひとつだけ言わせてください。
私は、普通の検視官とは少し違います。
“現場にないもの”を見る
鬼怒川の廃墟ホテル群までは、車で五分ほどだった。
山道を抜けると、灰色の巨大な建物が視界に現れる。
カッパ本館――1942年開業の老舗旅館。
1999年に経営破綻し、今は巨大なコンクリートの塊が崖にへばりつくように残されている。
上層階は鬼怒川の渓谷を一望できる造りだったはずだが、今は窓ガラスもほとんど割れ、黒い穴のように口を開けていた。
坂川がゆっくりと玄関前に車を止めた。
「一般車両なら、ここに停めたら即アウトなんですがね。今日は交通課に話をつけてあります」
そう言って、坂川は軽く肩をすくめた。
3人は車から降り、傘を開く。
小雨が降り始めていた。
廃墟の玄関は、雨に濡れたコンクリートの匂いが強く漂っていた。
坂川は右手に、使い込まれた革製の検視鞄を持っていた。
何度も現場をくぐってきた道具特有の、深い傷と艶がある。
森本は玄関の上部を見上げ、ぽつりとつぶやいた。
「……この建物、外壁の剥がれ方が不自然ですね。
普通、ここまで均一には剥がれません」
坂川が苦笑する。
「悟、また現場と関係ないところを見てるな」
「いえ、関係ないようで関係あることもありますから」
緑川は二人のやり取りを聞きながら、
玄関の奥に広がる暗闇をじっと見つめた。
(……空気が重い。何かが、ここに長く留まっていたような)
言葉にはしない。
だが、緑川の表情はわずかに硬くなっていた。
3人は傘を閉じ、ゆっくりと廃墟の中へ足を踏み入れた。
廃墟という場所には、独特の空気がある。
言葉にすると、粘りつくような静けさの中に深い闇が沈んでいて、
その闇にゆっくりと吸い込まれていくような感覚だ。
警察官といえど、この雰囲気には慣れない。
むしろ、慣れてはいけないのかもしれない。
玄関を抜けると、湿った空気が肌にまとわりついた。
壁には落書きが重なり、意味のない言葉や記号が
何層にも塗り重ねられている。
使われなくなったテーブルやイスが、
まるで誰かが途中で投げ出したかのように散乱していた。
持ち込まれた生活用品や、壊れた家電の残骸。
規則性はなく、ただ“そこにある”だけだ。
森本が足を止め、壁の一角をじっと見つめた。
「……この落書き、最近のものですね。
スプレーの色がまだ新しい」
坂川がため息をつく。
「悟、また関係ないところを見てるぞ」
「いえ、関係ないようで関係あることもありますから」
緑川は二人のやり取りを聞きながら、
廃墟全体に漂う“沈んだ気配”を感じ取っていた。
(……空気が重い。 ここに、何かが長く留まっていたような)
言葉にはしない。
だが、緑川の視線は自然と奥の暗がりへ向かっていた。
3人は無言のまま、405号室へ続く階段へと歩き出した。
緑川は405号室に入ると中央で立ち止まり、鞄から現場写真の束を取り出した。
「……畑さんが見つかった状況は、この写真の通りだ」
坂川と森本が写真をのぞき込む。
写真には、部屋の中央に置かれた椅子と、その周囲の配置が写っていた。
どれも、通常の生活空間では見られない組み合わせだった。
森本が写真を指で押さえながら言う。
「この赤い紐……ホームセンターで売っているタイプですね。太さと色が特徴的です」
坂川がうなずく。
「鑑識がすでに回収している。材質も確認中だ」
坂川が鞄を床に置き、腕を組みながらさらに続ける。
「実は、解剖結果を取り寄せたんですよ。餓死ですが、ウジが湧いていた状態だったので……上に知り合いがいまして。本来はダメなんですが」
「緑川さんから電話をもらって、私も状況を知りたくなりました。で、わかったことがあります。畑には外傷がないんです」
緑川が視線を上げる。
「外傷がない?」
「ええ。つまりここで監禁されていたが、暴力行為は受けていない。恨みを持った犯人がやったことは明確です。ただ……普通、手足を拘束して監禁するなら、もっと外傷があってもいいはずなんです。それがないというのも、不気味でしてね」
緑川はハトポッポは精神的な苦痛を畑に与えたかったということか?と思案しながら、次の写真を取り出した。
「椅子の前に置かれていたアンパンも大手パン工場のものだ。袋があればロット番号でどこの店に配送したものかわかるらしいが、アンパンだけでは追跡は難しいと言われた。手足を拘束して、届きそうな位置にキッチンペーパーの上にアンパンを置いておく……」
緑川は一瞬黙った。
手がかりが限られている。
それでも、前に進むしかない。
森本は写真をじっと見つめ、眉を寄せた。
「この椅子……少し違います。普通のホテルで使っている椅子は背もたれがもっと大きいんです。この椅子の背もたれは少し小さくて、丸みを帯びているような気がするんですが」
坂川が振り返る。
「悟、写真だけでそこまでわかるのか」
「ええ。ここに来る途中、他の部屋の椅子も見ていましたが……ホテル全体で使っていたのなら違和感はないです。でもこの椅子だけとなると……」
緑川は写真を見つめながら、静かに言った。
「つまり、この椅子だけ"別の由来"がある可能性がある」
森本が小さくうなずく。
「椅子の詳細な写真があれば、もっと何かわかるかもしれませんが」
緑川は写真を束ね、ゆっくりと息を吐いた。
(……椅子の詳細な写真なら捜査本部の筒井に連絡すればすぐに送ってもらえるか)
緑川はスマホをだして、捜査本部の筒井に電話をかけた。
呼び出し音が二回鳴る前に、相手が出た。
「緑川さん、どうしましたか?」
筒井誠二(34歳)。捜査一課に配属されて六年目。仕事は丁寧で真面目だが、興奮すると声が上ずる癖がある。緑川とは二年前の事件で組んで以来、何かあると連絡を入れてくる。
「畑が座らせてた椅子の詳細な写真を送ってほしい」
「椅子?わかりました。すぐ手配します。ちょうど捜査本部で資料を整理しながら事件をもう一度最初から頭の中で見落としがないかやっていたところです。15分待って下さい」
15分後。
緑川のスマホに数十枚の写真が転送されてきた。
緑川は森本にスマホを渡す。
森本は謎解きができている感覚になっているらしい。
目がキラキラしている。
「やっぱりそうだ!」
森本が嬉しそうに言う。
「この椅子は、青空家具店の椅子です。私が知ったのはテレビでした。中学2年の時に学校から帰ってきてテレビをつけて、何気なく見ていたんです。その時にこの椅子を知りました。なんで覚えているか?
他の椅子との違いがわからないくらいの丸みが背もたれにあるだけで80万もしてたんです!中学生の私にしたら異常な金額です。私の家は普通のサラリーマン家族でしたから、椅子にそんな値段がつくなんて驚きでした」
さらに森本は続ける。
「経営者兼職人の、たしか大川さんとかいう人でした。アナウンサーとのやり取りがすごい丁寧で押しつけがまくない感じが珍しくて、子どもながらに覚えています」
緑川はそれを聞いて森本から素早くスマホを奪い、筒井に電話をかける。
筒井が電話で出る。
「筒井、畑が座らせていた椅子は廃墟ホテルにあった椅子ではない。青空家具店の椅子だ」
筒井が答える。
「青空家具店?わかりました。このまま待って下さい」
緑川はスマホの向こうからパソコンのキーボードを打つ音を確認して待つ。
「・・・緑川さん。青空家具店で検索をかけると青空家具店のホームページはでてきますがnotfoundになります。おそらく廃業しているかもしれません」
「そうか・・・さらに調べてくれ」
「わかりました」
緑川は森本に
「青空家具店はホームページがあったが廃業しているらしい。捜査本部がさらに捜査する。助かった」
森本は照れて、無言でおじぎして緑川の言葉に答えた。
「やりましたね。緑川さん。森本を連れてきて良かった」
「坂川さんにもお礼申し上げます」
「いえいえ、私は何もできませんでしたから」
坂川は申し訳なさそうに答えた。
緑川は椅子の手掛かりを見つけても、嬉しくなれなかった。
これもハトポッポに仕掛けではないか?と思っていた。
廃墟ホテル内には雨音がいつまでも響いている。




