第二章 波紋
畑の餓死を知ってから3日後、通常通りの勤務をこなしながら事務次官室にいる木下は動揺していた。
それは久しく忘れていた感情だった。
木下聡 48歳
キャリア官僚の両親のもとに生まれた。小学生の頃までは何不自由なく生活できてきた。小学3年の時にいじめにあう。
いじめの対象になったのは授業中におならをしてしまったからだ。そこからあだ名は「木のプー」となった。
いじめといっても、何かあるたびに木のプーと言われるだけだったが、木下にとっては心を閉ざす出来事となった。
親に話そうとしたが、親は勉強の成績しか興味がなかった。
100点を取れば食事が豪華になる。80点で食事が質素になり、両親ともに不機嫌になる。
この行為は親にしてみたら他愛もないことかもしれないが、木下聡にとっては生命維持の危機を無意識に刻まれる出来事になった。
もし0点を取ったらどうなるのだろう?
そんな精神状態は、心の自信を成長させるには程遠い環境である。
木下聡は、いつからか人の目を気にしながらびくびくする性格になっていた。
勉強すれば生き残れるということは、もしかしたら一番楽かもしれないと思えるようになったのは中学受験の時だ。自分が記憶力に長けているということがわかったからだ。
家庭教師が何気なく言った言葉。
「もう覚えたの? これを1回で覚えたの?」
「はい」
「そんな普通な顔で言わないで」
その家庭教師の笑顔の記憶が強烈に残っている。そこからは少しだけ人と話すことにも自信が持てて生きやすくなった。
そして、勉強していれば生き残れるという無意識に刻まれた記憶に従って、ひたすら勉強して東大に入り、財務省に入省して、あの部屋から私は今ここにいる。
動揺しているだけではダメだ。
私には権力がある。権力に膝をつく多くの人を配下に抱えている。畑からの人脈を引き継ぎ、さらに広げた。ハトポッポなどというふざけた輩は、すぐに消せる。
木下は動揺が収まるのを確認した。
そして冷酷な考えを巡らせ始めた。
・
元財務省官僚 畑重俊 70歳
鬼怒川の廃虚ホテルの一室で発見される。
行方不明から10日後。餓死して2日経っていた。
鬼怒川の廃虚ホテル群は幽霊スポットとして有名である。
夜に廃虚ホテルを散策するのは怖いと感じていた都内の大学生3人が、水曜日の平日に廃虚ホテル探索をしにきていた。
彼らは最初、その廃虚ホテルの不気味さに怖じ気づいていたが、だんだんと慣れてきてホテルの奥へ奥へと足を踏み入れていった。
ホテル4階の、元々は特別室だった荒れ果てた405号室の扉を開ける。
そこに裸の男性が椅子に座っている。
3人は顔を見合わせて、すでに死んでいるのをすぐに確認できた。
体中からウジが湧いていたからだ。
3人は急いで廃虚ホテルを出る。
通報するのを迷ったのは疑われるのが嫌だったからだ。
しかし話し合いの結果、通報した。
簡単な報告書に、公安特殊班の緑川新一は目を通していた。
緑川は簡単な報告書に目を通し終わると、詳細な死体状況の報告書を読み始める。
畑重俊は裸で椅子に座っている。
両手は椅子の後ろで赤い紐で縛られている。
ポリスチレンの赤い紐だ。
ホームセンターに売っている9mm×20mのものだ。
足も椅子の足に縛られている。椅子の座る部分は穴になっていて、その下に子供用の黄色いキャラクターの便座が置いてあった。
排泄物の上に、ジップロックで密封されていたA4用紙。鳩のマークが入った紙。
椅子の2メートル前には、キッチンペーパーの上にアンパン1個があり、カビが発生していた。
詳細な報告書を読み終えた緑川は、思案を巡らせる。
厄介な人物が厄介な殺され方をした。
緑川は正直、捜査を進めるのをためらっている。
畑重俊。
この名を知らない警察関係者はいない。
警察組織内でも、上に行けば行くほどこの男の影響力は強くなる。
我々公安は、畑重俊のことを「始まりの人」と呼んでいる。何を始めたか?
外国人の犯罪を無効化するために、警察上層部の人たちに餌を与えた。
その餌は、警察上層部の人たちへの女性の斡旋だ。
無料で、最上級の15歳から19歳の女性を欲望のままに自由にできるシステムだ。
この国は15歳から19歳の売春は禁止されている。
この年齢帯の女性を自由にできるという餌に、当時の警察上層部は食いついた。
こんな陳腐な策にひっかかるのか? 女性には理解されないだろう。
男は権力欲が満ち足りると、年齢を重ねるほど性欲を求める。しかも、若い女性をだ。
おそらく畑は、この方法が通用しなかったら別の方法も用意していただろう。
彼の外国人犯罪の無効化に対するこだわりは異常だったからだ。
なぜ私がそのことを知っているのか?
私が公安特殊班に配置されたときに、警視長の森山誠司に連れられて会わされたことがあるからだ。
畑の第一印象は、人懐っこい笑顔だった。
しかし、目の奥には何の感情もなかった。
会わされた理由は簡単だった。
畑が事務次官の間は、彼の周りで起こることはすべて不問にするということを覚えさせられるためだ。
この件はマスコミには知らせていない。
警察トップたちの判断で決定している。
この畑の件をマスコミに公表すれば、どこで自分達の少女斡旋の件が漏れるかわからないからだ。
公安特殊班というのは、警察組織内のどこにも属さない。
畑を守る組織である。
公安特殊班に配置された人間は、必ず畑と会い、特殊班の仕事が畑の護衛だと認識させられる。
彼が事務次官でいた時の、あらゆる不正をもみ消したのは緑川たちだった。
畑が事務次官退任後、畑の護衛の仕事はなくなり、本来の公安の仕事に戻った。
緑川は、公安特殊班の自分のデスクで、畑の数々の不正をぼんやりと思い出した。
今思い出しても、一般の人なら刑務所内で何十年と実刑を受けるようなことをもみ消してきた。
眉間にしわを寄せ、思わず「チェッ」と舌打ちをする。
気分を紛らわすために、デスクを離れて喫煙所へと向かう。
緑川は喫煙所で、殺害現場についての思考を巡らせる。
現場となった鬼怒川の廃虚ホテル群。
その中でも奥の奥に配置されているホテルの一室で餓死している。
ふざけた名前の組織名、ハトポッポの連中は、畑が発見されてもされなくてもどうでもよいと感じているようだ。
鳩マークのある紙に存在を明かしているが、
発見させるのが目的ならもっと手前のホテルで餓死させている。
そして厄介なのが、手がかりになる痕跡が何一つ見つかっていないのだ。
畑の餓死である。警察は優秀な検視官を派遣した。
しかし何一つ見つかっていない。
それに畑を廃虚ホテルまでどうやって運んできたのかも不明だ。
畑の自宅がある自由が丘の駅の防犯カメラに、9月16日の14時25分に映っているのが確認された。
駅前で構内に入っていったが、電車に乗ったのか? タクシーに乗ったのか? バスに乗ったのか? もわからない。
おそらくハトポッポに拘束されて、生きたまま廃虚ホテルに運ばれたはずだ。
その形跡もわからない。
鬼怒川駅付近はNシステムはなかったが、各ホテルの防犯カメラ、駅の周りの防犯カメラ映像をし入手して調べが決定的な証拠はでてこなかった。
行方不明になってからの10日間の間に車で廃虚ホテル群に行った車は6台。
念のため任意で聞き込みをした。
どの車の関係者も、心霊スポットとして楽しみにきていた若いカップルや大学生だった。
畑が行方不明になった日時と時間がはっきりした時に、公安にいる緑川がしたことは、監視下に置かれている人物がその日に不審な動きをしていないかを調べることだった。
少しでも違和感を感じた人物32人を調べたが、32人全員にアリバイがあった。
その中の1人が緑川に言った言葉が気になる。
「私を調べても無駄ですよ。監視下に入っているのに、わざわざ権力者側の人間に何かしようなんて思いません。それに今は、一般人のほうがプロのようなことを平気でしますよ」
緑川はタバコを吸い終わると、デスクへと戻った。
・
木下は、捜査が一向に進展しないことに苛立っていた。
畑の死亡現場の詳細は、あえて知らないようにしていた。
時間が経てば何らかの進展があるはずだと信じていたし、警察特別な形で動いているという事実が、彼を辛うじて落ち着かせていた。
しかし一週間が過ぎても、状況はまったく動かなかった。
ついに木下は耐えきれず、警察に事件資料の提出を命じた。
その判断を、木下はすぐに後悔することになる。
畑の死体写真を見てしまったのだ。赤い縄、五寸釘、餓死。想像を超える異様さに、木下は思わず息を呑んだ。
手がかりは何もない。
むしろ、何もないことが、ハトポッポという謎の組織への恐怖を増幅させた。
不安を押し殺すように、木下は財務省での通常業務を終え、赤坂の高級ホテル「三日月」のスイートルームへ向かった。今日の夜に急きょアポイントを入れた4人と会うためだ。
ブランデーを飲みながら、木下は彼らを待っていた。
「日本人人口選別計画」の発案者は畑。
その背後にいる国は、東方連合。
畑が作った組織はピラミッド型ではなく、横へ横へと枝分かれする構造だった。
畑(木下)
|
第一の枝(4人) ← この4人は切らない。重要人物。
|
第二の枝(多数) ← 目的達成後に切る(殺す)。
|
第三の枝(さらに多数) ← まとめて切る。
この形の利点は、関わる者が“本当の目的を知らないまま”動いてくれる点にある。
畑は適任者を選び、金・女・土地など、その者に合った報酬を与えて動かす。
木下もこの方式を継承し、さらに拡大してきた。
ただ一つ、木下は改良を加えていた。
第二の枝が四つに分かれたら、目的達成後にその四つをまとめて切る。
そしてそれを第一の枝に見せつける。逃げられないと理解した第一の枝は、本当の目的を知らないまま、純粋に動く“枝”となる。
今日会う4人は、畑から受け継いだ第一の枝――最初の4人である。
ブランデーを飲みながら、木下は最初に来る先崎ひさし(42歳)を待っていた。
約束の時間まで、あと15分。
木下の思考は、また同じ場所へ戻っていく。
――ハトポッポの置き手紙。
「計画を知ったのは10年前」
10年前…
それは、木下が畑から正式に組織を移譲された年であり、4人と初めて顔を合わせた年でもある。
「やはりあの時か……」
そう思う一方で、木下は別の可能性も探る。
畑を通じて会った人物は他にもいる。
日本人ファーストで躍進した参賀党党首・谷神誠司(42)。
最大与党・民事党の現幹事長・千葉耕平(57)。
“影の政調会長”と呼ばれる茂原俊成(49)。
現経済産業大臣・白谷陽介(42)。
他にも、名前は曖昧だが何度か顔を合わせた政治家がいる。
この中に内通者がいるのか?
いや、そもそも本当に「10年前」なのか?
10年前と思わせておいて、木下に“その時期に会った人物”へ疑いの目を向けさせるための罠ではないのか?
木下は何十回も同じ思考を繰り返し、また最初に戻る。
4人は青い紙――日本人選別計画書の存在を知らない。
だが、木下が彼らにやらせてきたことから、察しはついているはずだ。
4人の中に裏切り者がいる可能性も否定できない。
ふと時計を見ると、約束の時間になっていた。
正確無比な男、先崎ひさしは、時間ぴったりに部屋の呼び鈴を鳴らした。
「お久しぶりです、木下さん」
部屋に入ってくるなり、先崎ひさしは満面の笑顔を向けてきた。
ディズニー映画に出てくる白いロボットのような、丸く愛嬌のある体型。
その笑顔は作り物ではなく、本心からのものに見える。
選挙プランナーという職業柄、多くの人の心をつかむために磨き上げた“武器”なのだろう。
先崎への依頼は、帰化した中国人を地方議員から市長まで、可能な限り当選させること。
先崎に頼めば、ほとんど当選させることができる。
その分、報酬は破格だ。
その報酬はどこから出ているのか?
木下には、特別なルートで内閣官房機密費を使う権限がある。
内閣官房機密費――内閣が自由に使え、使用目的を明らかにしなくていい金。
この金が、先崎の“仕事”を支えていた。
「お久しぶりです、先崎さん。畑さんの件でお願いがありまして、今日は直接会うことにしました」
4人には事前に、畑が殺された件について話があるとメールで伝えてある。
そのためか、先崎はいつもの満面の笑顔を浮かべているものの、どこか目の奥に緊張が走っているようにも見えた。
「畑さんは、拉致されて殺されたということでした。ハトポッポという組織が10年前に計画を知った、と。具体的な内容は私にはわかりませんが……10年前といえば、私が木下さんに畑さんを通じて初めて会った年です」
さすがに選挙プランナーだけある。こういった類の記憶は決して間違えない。
「そうです。先崎さんは計画そのものは知りませんが、だいたい察しはついていると思います」
「はて?何のことでしょう?私は依頼された仕事をしているだけです」
満面の笑みを崩さず、口調も淡々としている。
畑がいなくなったことで、私への態度に何か変化があるかもしれない――そう期待していたが、無駄だった。
私が4人に会う目的は、畑がいなくなったことで態度が変わる者がいれば、内通者の可能性があると判断できるからだ。
しかし、先崎には一切の揺らぎがない。
この様子では、他の3人も同じだろうと悟った。
そもそも、そんなに分かりやすければ、とっくに気づいていたはずだ。
畑は百戦錬磨のつわものを揃えたのだから。
木下は内通者の可能性を探る会話を諦め、もう一つの目的に話を切り替えた。
「先崎さんにお願いしたいことがあります。畑が行方不明になる前の一ヶ月間を調べてほしいのです。畑さんは自由が丘駅構内の防犯カメラに映ったのを最後に姿を消しました。警察が調べても手がかりがまったく出ないまま、鬼怒川の廃虚ホテルで餓死状態で発見されました。それはメールでお伝えした通りです」
「はい、確認しています。畑さんの件ですから、警察も優秀な人材を集めて捜査しているでしょう。それでも手がかりが出てこないということは……確実にプロの仕業ですね」
「そうです」
「先崎さんの人脈を使って、畑の一ヶ月の行動を調べて報告してほしい。報酬はいつも通りに支払います。お願いできますか?」
木下の目的は、4人全員に同じ調査をさせ、報告に違いがあれば何か手がかりが見つかるのではないかという期待だった。
効果があるかはわからない。
だが今の木下にできることは、それしか思いつかなかった。
先崎は一瞬だけ戸惑ったように見えた。
“そんなことに意味があるのか?”
そう言いたげだったが、すぐに表情を戻し、
「わかりました。報酬さえあれば、なんでもやります」
満面の笑顔で答えた。
「木下さん、一ついいですか?」
先崎は笑顔のまま続けた。
「私は帰化した中国人を地域議員にしてきました。市長にはできませんでしたが、日本の市長でも今や国籍を問わず行政職員を募集しています。木下さんの最終目的は何ですか?」
木下は冷静に答えた。
今まで先崎にこんなことを聞かれたことはない。
“変化だ”と木下は心の中で感じた。
正直に言って、反応を見る。
「私が畑さんから受け継いだ最終目的は、外国人に参政権を与えることです。そして、より良い日本にするためです」
先崎は笑顔を崩さずに言った。
「ほう!それは面白いですね。今の日本人はまったく選挙に関心がない。外国人に参政権を与えたら、外国人のやりたい政策ばかり通るでしょう。それで、より良い日本になるんですか?」
先崎の眉が、ほんのわずかに動いた。
「それはお楽しみです」
「木下さんは相変わらず、肝心なことは言わないですな。さすが財務省の官僚です。失礼しました。私はこれで帰ります。畑さんの報告は、今回のように直接会ったほうがいいですか?」
「もちろん。よろしくお願いします」
先崎は一度も笑顔を崩さず、軽く礼をしてスイートルームを出ていった。
先崎が去ったあと、木下は深呼吸をした。
大きな窓に映る自分の姿を確認する。
――私は平静を装えたか?
――感情は外に出なかったか?
窓に映る自分に、かつてのオドオドした幼い頃の自分が重なる。
元々は弱い心なのだ。
畑から受け継いだ人脈を使い、圧倒的な権力で人を操作し、殺してきた。
自分は“安全圏”にいる。
その意識があったからこそ、冷酷になれた。
今さらながら、自分の根本の弱さを痛感する。
――ダメだ。あと3人と会うのだ。
氷の入ったグラスにブランデーを注ぎ、飲む。
気持ちを高揚させて乗り切るしかない。
次に会う箱崎守には、防犯カメラの映像をもう一度調べてもらう。
彼は一流企業のシステムエンジニア。10年前は28歳。
若さで畑に気に入られ、仕事を受けるようになった。
畑の数々の不正データを、証拠を残さず完璧に消せるほどの知識量。
加えて倫理観がない。
“自分が面白いと思えばいい”という感覚で生きている。
常識は通用しない。
木下は、箱崎が来るまでまだ30分あることを確認し、
今度はゆっくりとブランデーを飲み、
冷静さを保つために自分を整え始めた。
箱崎は時間に5分ほど遅れてスイートルームの呼び鈴を鳴らした。
その30分の間に、木下はいつもの冷静さを取り戻していた。
ブランデーが心地よい高揚感を与え、オドオドした自分を隠すことに成功していた。
「お久しぶりです、木下さん。畑ちゃんは餓死で発見されました。お気の毒です!」
38歳になった箱崎は、10年前とほとんど変わらない。
身長160センチ、スリムだが筋肉はしっかりついている。
細い目は相変わらず感情が読めず、髪は真ん中分け。
外見はスーツが似合う大人になったが、倫理観は昔のままだ。
木下は冷静に言葉を発した。
「畑さんの死はメールで報告した通りです。餓死で発見された。行方不明になる前の一ヶ月の行動を調べてほしい。警察は何の手がかりも得られていない」
箱崎は細い目を少しだけ見開いた。興味を持ったようだ。
「いいですよ〜。面白そうです!やります!」
「報酬はいつも通り――」
木下の言葉を遮り、箱崎が言う。
「報酬はいらないです!畑さんの無念の死を晴らすために、力になります!」
木下は心の中で思う。
――嘘だ。ただ面白いだけだ。
それでもいい。目的は達成できればいい。
「警察からコピーしてきた防犯カメラの映像だ。最後に畑さんが確認されたのは自由が丘駅構内のカメラ。一応、駅の全映像も揃っている。この映像と、畑さんの行方不明前一ヶ月の行動を調べてほしい」
箱崎は嬉しそうに笑った。
「わかりました!まず防犯カメラから調べます。そのあと畑さんの行動を追います。報酬はいりませんよ!」
箱崎はUSBメモリを手に取ると、まるで新しいおもちゃを手に入れた子どものように目を輝かせた。
木下は箱崎を見て、内通者ではないと一瞬確信した。
だが、そう思わせるのが箱崎の目的かもしれない――そう思い直し、冷静に観察する。
先崎と同じで、畑がいなくなったことでの態度の変化は見られない。
「用事はそれだけ?わざわざ会う必要なかったでしょう。もしかして僕に会いたったの? 嬉しいな!」
箱崎は笑いながら言い、映像を受け取る。細い目の奥がキラキラしている。
「じゃあ、解析できたらすぐ連絡します」
箱崎は早足でスイートルームを出ていった。
箱崎が出ていってから、木下は再びブランデーを口にした。
3人目との面会まで、あと20分ある。
2人と会って、木下は何かが違うと感じ始めていた。
先崎も箱崎も、態度は変わらない。だが、それが逆に不安を煽る。
畑という絶対的な権力者が消えた今、彼らは本当に自分に従い続けるのか。
報酬と恐怖。それだけで繋がった関係だ。
木下は窓の外を見た。夜の赤坂の街が、きらびやかに光っている。
時間通りに、スイートルームの呼び鈴が鳴った。
「お久しぶりです、木下さん」
白井みきは、冷静な声で挨拶した。
56歳。中国帰化人。
大手メディア放送局の編集長。背筋を伸ばし、グレーのパンツスーツを着こなしている。
短く切り揃えた髪、細いフレームの眼鏡。知的で洗練された外見だ。
だが、その目には温度がない。
先崎の満面の笑顔とも、箱崎の子供っぽい興奮とも違う。
白井は、ただ淡々とそこに立っていた。
「お久しぶりです、白井さん。どうぞ」
木下は椅子を勧めた。白井は静かに座り、背もたれに体を預けることなく姿勢を崩さない。
「畑さんの件、メールで読みました」
白井の声は抑揚がない。
「ご冥福をお祈りします」
形式的な言葉だった。心がこもっていない。
木下は、その冷たさに少し驚いた。
先崎も箱崎も、少なくとも畑への思い入れがあるような素振りを見せた。
だが、白井は違う。
「ありがとうございます」
木下は様子を探るように続けた。
「畑さんは、白井さんにとっても大切な方だったと思いますが」
白井は眼鏡の奥の目で木下をまっすぐに見た。
「大切、ですか」
少し間を置いて、白井は言った。
「畑さんは、私に仕事を与えてくれました。報酬も十分でした。その意味では、良いクライアントでした」
クライアント。
その言葉が、木下の胸に刺さった。
仲間でも協力者でもなく、クライアント。
「木下さん」
白井が、わずかに身を乗り出した。
「畑さんがいなくなって、あなた一人で大丈夫なんですか?」
その言葉は心配ではなく、確認だった。
「どういう意味ですか?」
木下は冷静を装って聞き返した。
「そのままの意味です」
白井は表情を変えない。
「畑さんは、この組織の中心でした。政治家、警察、メディア、財界。すべてに顔が利いた。あなたは畑さんより人脈を広げ、影響力を強固にした。しかし、それは畑さんの傘の下にいたおかげにすぎない」
木下は言葉に詰まった。
白井は容赦なく続けた。
「私は仕事をします。報酬をいただければ。ですが、木下さん、一つ聞いてもいいですか?」
「何でしょう」
「あなたは、これから先、畑さんと同じように私たちを守れますか?」
守る。
その言葉に、木下は気づいた。
白井は不安なのだ。
畑という後ろ盾を失った今、自分たちが守られるのか?
それも確認しに来たのだ。
「もちろんです」
木下はできるだけ力強く言った。
「私は畑さんからすべてを引き継ぎました。人脈も、システムも。あなたを含め、この組織に関わる人たちは、私が守ります」
白井は数秒間、木下を見つめた。そして小さく頷いた。
「わかりました」
だが、その目は信じていなかった。木下はそれを感じ取った。
「白井さんにお願いしたいことがあります」
木下は話題を変えた。
「畑さんが行方不明になる前の1ヶ月間の行動を調べてほしいのです。あなたのメディアネットワークを使って」
白井は少し考えるような仕草をした。
「メディアネットワーク、ですか。具体的には?」
「記者、ジャーナリスト、フリーライター。あなたが抱えている情報源です。畑さんが誰と会っていたか、どこに行っていたか。警察が見つけられなかった情報を探してほしい」
「警察が見つけられなかったということは、相当慎重に隠されていたということですね」
白井の声に、わずかな皮肉が混じった。
「それを、私のネットワークで見つけられると?」
「可能性はあると思います」
「なるほど」
白井はまた少し間を置いた。
「報酬は?」
「いつも通りです」
「わかりました。やりましょう」
白井は立ち上がった。
「ただし、木下さん」
ドアに向かいながら、白井は振り返った。
「私は仕事をしますが、これからのことはわかりませんよ」
その言葉の意味を、木下は理解した。
――あなたが弱いと判断したら、私は離れる。
「それは、どういう意味ですか?」
木下は思わず聞いた。
白井は初めて表情を動かした。わずかに口角を上げた。
笑顔ではない。別の感情だ。
「畑さんは強かった。だから私たちは従った。木下さん、あなたは強いですか?」
木下は答えられなかった。
白井はそれ以上何も言わず、スイートルームを出ていった。
木下は、一人になった部屋で深く息を吐いた。
手がわずかに震えている。
ブランデーのグラスを持ち上げたが、飲む気にならなかった。
白井みきの冷たい目。
「あなたは強いですか?」
その問いが頭の中で繰り返される。
私は強いのか?
畑がいたから冷酷になれた。
畑がいたから人を殺せた。
畑がいたから計画を進められた。
畑がいない今、私は何者なのか?
木下は窓に映る自分を見た。
そこには、オドオドした少年の面影が確かに残っていた。
白井が出ていってから、木下はソファに深く座り込んだ。
3人と会って、木下は確信していた。
誰も、私の味方ではない。
報酬、面白さ、保身。それぞれの理由で動いているだけだ。
畑がいなくなった今、彼らは私を値踏みしている。使える人間かどうか。それだけだ。
木下は時計を見た。最後の一人まで、あと15分。
4人目。
この男だけは、他の3人とは違う。
木下はブランデーの酔いの心地よさのまま、冷静な自分でいられる精神状態であることを理解していた。
時間きっかりに、呼び鈴が鳴った。
「失礼します」
入ってきたのは、平山竹生60歳。
背筋を伸ばし、仕立ての良いスーツを着こなしている。
60歳でも綺麗に黒髪を整え、細いフレームの眼鏡をかけている。
知性と自信に満ちた佇まいだ。
元経済財政担当大臣。
泉水政権時代、労働者派遣法の規制緩和を主導した人物だと世間では認知されている。
だが真意は定かではない。
正確に言えば、その法案は泉水政権になる前からすでに決まっていた。
現在は、複数の大企業の顧問、大学教授、そしてシンクタンクの理事を兼任している。
「お久しぶりです、木下さん」
平山の声は落ち着いている。
だが、どこか上から目線だ。
「お久しぶりです、平山先生」
木下は立ち上がり、握手を交わした。
平山の手は、冷たく、固かった。
「畑君の件は残念でしたね」
平山は椅子に座りながら淡々と言った。
「畑君とは長い付き合いでした。優秀な官僚でした」
「ありがとうございます」
木下は平山の表情を観察した。
悲しみはない。惜しむ様子もない。
ただ「優秀な部下を失った上司」のような、形式的な態度だ。
「それで、今日の用件は?」
平山は、時間を無駄にしたくないという態度だった。
「はい。畑さんが行方不明になる前の1ヶ月間の行動を調べていただきたいのです」
「警察が調べても何も出なかったのでしょう?」
「はい」
「それを、私に?」
平山はわずかに眉を上げた。
「私は政治家でも官僚でもありません。一介の学者です。何ができると?」
「平山先生には、政財界に広いネットワークがあります。畑さんが最後の1ヶ月で誰と会っていたか、どこに行っていたか。先生のネットワークなら、何か掴めるかもしれません」
平山は少し考えるような仕草をした。
「なるほど。つまり、私の人脈を使えと」
「はい」
「報酬は?」
「いつも通りです」
平山は小さく笑った。
「木下さん、私は報酬が欲しくてあなた方に協力しているわけではありませんよ」
その言葉に、木下は少し驚いた。
「では、なぜ?」
「理念です」
平山は、自信に満ちた声で言った。
「私は、この国の経済を正常化するために働いてきました。労働市場の流動化、規制緩和、市場原理の導入。すべて、日本を強くするためです」
木下は黙って聞いていた。
平山は続けた。
「畑君が進めていた計画も、同じです。日本人は甘えすぎている。努力しない者が淘汰されるのは当然です。外国人労働者を受け入れ、競争を促進する。それが、この国を強くする」
木下は、この男が本気で信じていることに気づいた。
自分が正しいと。自分がやっていることが、日本のためだと。
「平山先生」
木下は慎重に言葉を選んだ。
「派遣法の規制緩和以降、日本の中間層は崩壊しました。氷河期世代は、人生を奪われました。彼らは今、どうしていると思いますか?」
平山は眉一つ動かさなかった。
「それは、彼ら自身の問題です」
冷たく、平山は言った。
「努力が足りなかった。適応できなかった。市場原理とはそういうものです。淘汰される者がいるのは当然です」
「淘汰、ですか」
「そうです。経済学の基本です」
平山は、まるで大学の講義をするように続けた。
「木下さん、あなたは財務省の官僚です。わかるでしょう?感情で政策を作ってはいけない。データと理論に基づいて判断する。私がやってきたことは、すべて正しかった」
木下は言葉を失った。
この男には、罪悪感がない。
自分が何百万人もの人生を壊したという自覚がない。
私にそれを言う権利もないが――。
「平山先生」
木下は、もう一度聞いた。
「最近、社会の空気が変わってきていると感じませんか?日本人ファーストを掲げる政党が出てきたり、SNSで政府批判が増えたり」
平山は鼻で笑った。
「ポピュリズムです。大衆迎合。いつの時代にもある。放っておけばいい」
「でも、もし彼らが本気で動き始めたら?」
「動きません」
平山は断言した。
「日本人は従順です。文句は言うが、行動しない。デモをしても、選挙に行っても、何も変わらない。それを彼らは知っている。だから、諦めている」
平山は木下をまっすぐに見た。
「木下さん、あなたも畑君から学んだでしょう?大衆はコントロールできる。適度にガス抜きをさせて、希望を見せて、そして失望させる。その繰り返しです」
木下は背筋が寒くなった。
この男は、人間を人間として見ていない。
データであり、数字であり、理論の中の変数でしかない。
「わかりました」
木下は話を切り上げることにした。
「平山先生、畑さんの行動調査、お願いできますか?」
「いいでしょう」
平山は立ち上がった。
「ただし、木下さん、一つ言っておきます」
ドアに向かいながら、平山は振り返った。
「畑君は強かった。彼には信念があった。この国を変えるという、明確なビジョンがあった」
平山は木下を見下ろすように言った。
「あなたには、それがありますか?」
木下は答えられなかった。
平山は小さく笑った。
「畑君の後継者として、あなたが選ばれた理由がわかりません。彼ほどの器ではない。ですが、まあ、仕事はします。報酬を受け取る以上、プロフェッショナルですから」
そして、平山は部屋を出ていった。
木下は、一人になった部屋で、崩れ落ちるようにソファに座った。
4人と会った。
わかっていたことだが…
誰一人、私の味方ではなかった。
先崎は、報酬があれば動く。
箱崎は、面白ければ動く。
白井は、私が強ければ従う。
平山は、私を見下している。
私には、仲間がいない。
畑もそうだったのだろうか?
いや、畑は違った。畑は、本当に強かった。
カリスマがあった。人を引きつける何かがあった。
私には、それがない。
木下は、窓に映る自分を見た。
そこには、おどおどした少年が立っていた。
ふと、平山の言葉を思い出す。
「日本人は、諦めている。だから、行動しない」
本当にそうだろうか?
「ハトポッポ」
彼らは、諦めなかった。
10年前に計画を知り、畑を追い詰め、そして殺した。
彼らは、誰なのか?
木下の背中に、冷たい汗が流れた。
もしかして、平山の言う「諦めた人たち」が、動き始めているのではないか?
または、失われた30年の中で人生を奪われた人たち。
淘汰された人たち。
彼らが、復讐を始めたのではないか?
10年前に計画を知り、畑を追い詰め、そして殺した。
あの殺し方は、あきらかに憎しみがこもっている。
次に狙うのは――
私か?
そう思うと、身体が震えた。
弱さが露呈する。
「ふっ」
何の感情かわからない笑みがこぼれた。
これが私だ。
木下は、ブランデーのグラスを見つめた。
氷が溶けて、琥珀色の液体が薄まっている。
ふと、畑の言葉が蘇った。
「この計画に関わっているのが誰なのかも、必要ない」
あの時、私はその言葉を、計画の秘密性を守るためのものだと思っていた。
だが、違うのか?
そうだ。私はこの計画の根本だとずっと思ってきた。
畑から受け継いだ。人脈を広げた。計画を推進してきた。
しかし、本当にそうだろうか?
もし、畑の上に、さらに誰かがいたら?
もし、私も、知らされていない何かがあったら?
木下の背中に、冷たい汗が流れた。
私も、枝なのか?
いや、そんなはずはない。
ないはずだ…
・
9月16日 午前10時
自由が丘駅近くにある小さな公園で、一人の青年が空を見上げるように顔を上げている。
9月でもまだ暑く、白の半袖シャツにジーパンでカジュアルな靴を履いていた。
でも、目は閉じている。
記憶をたどっているのだろうか?
青年は5年前のあの人とのやりとりを思い出していた。
畑に拉致だと気付かれずに、安心させる人物の名前を聞き出すのに5年もかかったと言っていたこと。
それを聞いて、あの人は言った。
「畑を拉致して、計画の全貌と関わっている主要人物を聞き出す。そして見せしめにする。やってくれるか?」
青年は決意した。
そして、それを実行する仲間を集めて、ここまできた。
今日やっと実行できる。
青年は顔を戻して、目を開けた。
広がった青い空に、数羽のハトが羽ばたいていく。
青年は、それを見て静かに笑顔になった。
そして歩き出した。
畑を拉致するために




