一人称小説の難しさ
以前「人称」について説明しましたが、自分で書く小説ですから、自分の小説に合った人称設定をしたいものです。
ただ、ここ「小説家になろう」を見てみると、比較的一人称で書いている小説が多いように思えます。
一人称小説は、登場人物(主に主人公)が語り手となるため、地の文も、登場人物が語っているかのようになります。
また、語り手の心情も描けるため、その時に思ったことや、語り手の知識を披露することができます。
これらのことから、読者は常にその登場人物がとらえた映像を追うことになるため、登場人物の共感性が高くなります。
しかしながら、一人称小説は三人称小説と違い、書ける範囲にかなりの制限があります。
・他の登場人物の心情、心理描写を書けない
自分が生活している中で、人の気持ちを考えることはあっても、人の気持ちを読むことはできません。
同じように、小説中の登場人物も、心が読めるという設定でもない限り、人の気持ちを読むことはできません。
ですから、語り手以外の登場人物の心情は書けなくなります。
もし書きたいのであれば、「彼は~と思っているだろう」といったような、語り手の推論になるでしょう。
・語り手が知り得る情報、あるいは知っている情報しか書けない
語り手が登場人物である以上、語り手が見たことや聞いたこと、知っていることは書くことができますが、語り手が知らないことについてはまったく書くことができません。
もし語り手が知らない事実を組み込みたいのであれば、ニュースや新聞を見る、人から聞くといった、「伝聞」により情報を仕入れるしかありません。
これらのことから、さらに詳しく制限を上げてみます。
・安易に視点切り替えができない
三人称であれば、様々な場面に切り替えることにより、それぞれの登場人物の動向を描くことができます。
しかし、一人称だと、基本的に視点は語り手の登場人物固定ですから、語り手以外の視点には出来なくなります(通常の生活で、突然別の人の視点になることはないですよね)。
特に読者は、語り手の登場人物と同じ目線、同じ知識を持つことで共感を得るため、視点が別の登場人物になってしまうと、前の登場人物の知りえない情報を知ってしまうことになります。
その結果、共感性ががくっと落ちてしまいます。
・地の文を、語り手である登場人物と同じレベルの文章にしなければならない
一人称小説は、地の文を登場人物に語らせるわけですから、語る地の文も、登場人物の知識が反映されていなければなりません。
例えば小中学生が語り手となると、あまり難しい表現や難しい単語を言わせることはできませんし、大人であればあまり幼稚な表現を(狙ってない限り)使うことはできません。
ちなみに、ラノベの一人称主人公が「特徴のない高校生」になりがちなのは、大体高校生であれば多少難しい熟語を使っても不自然ではないし、頭がそこまでいいわけではないので、特別難しい言い回しをしなくてもよいからではないかと思われます。
・ものごとを客観的ではなく、語り手である登場人物の主観でとらえなければならない
語っているのは登場人物ですから、「一般的にはこう思う」ではなくて、「語り手はこう思う」ということを書かなければなりません。
ですから、語り手が普通の思考の持ち主であれば、読者や筆者、あるいは誰でも考えるような地の文になると思いますが、登場人物が斜め上の発想の持ち主なら、読者の想定外のことが地の文に書かれることになります。
また、語り手の登場人物が筆者の考えを反映しているのであればよいのですが、そうでない場合、筆者の意見を述べにくくなります。
・情景描写や戦闘描写が書きにくい
普段歩いている時に、「気持ちの良い青い空が全面に広がり、眩しい太陽が優しくあたりを包む。時々吹く風が、街路樹を優しく揺らしている」などと考える人は、余裕がなければあまりいないと思います。
特に急いでいる場合なんかは、そんな周りの風景に気を取られている暇がなく、急いでいる事柄を考えながら行動しているのではないかと思います。
一人称は、「語り手である登場人物の考え」を元にしているわけですから、登場人物が考えないことは書けません。ですから、情景描写があまり詳しく書けないという欠点があります。
また、戦闘描写についても同様で、戦っている最中は自分の見えていること、あるいはどのようにして戦うか、くらいしか書くことができません。
その結果、三人称よりも細かい戦闘描写ができず、かなりうまく書かなければ内容が薄くなりがちになります。
よく見る戦闘描写を含むジャンルは、一人称は実は不向きと言えるでしょう。
こうして見てみると、一人称小説は「かなり書ける範囲が少ない」小説だと分かると思います。
しかしながら、「小説家になろう」では一人称小説が多い一方、先ほど挙げた制限を無視した書き方をしている人が非常に多いです。
中でも「視点切り替え」を平然と使っている人が非常に多く、読むたびに「何のための一人称?」と疑問に思ってしまいます。
ただでさえ、視点切り替えは工夫しないと読者の混乱を招いてしまうのに、一人称でそれをやってしまうと、視点が切り替わった時点で前の登場人物の共感性が失われます。せっかくのメリットである「共感しやすい」という点がまったく意味を持たなくなることになるのです。
また、余計な情報を読者が得てしまう分、読者は登場人物の行動にいら立ちを覚える可能性があります。
ですから、一人称の視点切り替えは、「絶対してはいけない」くらいで考えた方がいいでしょう。
ただ、一人称の視点切り替えも、使い方によっては効果的に作用することもあります。
・主人公の行動を、別の視点から見せる場合
私が読んでいる小説、「インテリビレッジの座敷童(著者はレールガンでおなじみの鎌池和馬さん)」という作品は一人称小説ですが、終盤、主人公たちが敵に追い詰められた場面では、視点が敵の方に移ります。
敵は追い詰めている側であり、主人公たちの動きを見ながらより追い詰めようとするわけです。
しかし、主人公たちの予想外の作戦により、語り手である敵たちはどんどん倒されていく、という流れになっています。
この場面では、読者に主人公たちの考えは読まれない方が都合がよく、視点が切り替わったといっても主人公たちも同じ場面にいますから、読者に余計な情報や知識が入ることもありません。さらに敵側の心理描写を描き、主人公たちの動きを客観的にとらえることで、主人公たちの鮮やかな逆転劇のすごさを表現できるわけです。
・語り手である主人公に、別の登場人物が自分の話をする場合
別の登場人物が過去を語る場合、その話が長くなるのであれば、一旦視点を語っている登場人物に移す、という方法もあります。
淡々とその登場人物が語るよりは、その登場人物の視点に立って話を進めた方が、その登場人物に対する共感を得られやすくなります。
ただ、文章量やタイミングにもよりますし、元の語り手の共感度が下がることには変わりないので、注意が必要です。
・主人公を二人置く場合
何度も述べているように、一人称で視点を切り替えるというのは、読者に対して、別の語り手が知りえない情報を与えるということになります。
それを逆手に取り、「Aさんはこう考えていて、Bさんはこう考えている。ここから二人はどう歩み寄るのか?」という、読者をやきもきさせる展開に持って行く方法もあります。
こうすると、例えば恋愛において、読者はAさんとBさんの間を取り持つ友人のような立場に置かれたように感じると思います。
当然のことながら、二人の共感性は分散されますし、視点切り替えがしょっちゅう起こるとどちらの視点に立っているかわかりにくくなるので、相当の技量と文章力が必要になると思われます。
最近では、こういったルールにとらわれず、「面白ければ何でもいい」という感じになっています。
インターネットサイトなどで無料で公開するだけなら気にする必要はないかもしれませんが、コンテストなどの公募にかけるとなると、これらのルールを無視した作品ははじかれやすくなるでしょう。
読者に対する配慮にもあたるので、もし「一人称で書きたい」と思うのであれば、何が書けて何が書けないのか、というのを考えてみた方がよいでしょう。