3-5月の裏庭
リリアナは、薄暗い地下へ続く階段を見つめる。
「ここだと思うのだけど……」
「月の裏庭……看板は出ていませんね。危険があってからでは困ります。僕が先に……」
ユリウスの声をすり抜けて、リリアナは引き寄せられるように階段を降りていく。
「ちょっと待ってくださ――リリアナ様!」
制止を振り切り、リリアナの手は扉を押していた。
からんっ――
乾いたベルの音と同時に、銀髪の男性が振り返る。
「まだ開店前だよ」
低く、擦れた声だった。
年は50歳前後だろうか。
彼のグラスを拭く手や顔には、深く皺が刻まれ、その半生が楽ではなかったことをうかがわせる。
「すみません、お聞きしたいことがあって……」
リリアナが帽子のツバを下げると、マスターの目は、隠しきれない品位を宿した彼女の顔を、素早く覗き見た。
ユリウスが思わず一歩前に出る。
マスターは二人をじっと見比べ、やがて小さく息をついた。
「いいだろう。そこに座りなさい」
ユリウスと隣同士に座り、マスターは向いに腰を下ろした。
大体のバーがそうであるように、ここ"月の裏庭"もひんやりとした空気の中に薄灯りが揺れ、酒瓶やグラスが整然と並んでいる。
違うのは、エルジオ国のバーだというのに、音楽が流れているということだけ――
リリアナはつい歌いかけて、はっとした。
(歌ったらまた……)
喉を押さえて何かに耐えるリリアナを、ユリウスは心配そうに見つめる。
「大丈夫ですか?」
リリアナは黙って頷いた。
守られに、ここへ来たわけではない。
「あの……こちらのバーは、いつも音楽を流しているのですか……?」
とりあえず当たり障りない話題をと思ったが、マスターは「そんなことが聞きたいわけじゃないだろう?」と試すようにこちらを見た。
喉がからからに渇いていたが、マスターが出してくれた水に口をつけることもできなかった。
リリアナはぎゅっと手を握る。
「……なぜこの国で、音楽が嫌われるのか知りたいのです」
まるでその質問が来るのが分かっていたように、マスターは口を開いた。
「ワシが知っているのは、音楽は意図的に消された――ということだ」
「意図的に?」
「あぁ、かつて影響力を持つ歌姫がいて、それを恐れた王家が……」
マスターは一度深くソファーに腰掛け直し、グラスの水を口に含んだ。
からっと、氷が揺れる。
リリアナのグラスは結露し、水滴が垂れていた。続きを促すようにマスターを見つめる。
「……都合の悪いものは全部これだ」
マスターは自身の手を水平にし、冷たく首の前で滑らせる。リリアナは息を飲んだ。
声が震える。
「その……歌姫とはどんな人だったのですか?」
「さぁ……嘘か本当かもわからない伝承だけだからな。……魔力を持たなかったと聞いている」
リリアナはユリウスと顔を見合わせた。
◇
店を出たユリウスは、その足で魔道具店にリリアナを連れて行った。




