第7話 帳簿に記された名前
高瀬の失踪は、翌朝には町中の話題になっていた。
小さな町というものは情報が広がるのが早い。
漁協の人間。
商店街の店主。
宿の主人。
誰もが高瀬の話をしていた。
「夜逃げだろうか」
「そんな人じゃない」
「事件かもしれないぞ」
様々な憶測が飛び交っている。
だが僕には、どれも違うように思えた。
高瀬は怯えていた。
そして何かを知っていた。
だから消えた。
少なくとも偶然ではない。
◇◇◇
朝食を食べながら、僕は昨夜のことを整理していた。
高瀬の家。
開いたままの玄関。
荒れた居間。
そして。
『人魚は海へ帰った』
という紙。
「夏乃さん」
「何だ」
「高瀬さんは生きていますよね」
夏乃さんは味噌汁を飲みながら答える。
「多分な」
「多分ですか」
「死んでいたらもっと派手になる」
妙な理屈だった。
だが彼女は本気らしい。
「じゃあ自分から姿を消した?」
「半分正解だ」
半分。
その言葉が引っ掛かった。
「誰かに逃がされた」
夏乃さんはそう言った。
「逃がされた?」
「あの老人は隠していた」
「はい」
「だが守ってもいた」
僕は考える。
守る。
何をだろう。
「人魚帳ですか」
「それもある」
夏乃さんは頷いた。
「だが、それだけじゃない」
◇◇◇
その日の午前中。
僕たちは漁協を訪れた。
白い二階建ての建物だった。
中では職員が忙しそうに働いている。
「観光ですか?」
受付の女性が尋ねた。
「少し話を聞きたいんです」
夏乃さんが答える。
「相沢修司について」
その瞬間。
女性の表情がわずかに変わった。
ほんの一瞬。
だが見逃せる変化ではなかった。
「どうしてです?」
「調査だよ」
夏乃さんは笑う。
相変わらず説明になっていない。
しかし受付の女性は奥へ消えた。
しばらくして。
一人の男が現れた。
五十代後半。
体格の良い男性だった。
「事務局長の佐伯です」
名乗る。
僕はその名前をメモした。
「相沢さんについて?」
「ええ」
「事故でしょう」
即答だった。
まるで最初から決めていた答えのように。
「そう思いますか?」
夏乃さんが尋ねる。
「警察もそう判断した」
「警察が正しいとは限らない」
佐伯の目が細くなる。
「何が言いたいんです」
「別に」
夏乃さんは肩を竦めた。
「ただ興味があるだけだ」
そのやり取りを見ながら、僕は違和感を覚えていた。
この人——妙に警戒している。
◇◇◇
漁協を出たあと。
僕たちは近くの喫茶店へ入った。
そこで昼食を取りながら話す。
「どう思いました?」
僕が尋ねる。
「佐伯か」
「はい」
「嘘をついている」
断言だった。
「どこがです?」
「相沢のことを知りすぎている」
僕は少し考える。
確かにそうだった。
こちらが詳細を言う前から。
事故だと決め付けていた。
「それだけですか?」
「あともう一つ」
夏乃さんはコーヒーを飲む。
「相沢と会っている」
「証拠は?」
「勘だ」
僕は黙った。
この人の勘は妙に当たる。
困ったことに。
◇◇◇
午後。
思わぬ連絡が入った。
宮司からだった。
「見つかったんです」
電話越しの声が震えている。
「何がです?」
「高瀬さんです」
僕たちはすぐに神社へ向かった。
◇◇◇
高瀬は生きていた。
神社の裏手にある古い倉庫。
そこに隠れていたのである。
「隠れていた?」
僕は思わず聞き返した。
高瀬は疲れた顔で頷いた。
「逃げたんだ」
「誰からです?」
老人はすぐには答えなかった。
やがて。
「人魚からだ」
そう言った。
「……」
「……」
僕と夏乃さんは顔を見合わせた。
もちろん本気で人魚がいるとは思っていない。
高瀬もそうだろう。
「つまり人間ですね」
僕が言う。
高瀬はゆっくり頷いた。
「そうだ」
老人の顔は青白かった。
「人魚と呼ばれているだけだ」
そして。
ついに口を開いた。
「人魚帳の最後のページには名前が書かれている」
「誰の?」
夏乃さんが尋ねる。
「死ぬ人間の名前だ」
僕は息を呑む。
「未来の?」
「違う」
高瀬は首を振った。
「殺される予定の人間だ」
◇◇◇
沈黙が落ちた。
波の音だけが聞こえる。
「つまり」
僕は整理する。
「帳簿は予言じゃない」
「そうだ」
「予定表?」
高瀬は苦しそうに頷いた。
「昔からそうだった」
老人は言う。
「秘密を暴こうとした人間が記される」
「誰が書くんです?」
「知らん」
即答だった。
だが。
それは本当に知らない人間の答えだった。
「相沢さんも?」
「ああ」
「載っていた」
高瀬は言った。
「死ぬ前から」
僕は寒気を覚えた。
つまり帳簿は記録ではない。
一部は。
犯行計画そのものだったのだ。
◇◇◇
「どうして今まで黙っていたんです」
僕が尋ねる。
高瀬は苦い顔をした。
「怖かった」
その一言だった。
「若い頃に見たんだ」
「何を?」
「帳簿を書いている人間を」
僕たちは息を呑む。
ついに来た。
核心だ。
「誰だったんです?」
高瀬は答えようとする。
だが、その瞬間だった。
外でガタン、と何かが倒れる音がした。
全員が振り返る。
「誰だ!」
夏乃さんが飛び出す。
僕も続く。
しかし、そこには誰もいない。
神社の裏手には木々が揺れているだけだった。
「逃げたな」
夏乃さんが呟く。
「聞いていたんでしょうか」
「恐らく」
嫌な予感がした。
犯人は近くにいる。
そして、僕たちの行動を監視している。
◇◇◇
倉庫へ戻る。
高瀬は青い顔をしていた。
「もう終わりだ」
「落ち着いてください」
僕は言う。
だが老人は首を振った。
「遅すぎた」
「何がです?」
「全部だ」
そして。
震える手で一枚の紙を差し出した。
古びた紙だった。
「これは?」
「最後のページの写しだ」
僕は息を呑んだ。
人魚帳。
失われた最後のページ。
そこには幾つもの名前が並んでいた。
相沢修司。
過去に死んだ記者。
教師。
郷土史家。
そして。
一番下。
最近書き加えられたらしい文字。
そこには。
『日下洋平』
と書かれていた。
僕の思考が止まる。
見間違いではない。
間違いなく僕の名前だった。
その隣には。
もう一つ名前がある。
『柊木夏乃』
波の音が聞こえる。
遠くでカモメが鳴いている。
だが、僕には何も聞こえなかった。
人魚帳の最後のページ。
そこには、次の犠牲者として。
僕たちの名前が記されていたのだった。




