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夏乃さんと魑魅魍魎の謎  作者: 巫 夏希
第四話 人魚帳

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第7話 帳簿に記された名前

 高瀬の失踪は、翌朝には町中の話題になっていた。

 小さな町というものは情報が広がるのが早い。

 漁協の人間。

 商店街の店主。

 宿の主人。

 誰もが高瀬の話をしていた。


「夜逃げだろうか」

「そんな人じゃない」

「事件かもしれないぞ」


 様々な憶測が飛び交っている。

 だが僕には、どれも違うように思えた。

 高瀬は怯えていた。

 そして何かを知っていた。

 だから消えた。

 少なくとも偶然ではない。



◇◇◇



 朝食を食べながら、僕は昨夜のことを整理していた。

 高瀬の家。

 開いたままの玄関。

 荒れた居間。

 そして。


『人魚は海へ帰った』


 という紙。


「夏乃さん」

「何だ」

「高瀬さんは生きていますよね」


 夏乃さんは味噌汁を飲みながら答える。


「多分な」

「多分ですか」

「死んでいたらもっと派手になる」


 妙な理屈だった。

 だが彼女は本気らしい。


「じゃあ自分から姿を消した?」

「半分正解だ」


 半分。

 その言葉が引っ掛かった。


「誰かに逃がされた」


 夏乃さんはそう言った。


「逃がされた?」

「あの老人は隠していた」

「はい」

「だが守ってもいた」


 僕は考える。

 守る。

 何をだろう。


「人魚帳ですか」

「それもある」


 夏乃さんは頷いた。


「だが、それだけじゃない」



◇◇◇



 その日の午前中。

 僕たちは漁協を訪れた。

 白い二階建ての建物だった。

 中では職員が忙しそうに働いている。


「観光ですか?」


 受付の女性が尋ねた。


「少し話を聞きたいんです」


 夏乃さんが答える。


「相沢修司について」


 その瞬間。

 女性の表情がわずかに変わった。

 ほんの一瞬。

 だが見逃せる変化ではなかった。


「どうしてです?」

「調査だよ」


 夏乃さんは笑う。

 相変わらず説明になっていない。

 しかし受付の女性は奥へ消えた。

 しばらくして。

 一人の男が現れた。

 五十代後半。

 体格の良い男性だった。


「事務局長の佐伯です」


 名乗る。

 僕はその名前をメモした。


「相沢さんについて?」

「ええ」

「事故でしょう」


 即答だった。

 まるで最初から決めていた答えのように。


「そう思いますか?」


 夏乃さんが尋ねる。


「警察もそう判断した」

「警察が正しいとは限らない」


 佐伯の目が細くなる。


「何が言いたいんです」

「別に」


 夏乃さんは肩を竦めた。


「ただ興味があるだけだ」


 そのやり取りを見ながら、僕は違和感を覚えていた。

 この人——妙に警戒している。



◇◇◇



 漁協を出たあと。

 僕たちは近くの喫茶店へ入った。

 そこで昼食を取りながら話す。


「どう思いました?」


 僕が尋ねる。


「佐伯か」

「はい」

「嘘をついている」


 断言だった。


「どこがです?」

「相沢のことを知りすぎている」


 僕は少し考える。

 確かにそうだった。

 こちらが詳細を言う前から。

 事故だと決め付けていた。


「それだけですか?」

「あともう一つ」


 夏乃さんはコーヒーを飲む。


「相沢と会っている」

「証拠は?」

「勘だ」


 僕は黙った。

 この人の勘は妙に当たる。

 困ったことに。



◇◇◇



 午後。

 思わぬ連絡が入った。

 宮司からだった。


「見つかったんです」


 電話越しの声が震えている。


「何がです?」

「高瀬さんです」


 僕たちはすぐに神社へ向かった。



◇◇◇



 高瀬は生きていた。

 神社の裏手にある古い倉庫。

 そこに隠れていたのである。


「隠れていた?」


 僕は思わず聞き返した。

 高瀬は疲れた顔で頷いた。


「逃げたんだ」

「誰からです?」


 老人はすぐには答えなかった。

 やがて。


「人魚からだ」


 そう言った。


「……」

「……」


 僕と夏乃さんは顔を見合わせた。

 もちろん本気で人魚がいるとは思っていない。

 高瀬もそうだろう。


「つまり人間ですね」


 僕が言う。

 高瀬はゆっくり頷いた。


「そうだ」


 老人の顔は青白かった。


「人魚と呼ばれているだけだ」


 そして。

 ついに口を開いた。


「人魚帳の最後のページには名前が書かれている」

「誰の?」


 夏乃さんが尋ねる。


「死ぬ人間の名前だ」


 僕は息を呑む。


「未来の?」

「違う」


 高瀬は首を振った。


「殺される予定の人間だ」



◇◇◇



 沈黙が落ちた。

 波の音だけが聞こえる。


「つまり」


 僕は整理する。


「帳簿は予言じゃない」

「そうだ」

「予定表?」


 高瀬は苦しそうに頷いた。


「昔からそうだった」


 老人は言う。


「秘密を暴こうとした人間が記される」

「誰が書くんです?」

「知らん」


 即答だった。

 だが。

 それは本当に知らない人間の答えだった。


「相沢さんも?」

「ああ」

「載っていた」


 高瀬は言った。


「死ぬ前から」


 僕は寒気を覚えた。

 つまり帳簿は記録ではない。

 一部は。

 犯行計画そのものだったのだ。



◇◇◇



「どうして今まで黙っていたんです」


 僕が尋ねる。

 高瀬は苦い顔をした。


「怖かった」


 その一言だった。


「若い頃に見たんだ」

「何を?」

「帳簿を書いている人間を」


 僕たちは息を呑む。

 ついに来た。

 核心だ。


「誰だったんです?」


 高瀬は答えようとする。

 だが、その瞬間だった。

 外でガタン、と何かが倒れる音がした。

 全員が振り返る。


「誰だ!」


 夏乃さんが飛び出す。

 僕も続く。

 しかし、そこには誰もいない。

 神社の裏手には木々が揺れているだけだった。


「逃げたな」


 夏乃さんが呟く。


「聞いていたんでしょうか」

「恐らく」


 嫌な予感がした。

 犯人は近くにいる。

 そして、僕たちの行動を監視している。



◇◇◇



 倉庫へ戻る。

 高瀬は青い顔をしていた。


「もう終わりだ」

「落ち着いてください」


 僕は言う。

 だが老人は首を振った。


「遅すぎた」

「何がです?」

「全部だ」


 そして。

 震える手で一枚の紙を差し出した。

 古びた紙だった。


「これは?」

「最後のページの写しだ」


 僕は息を呑んだ。

 人魚帳。

 失われた最後のページ。

 そこには幾つもの名前が並んでいた。

 相沢修司。

 過去に死んだ記者。

 教師。

 郷土史家。

 そして。

 一番下。

 最近書き加えられたらしい文字。

 そこには。


『日下洋平』


 と書かれていた。

 僕の思考が止まる。

 見間違いではない。

 間違いなく僕の名前だった。

 その隣には。

 もう一つ名前がある。


『柊木夏乃』


 波の音が聞こえる。

 遠くでカモメが鳴いている。

 だが、僕には何も聞こえなかった。







 人魚帳の最後のページ。

 そこには、次の犠牲者として。

 僕たちの名前が記されていたのだった。


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