第6話 海へ帰る者
翌朝。
僕はあまり眠れなかった。
『人魚は海へ帰る』
昨夜の電話が頭から離れない。
脅迫にしては妙だった。
普通なら「調べるな」で終わる。
わざわざ人魚という言葉を使う必要がない。
だが相手は使った。
意図的に——まるで伝承そのものを利用するかのように。
「顔色が悪いな」
朝食会場で夏乃さんが言った。
「寝不足です」
「若者らしくない」
「脅迫電話を受けた翌日に元気な方がおかしいです」
すると夏乃さんは笑った。
この人は本当に肝が据わっている。
「安心しろ」
「何をです?」
「電話の主は焦っている」
「そうなんですか」
「ああ」
夏乃さんはコーヒーを飲む。
「余裕があるなら脅迫などしない」
その言葉には妙な説得力があった。
◇◇◇
午前中。
僕たちは再び図書館へ向かった。
相沢修司の足取りを追うためである。
昨日の司書が資料を用意してくれていた。
「これです」
机に置かれたのは利用記録だった。
「亡くなる前の一週間です」
僕は目を通す。
新聞記事。
町史。
漁業組合誌。
そして。
「これ」
僕は指を止めた。
『漁業補償関係資料』
「補償?」
夏乃さんも覗き込む。
漁業補償とは、港湾工事などによって漁業に損害が出た際に支払われる金銭のことだ。
民俗学とはあまり関係がない。
「なぜこんなものを?」
僕は首を傾げた。
すると司書が言った。
「その資料を借りた翌日ですね」
「何がです?」
「相沢さん、誰かと大喧嘩していました」
僕たちは顔を見合わせた。
◇◇◇
「相手は誰です?」
僕が尋ねる。
司書は困ったような顔をした。
「名前までは」
「男性ですか?」
「ええ」
「年齢は?」
「五十代くらいだったと思います」
五十代。
漁業関係者なら十分あり得る。
「何を話していたか覚えています?」
司書は少し考えた。
そして。
「帳簿」
と言った。
「帳簿?」
「そんな言葉が聞こえました」
やはりだ。
人魚帳で間違いない。
「他には?」
「確か……」
司書は記憶を辿る。
やがて口を開いた。
「隠すべきじゃない、と」
その一言で十分だった。
相沢は何かを暴こうとしていた。
そして相手は止めようとしていた。
◇◇◇
図書館を出たあと、僕たちは海沿いの堤防を歩いていた。
「漁業補償か」
夏乃さんが呟く。
「気になりますね」
「ああ」
彼女は海を眺めた。
「洋平」
「はい」
「人魚伝説の本質は何だと思う?」
突然の質問だった。
「本質ですか」
「民俗学的に」
僕は少し考える。
こういう時、夏乃さんはいつも僕を試している。
夏乃さんが欲しい答えを——僕は探さなければならない。
脳内に思考を張り巡らせて——そして答えた。
「禁忌だと思います」
「……続けろ」
どうやら、第一関門は突破したようだ。
僕は、さらに続ける。
「約束を破ると海へ連れていかれる」
典型的な構造だ。
「つまり共同体のルールを守れという話です」
「その通り」
夏乃さんは頷いた。
「では今の事件は?」
僕は考える。
そして。
「秘密を守れ、ですか」
そう答えた。
「正解だ」
夏乃さんは笑った。
正解のルートを辿ることが出来たらしい。僕は心の中で安堵する。
「人魚は存在しない」
「ええ」
「だが人魚伝説は機能している」
僕はその意味を理解した。
人魚は怪物ではない。
伝承そのものが道具なのだ。
秘密を守らせるための。
◇◇◇
その日の午後。
意外な人物が宿を訪ねてきた。
宮司だった。
「これを」
そう言って封筒を差し出す。
「何です?」
「見つかりました」
僕は封筒を受け取る。
中には数枚のコピーが入っていた。
人魚帳。
その一部だった。
「盗まれる前に複写していたんです」
宮司は言った。
「全部ではありませんが」
僕たちはすぐに内容を確認した。
古い記録が並ぶ。
明治。
大正。
昭和。
そして平成。
そこまでは普通だった。
だが。
「これ」
僕は息を呑んだ。
平成二十三年。
ある記録がある。
『帳簿閲覧者 記者 死亡』
その下。
『転落事故として処理』
さらに。
『帳簿閲覧者 教師 死亡』
その下。
『海難事故』
そして。
平成三十年。
『帳簿閲覧者 郷土史研究家』
そこで記録が終わっていた。
「名前がありません」
僕は言った。
宮司も頷く。
「そこから先が失われています」
最後のページだ。
盗まれた部分。
相沢修司の名前が書かれていたはずの部分。
「誰が書いたんでしょう」
僕は呟いた。
すると。
宮司の顔が曇った。
「実は」
「はい」
「筆跡を調べました」
その言葉に反応する。
「誰の筆跡だったんです?」
宮司は少し躊躇った。
だが。
やがて口を開いた。
「高瀬さんです」
◇◇◇
夕方。
僕たちは高瀬の家へ向かっていた。
空は赤く染まっている。
波の音が聞こえる。
「高瀬さんが書いた」
僕は呟いた。
「少なくとも帳簿の一部はな」
夏乃さんは歩きながら言う。
「犯人でしょうか」
「まだ早い」
「でも」
「違和感がある」
夏乃さんはそう言った。
「違和感?」
「あの老人は隠し事をしている」
「はい」
「だが怯えているようにも見えた」
確かにそうだった。
犯人というより。
何かを恐れている人間に見えた。
そして——高瀬の家が見えてきた。
しかし、様子がおかしい。
玄関が開いている。
「……夏乃さん」
「ああ」
二人で駆け寄る。
呼びかける。
返事はない。
嫌な予感がした。
居間へ入る。
そこには、倒れた椅子。
割れた湯呑み。
そして…………、誰もいなかった。
「いない」
僕は呟く。
すると。
机の上に紙が置かれていることに気付いた。
真新しい紙だった。
そこには短く書かれていた。
『人魚は海へ帰った』
僕は凍り付く。
高瀬が消えた。
自分の意思か。
それとも誰かに連れ去られたのか。
分からない。
ただ一つだけ確かなことがある。
高瀬は。
何か重要な真実を知っていた。
そして。
その真実を知る人間が、また一人消えたのだった。




