第8話 人魚の見る海
僕の名前が書かれていた。
日下洋平。
その隣には柊木夏乃。
人魚帳の最後のページ。
そこに並ぶ文字を見た瞬間、僕の背筋を冷たいものが走った。
「……冗談じゃないですね」
ようやく絞り出した言葉だった。
「だろうな」
夏乃さんは意外なほど冷静だった。
まるで予想していたかのように。
「夏乃さん?」
「洋平」
彼女は帳簿の写しを指差した。
「違和感があるだろう」
「違和感?」
「よく見ろ」
言われてもう一度確認する。
そこには過去の犠牲者たちの名前が並んでいる。
記者。
教師。
郷土史家。
そして相沢修司。
共通点は明らかだった。
「人魚伝説を調べた人たちです」
「そうだ」
「だから僕たちも」
「違う」
夏乃さんは首を振った。
「そこじゃない」
僕は再び紙を見る。
そして。
ようやく気付いた。
「あ……」
「気付いたか」
名前の並び方だった。
古い名前は筆跡が違う。
昭和。
平成。
令和。
何人もの人間が書いたように見える。
しかし。
僕と夏乃さんの名前だけ。
明らかに新しい。
「後から書き足されています」
「その通り」
夏乃さんは笑った。
「つまり犯人は焦った」
◇◇◇
神社を出たあと。
僕たちは港へ向かった。
夕暮れだった。
空は赤く染まり始めている。
「犯人は人魚帳を盗んだ」
夏乃さんが言う。
「はい」
「そして私たちの名前を書き加えた」
「脅しのため?」
「そうだ」
なるほど。
帳簿は予言ではない。
伝承を利用した脅迫だ。
「つまり」
僕は整理する。
「昔から続く秘密を守るために」
「ああ」
「人魚伝説を利用していた」
「その通りだ」
夏乃さんは頷いた。
「そして相沢は秘密に辿り着いた」
だから死んだ。
問題はその秘密だった。
「密漁ですか?」
僕が尋ねる。
しかし、夏乃さんは首を振った。
「違う」
「違う?」
「密漁だけなら人は殺さない」
その言葉に僕は考え込む。
確かにそうだ。
リスクに見合わない。
「なら何です?」
「漁業補償だ」
その瞬間。
図書館で見た資料が脳裏をよぎった。
◇◇◇
港の外れにある防波堤。
相沢修司が転落した場所。
僕たちはそこへ向かった。
夕日が海を照らしている。
「この町は十数年前に港湾整備を行った」
夏乃さんが言う。
「その際に補償金が支払われた」
「はい」
「かなりの額だ」
僕は頷く。
調べた資料にも載っていた。
「だが不自然だった」
「何がです?」
「受給者数だ」
夏乃さんは笑った。
「多すぎる」
そこで僕は——はっと、理解した。
「架空名義」
「正解」
補償金を——本来受け取れない人間まで受け取っていた。
そして、その名義が。
「人魚帳」
「ああ」
夏乃さんは頷く。
「昔の遭難者名簿が利用された」
死者の名前。
存在しない受給者。
補償金の不正受給。
それが人魚帳の正体だった。
◇◇◇
「相沢は帳簿を調べるうちに気付いた」
夏乃さんは続ける。
「過去の遭難者名簿と補償金台帳が一致することに」
だから漁業補償の資料を調べていた。
だから口論になった。
すべて繋がる。
「犯人は」
僕は言う。
「補償金を受け取っていた人間」
「そして帳簿に触れられる立場の人間だ」
そこで、一人の顔が浮かんだ。
「佐伯」
「そうだ」
漁協事務局長。
あまりにも都合が良すぎる立場だった。
◇◇◇
そのときだった。
「感心だな」
声がした。
僕たちは振り返る。
そこに立っていたのは、佐伯だった。
夕日に照らされた顔は無表情だった。
「最初から怪しいとは思っていました」
僕が言う。
すると佐伯は笑う。
「大学生にしては上出来だ」
「相沢さんを殺したんですね」
「事故だよ」
即答だった。
「本人が足を滑らせた」
「違う」
答えたのは夏乃さんだった。
「アンタが突き落とした」
佐伯は黙る。
そして、小さく息を吐いた。
「余計なことを調べたんだ」
認めた。その一言で十分だった。
◇◇◇
「最初は脅すだけのつもりだった」
佐伯は海を見ながら言った。
「だが奴は止まらなかった」
補償金の不正受給。
何十年も続いた隠蔽。
それが公になれば終わる。
「だから殺した」
夏乃さんが言う。
「……そうだ」
佐伯は頷いた。
「昔からそうだった」
その言葉に僕は反応する。
「昔から?」
「人魚だよ」
佐伯は笑った。
「秘密を知った人間は海へ帰る」
それは伝承だった。
だが、いつしか。
都合の良い隠れ蓑になっていた。
「人魚なんていない」
僕は言う。
「いるさ」
佐伯は首を振る。
「人間の中にな」
その言葉だけは。
少しだけ印象に残った。
◇◇◇
その後、佐伯は逮捕された。
高瀬の証言。
帳簿の写し。
補償金の記録。
証拠は十分だった。
相沢修司の事件も再捜査となった。
そして——。
長く続いた人魚伝説は終わりを迎えることになる。
◇◇◇
数日後。
僕と夏乃さんは帰りの列車に乗っていた。
窓の外には海が見える。
「終わりましたね」
「そうだな」
夏乃さんは頷く。
しばらく沈黙が続く。
やがて僕は言った。
「結局、人魚伝説って何だったんでしょう」
「民俗学的にか?」
「ええ」
夏乃さんは少し考えた。
そして笑う。
「ただの人間だよ」
「身も蓋もないですね」
「だが本当だ」
窓の外を眺めながら彼女は続ける。
「鬼も妖怪も人魚も」
「はい」
「大抵は人間から生まれる」
その言葉は妙に納得できた。
伝承は嘘ではない。
だが真実そのものでもない。
人間の記憶や恐怖や願いが形を変えたものだ。
今回の人魚もそうだった。
海から来た怪物ではない。
秘密を守ろうとした人間たちの姿だったのだ。
列車は海岸線を離れていく。
港町が遠ざかる。
人魚のいる町も。
人魚のいなくなった町も。
やがて見えなくなった。
「さて」
夏乃さんが立ち上がる。
「次はどこへ行こうか」
「もう次ですか」
「当然だろう」
彼女は笑う。
「世の中にはまだ面白い伝承が山ほどある」
僕はため息を吐いた。
そして少しだけ笑った。
きっと。
次も断れないのだろう。
そんな気がした。
終わり




