第4話 人魚帳
帳簿に書かれていた日付を見て、僕は言葉を失った。
これは、江戸時代の密漁記録――そんな話だと思っていた。
ところが違う。
紙に記されていた日付はつい先日のものだった。
「……冗談ですよね?」
僕は呟いた。
夏乃さんは落ちていた紙を懐中電灯で照らしている。
「冗談なら、有難いがね」
そう言いながら紙を裏返した。
そこには数字と人名らしきものが並んでいた。
しかし途中で破れている。
全体は分からない。
「帳簿の一部ですね」
「ああ」
「ということは」
「今も誰かが書いている」
海風が吹く。
船のマストが軋む音が聞こえた。
どこか不気味だった。
百年以上前の秘密が――時を経た令和の今でさえも、今も続いている。
その事実が現実味を持ち始めていた。
◇◇◇
翌朝。
僕たちは町役場を訪れていた。
目的は相沢修司について調べるためだ。
もちろん個人情報は簡単には教えてもらえない。
しかしながら――田舎町というものは意外と情報が回る。
少なくとも宿の主人が紹介してくれた職員は協力的だった。
「相沢さんですか」
四十代くらいの男性職員が言った。
「確かによく見かけました」
「どんな人でした?」
僕が尋ねる。
「熱心な人でしたよ」
職員は思い出すように言った。
「町史も読んでいましたし、漁協にも出入りしていました」
「漁協に?」
「ええ」
その言葉に反応する。
漁業協同組合。それは、現在の漁業を管理する組織だ。
もし密漁が続いているなら、無関係とは思えない――そんな気がしてならない。
「誰か親しくしていた人は?」
夏乃さんが尋ねた。
すると職員は少し考え込んだ。
「そうですね……」
やがて口を開く。
「高瀬さんでしょうか」
「高瀬?」
「元漁師です」
その名前をメモする。
「今は引退していますが、この町では顔役みたいな人ですよ」
◇◇◇
高瀬の家は港から少し離れた場所にあった。
古い木造住宅だった。
庭には漁網が干されている。
引退したとはいえ、海との縁は切れていないらしい。
呼び鈴を鳴らす。
しばらくして老人が出てきた。
七十代後半だろうか。
日に焼けた顔。
太い腕。
一目で漁師だと分かる。
「誰だ」
低い声だった。
「少し話を聞きたいんです」
僕は名刺代わりに大学名を伝えた。
すると。
高瀬は露骨に嫌そうな顔をした。
「大学?」
「民俗学を研究しています」
「帰れ」
即答だった。
「え?」
「帰れと言った」
そして扉を閉めようとする。
だが、
「人魚帳についてだ」
夏乃さんが言った。
閉めようとした、扉が止まる。
明らかに、空気が変わった。
「……誰から聞いた」
低い声。
さっきとは違う。
警戒の色が混じっていた。
「相沢さんだよ」
もちろん嘘だった。
死人は喋らない。
しかし高瀬は動揺した。
「……馬鹿な」
「相沢さんは何を見つけた?」
夏乃さんが続ける。
高瀬はしばらく黙っていた。
やがて、
「入れ」
――そう言った。
◇◇◇
居間には古い写真が飾られていた。
漁船。
大漁旗。
そして若い頃の高瀬。
典型的な漁師の家だった。
「人魚帳は実在する」
高瀬は開口一番そう言った。
「やはり」
夏乃さんが頷く。
「だが密漁帳簿なんてものじゃない」
「違うんですか?」
少し予想外の返事が返ってきたので、思わず目を丸くしてしまった。
「半分だけ正しい」
高瀬は煙草に火を付けた。
「昔は密漁記録だった」
「……昔は?」
随分と思わせぶりな言葉だった。
「だが戦後に役割が変わった」
僕は眉をひそめる。
「どういう意味です?」
「遭難者だ」
僕は思わず聞き返した。
「遭難者?」
「海で死んだ人間の記録だ」
高瀬は静かに言った。
「事故もある」
「はい」
「自殺もある」
「はい」
「そして…………、殺された人間もある」
部屋が静かになった。
「なぜそんなものを?」
僕が尋ねる。
高瀬は窓の外を見た。
海が見える。
「昔はな」
老人は言う。
「警察なんてすぐには来なかった」
それは理解できた。
今ほど交通も通信も発達していない。
「だから町で管理していた」
「管理?」
「記録だ」
誰が死んだ。
どこで死んだ。
何があった。
そうした情報を残していたらしい。
「人魚帳は海の死者名簿なんだ」
僕は言葉を失った。
予想していたものとは違った。
だが、それなら説明できる部分もある。
「相沢さんは何を見つけたんです?」
高瀬は顔をしかめた。
「聞いた」
「何を」
「帳簿の最後のページだ」
その言葉に夏乃さんの目が細くなる。
「最後のページ?」
「見ちゃいけなかった」
高瀬はそう言った。
「なぜです?」
「最近の死者が載っていたからだ」
僕は嫌な予感を覚える。
まさか――。
「最近?」
「相沢の名前もな」
背筋が凍った。
◇◇◇
宿へ戻る道中。
僕は何度も高瀬の言葉を思い返していた。
相沢修司。
死ぬ前から帳簿に名前が載っていた。
そんなことがあるだろうか。
「予言じゃあるまいし」
僕が言う。
夏乃さんも頷く。
「当然だ。世の中には様々な風習や因習は存在する……。しかし、それは科学的に説明がつくものばかりだ。残念ながらと言って良いのかどうかは、正直何とも言えないがね」
「なら……、」
「誰かが書いた」
それしかない。
つまり、相沢が死ぬことを知っていた人物がいる。
「犯人でしょうか」
「まだ分からないね。情報が少な過ぎる」
夏乃さんは肩を竦めて、そう言った。
「だが重要なのはそこじゃない」
「どこです?」
「帳簿を管理している人間だ」
確かにそうだ。
その人物なら。
過去も現在も知っている。
相沢が何を見つけたのかも。
そして。
相沢が誰に会っていたのかも。
そのときだった。
夏乃さんのスマートフォンが鳴る。
画面を見ると、発信者は宮司だった。
「どうした」
夏乃さんが出る。
しかし。
次の瞬間。
彼女の表情が変わった。
「何だって?」
声が低くなる。
僕は嫌な予感を覚えた。
電話はすぐ終わった。
「夏乃さん?」
彼女はゆっくりスマートフォンを下ろした。
「神社だ」
「はい」
「人魚帳が盗まれた」
僕は立ち止まった。
海風が吹く。
遠くでカモメが鳴く。
しかし。
そんなものは耳に入らなかった。
事件は――今この瞬間に動き始めたのだ。




