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夏乃さんと魑魅魍魎の謎  作者: 巫 夏希
第四話 人魚帳

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第2話 調査記録

 ノートは大学ノートほどの大きさだった。

 表紙は湿気を吸って少し波打っている。

 だが中身は無事だった。

 僕と夏乃さんは宿の部屋に戻ると、すぐに机へ向かった。


「それで」


 僕はノートを見ながら言う。


「どうして壁の裏から出てくるんですか」

「私に聞くな」

「普通に怖いんですが」

「……正直言うと、私も少し怖かった」


 少しなのか。

 夏乃さんは椅子に座りながら笑う。

 しかし、その表情はどこか真剣だった。

 僕はノートを開いた。

 最初のページには名前が書かれている。



 ——相沢修司。



 新聞記事で見た転落死した男性の名前だった。


「郷土史研究家らしいな」

「ええ」


 ページをめくる。

 調査記録は一か月ほど前から始まっていた。

 内容は人魚伝説に関する聞き取り調査だった。

 漁師への取材。

 神社の記録。

 町史の調査。

 特に変わった部分はない。

 むしろ非常に真面目な研究記録だった。


「普通ですね」

「普通だな」


 さらに読み進める。

 すると。

 あるページで僕の手が止まった。


『人魚伝説は明治以降に大きく改変されている可能性あり』

「改変?」


 夏乃さんが身を乗り出した。

 僕は続きを読む。


『現在の伝説では人魚が豊漁をもたらしたことになっている。しかし江戸後期の記録では内容が異なる』

「ほう」

『人魚ではなく海女である』


 部屋が静かになった。


「海女?」

「そう書いてあります」


 僕は読み続ける。


『海から流れ着いた女を漁師が保護した。女は数年後に姿を消したが、その後豊漁が続いた』


 そこで記録は終わっていた。


「なるほど」


 夏乃さんが腕を組む。


「海女が人魚になったわけか」

「十分あり得ます」


 民俗伝承では珍しい話ではない。

 時間が経つにつれ物語は変化する。

 人間だったものが神になることもある。

 英雄が鬼になることもある。

 当然ながら——その逆もある。


「でも」


 僕は首を傾げた。


「これだけなら誰かに殺される理由はありません」

「その通りだ」


 夏乃さんも頷く。

 するとノートの後半に挟まっていた紙が目に入った。

 コピーだった。

 古文書の写しらしい。

 崩し字で書かれている。


「読めるか?」

「少しなら」


 自慢じゃないけれど、大学で勉強している。

 とはいえ、専門家ではないけれども、これぐらい——完璧ではないが何とかなる。

 僕は文字を追った。

 そして数分後。


「……おかしい」

「何がだ?」

「人魚の話じゃありません」


 夏乃さんが眉を上げた。


「じゃあ何だ」

「殺人です」



◇◇◇



 古文書は江戸時代末期のものだった。

 内容は簡潔だった。

 ある漁師が行方不明になった。

 その後、海岸で遺体が発見された。

 村人たちは海神の祟りだと噂した。

 しかし、文書の最後に一文がある。


『夜半、漁具を巡り争う声あり』

「争い?」

「つまり人間同士の揉め事です」


 祟りではない。

 事故でもない。

 少なくとも記録を書いた人間はそう考えていた。


「昔から隠蔽していたのかもしれないな」


 夏乃さんが言う。


「可能性はあります」


 ただ。

 まだ弱い。

 これだけでは事件にならない。

 そのときだった。

 ノートの最後のページが目に入った。

 そこには殴り書きのような文字が並んでいた。


『人魚は人魚ではない』

『海女でもない』

『これは密漁の記録だ』

「密漁?」


 僕は目を見開いた。

 さらに続きがある。


『港の有力者が関わっている』

『証拠を確認した』

『明日、神社で――』


 そこで文章は終わっていた。

 それ以降は白紙だった。

 最後まで書かれていない。

 つまり。


「翌日に死んだんですね」

「そう考えるのが自然だ」


 夏乃さんは真顔だった。

 いつもの軽薄さが消えている。

 こういうときの彼女は怖いほど鋭い。


「洋平」

「はい」

「これは事故じゃない」

「……僕もそう思います」


 少なくとも今は。

 そう考える理由がある。



◇◇◇



 翌朝。

 僕たちは再び海神神社を訪れた。

 宮司は境内の掃除をしていた。


「また来たのかね」

「ええ」


 夏乃さんが答える。


「少し聞きたいことがある」

「何でしょう」

「相沢さんが見つけた古文書だ」


 宮司の動きが止まった。

 一瞬だけだった。

 しかし僕は見逃さなかった。


「どの古文書です?」

「人魚伝説の原型が書かれているやつだよ」


 宮司は箒を置く。


「さあ?」

「知らない?」

「ええ……」


 嘘だ。

 そう思った。

 なぜなら、夏乃さんがそのことを言った途端、宮司の顔色が変わったからだ。

 夏乃さんも気付いている。

 しかし追及はしなかった。


「そうか」


 それだけ言う。

 そして神社を後にした。

 石段を下りながら僕は言った。


「隠してますね」

「間違いない」

「どうします?」

「決まっている」


 夏乃さんは笑った。

 嫌な予感しかしない笑顔だった。


「夜に来る」

「不法侵入ですよね?」

「違う」

「違わないです」

「調査だ」


 絶対に違う。

 それだけは、絶対に言える。



◇◇◇



 夕方。

 僕たちは港を歩いていた。

 すると漁師たちの会話が聞こえた。


「また人魚の呪いだ」

「やめろ」

「でも本当だろ」


 その言葉に反応する。

 僕たちは近付いた。


「何かあったんですか?」


 僕が尋ねる。

 漁師たちは顔を見合わせた。

 そして一人が言った。


「昨日の夜だ」

「はい」

「船小屋が荒らされた」


 船小屋。

 漁具を保管する建物だろう。


「盗難ですか?」

「いや」


 男は首を振った。


「何も盗まれていない」

「じゃあ」

「壁に書かれていた」


 その瞬間。

 嫌な予感がした。


「何と?」


 漁師は答える。


『人魚は見ている』


 海風が吹いた。

 空はまだ明るい。

 なのに。

 なぜか背筋が冷えた。


「子供の悪戯でしょうか」


 僕が言うと。

 漁師は首を振った。


「昔もあった」

「昔?」

「人が死ぬ前だ」


 僕と夏乃さんは顔を見合わせた。

 そして。

 ほぼ同時に理解した。

 この町では。

 過去にも同じことが起きている。

 そして。

 誰かが、それを知っている。

 知っている人間が今も生きているのだ。


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