第1話 人魚のいる港
夏休みも半分ほど過ぎていた。
大学生というものは自由だと世間では思われているらしいが、実際のところそうでもない。
レポートはあるし、ゼミの課題もある。何より、民俗学という学問は本を読んでいるだけでは済まない。
資料館へ行き、文献を漁り、ときには現地調査まで行う。
そんなわけで、僕は大学の図書館で古い郷土史を読んでいた。
すると、スマートフォンが震えた。
画面を見る。
送信者は柊木夏乃だった。
『洋平、今週末は空いているか?』
相変わらず前置きがない。
僕は思わず苦笑した。
そして返信する。
『一応空いています』
既読は一瞬で付いた。
『なら決まりだ』
何が決まったのだろう。
嫌な予感しかしない。
『どこへ行くんですか?』
そう送ると、しばらくして返事が来た。
『海だ』
ますます嫌な予感がした。
◇◇◇
二日後。
僕は特急列車の窓から海を眺めていた。
青空の下で海面が輝いている。
景色だけなら旅行そのものだった。
「夏乃さん」
「なんだ」
「どうして僕は海へ向かっているんですか」
向かい側の席に座る夏乃さんはサンドイッチを食べていた。
美人なのに食べ方が豪快である。
「人魚だ」
「はい?」
「人魚が出たらしい」
また始まった。
僕は額を押さえた。
「民俗伝承の人魚ですよね?」
「もちろん」
「本物じゃなくて?」
「本物だったら私は生物学者を連れていく」
それはそうだ。
夏乃さんは笑いながら新聞の切り抜きを差し出した。
見出しにはこう書かれていた。
『人魚伝説の港町で男性転落死』
「転落死……」
「先月の出来事だ」
記事によると、港町の防波堤から男性が海へ転落したらしい。
酒を飲んでいたため事故として処理された。
しかし。
「人魚伝説と何の関係が?」
「その男が調べていたんだよ」
夏乃さんは楽しそうに言った。
「人魚伝説を」
◇◇◇
目的地は人口三千人ほどの小さな港町だった。
駅を出ると潮の匂いがする。
観光地というほどではないが、漁業で成り立っているらしい。
商店街を歩いていると、人魚のイラストが描かれた看板が見えた。
「町おこしですね」
「そのようだな」
僕たちはまず観光案内所へ向かった。
そこで話を聞く。
「人魚伝説ですか?」
案内所の女性は慣れた様子で頷いた。
「昔からありますよ。この辺りでは有名です」
「どんな伝承なんです?」
「漁師が海で人魚を助けたんです」
人魚を助ける。
昔話では珍しくない。
「すると人魚がお礼に豊漁をもたらしたそうです」
「なるほど」
「でも約束を破ると海へ連れていかれるとも言われています」
豊穣と禁忌。
民俗伝承としてはよくある構造だった。
僕はメモを取った。
すると夏乃さんが口を開く。
「転落死した男性は何を調べていたんだ?」
「え?」
「人魚伝説だよ」
女性は少し顔を曇らせた。
「詳しくは知りません。でも古い神社に通っていたみたいです」
「神社?」
「海神神社です」
◇◇◇
神社は町外れの岬にあった。
小さな神社だったが歴史は古そうだった。
石段を上る。
境内には誰もいない。
「静かですね」
「こういう場所は嫌いじゃない」
夏乃さんは鳥居を見上げた。
僕は拝殿の横にある説明板へ向かう。
そこには由緒が書かれていた。
『海難事故を防ぐため建立』
そして。
『境内に人魚の骨を祀る』
「人魚の骨?」
「よくあるやつだな」
夏乃さんが言う。
確かに民俗学では珍しくない。
各地に人魚のミイラや骨と呼ばれるものが存在する。
多くは魚や猿の骨を組み合わせたものだ。
「見学できますかね」
そのときだった。
「見学ならできますよ」
後ろから声がした。
振り返る。
六十代くらいの男性だった。
神職らしい。
「宮司さんですか?」
「ええ」
男性は穏やかに笑った。
◇◇◇
人魚の骨は宝物庫に保管されていた。
ガラスケースの中——確かに骨らしきものがある。
「どう思う?」
夏乃さんが尋ねる。
「少なくとも本物の人魚ではありません」
「だろうな」
骨格に不自然な部分があった。
恐らくは、後世の加工品だろう。
しかし——それ以上に気になることがある。
「宮司さん」
「はい」
「亡くなった男性はここへ来ていたんですか?」
宮司は頷いた。
「よく来ていました」
「何か調べていた?」
「古文書ですね」
「古文書?」
「人魚伝説の原型を探していたそうです」
その言葉に僕は反応した。
伝承には必ず変化の過程がある。
現在知られている物語が、最初からその形だったとは限らない。
「見つかったんですか?」
「ええ」
宮司は答えた。
「見つけたようでした」
◇◇◇
神社を出る頃には夕方になっていた。
海が赤く染まっている。
宿へ向かう途中、夏乃さんが言った。
「事故だと思うか? 洋平」
「まだ何とも」
「私は違うと思う」
即答だった。
「どうしてです?」
「調べていた人間が死んだ」
「偶然かもしれません」
「偶然かもしれない」
夏乃さんは頷いた。
そして続けた。
「だが、古文書を見つけた直後だ」
確かに引っ掛かる。
あまりにも出来すぎている。
宿へ到着したあと、僕はロビーで町の資料を読んでいた。
そのとき、一冊の郷土誌が目に入った。
何気なくページをめくる。
すると、
「……あれ?」
僕は思わず声を上げた。
古い記録が載っていた。
明治時代の新聞記事。
内容を読んで、僕は目を見開く。
そこにはこう書かれていた。
『人魚伝説調査中の郷土史家、海で溺死』
背筋が冷たくなる。
一人ではない。
百年以上前にも。
同じような人物が死んでいた。
そのときだった。
「洋平」
夏乃さんの声。
振り向くと——夏乃さんはいつになく真面目な顔をしていた。
「面白いものを見つけた」
「何です?」
「死んだ男の泊まっていた部屋だ」
「はい」
「壁の裏からノートが出てきた」
僕は固まった。
「……それ、警察案件じゃないですか?」
「安心しろ」
「安心できません」
「宿の主人に許可は取った」
夏乃さんは笑った。
そして一冊のノートを差し出す。
表紙にはこう書かれていた。
『人魚伝説調査記録』
その瞬間。
僕は直感した。
この港町には、人魚ではなく。
人間が隠し続けてきた何かがあるのだと。
そして、それを知ろうとした人間は。
なぜか海で死んでいるのだと。




