【配信6日目】 その撃ち合い、見学でもいいですか? 【nemui/月乃ほしな/月杜しおり】
林へ入ってから、僕は一度だけ立ち止まった。
太い木の幹。その向こうに、次の木。
すぐそばに足音はない。左側の斜面も、誰も走っていなかった。
そこでようやく、マウスを握る力を緩めた。
残り八十一人。
一人倒しただけで、こんなに疲れていていいのだろうか。
机の水へ手を伸ばすと、その奥に置いた、小さな紙袋が目に入った。
中身はチョコレートだった。
月曜日、朝倉先輩と寄った店で買ったものだ。
*
「お好きなものをお選びください」
店員さんに小さなトレーを渡されて、僕は少し困った。
甘いものは嫌いではない。
ただ、チョコレートを選ぶために、こんなに長く文章を読んだことはなかった。
苺。紅茶。キャラメル。
その下に、産地と香りと食感の説明が続いている。
「どれにする?」
隣で、先輩が聞いた。
「全部、おいしそうですね」
「それ、私も五分前に言った」
先輩のトレーも、まだ空だった。
仕事中なら、もっと早く結論を出す人なのに。
「迷ったら、いったん最初に気になったものを取るといいですよ」
「それ、私が仕事で言ったやつ?」
「はい」
「ちゃんと覚えてて偉い。じゃあ、お手本見せてもらおうかな」
急に責任が戻ってきた。
僕は、苺を一つ取った。
昼にもらったものと、同じ味だった。
「気に入った?」
「はい。おいしかったので」
「そっか」
先輩は、なぜか自分のトレーより、僕の方を見ていた。
それから紅茶と、キャラメルを一つずつ取った。
「じゃあ、こっちは私が買うね。明日、ちょっと交換しよう」
「それなら、僕はこっちの――」
アーモンドへ手を伸ばしかける。
すると店員さんが、にこやかに棚の上を示した。
「六種類を一つずつ入れた、食べ比べの箱もございます」
正解があった。
さっきから二人で解こうとしていた問題の答えが、百円安く売っていた。
「……これでよかったですね」
「うん」
先輩は箱を見て、手元のトレーを見た。
それでも、一度取った二つは戻さなかった。
「でも、私、こっちにする」
「そうですか」
「もう交換するって決めたし」
先輩は、キャラメルをもう一つ取った。
仕事みたいに、早く答えを出せばいい買い物でもなかったらしい。
*
ヘッドホンの中で、遠くの銃声がした。
土曜日の部屋へ、意識が戻る。
紙袋には、火曜日にもらった紅茶が一つ残っている。
袋を開けるのは、試合が終わってからにしよう。
僕は水を戻し、ゲームの画面へ目を据えた。
まだ、同じ木の陰だった。
足元の草が揺れている。
右手を握り直す。
ここで休む時間は、もう終わりだ。
林の向こうに、家の屋根が見えた。
地図を開く。
住宅地の先には、幅のある水路が一本、横切っている。その向こう側が、最初の安全区域だった。
道なりに行けば、大きな橋。
ただし、そこへ出る道路は、家の窓からよく見える。
住宅地の右端にも、細い橋があった。
人が二人並べるくらいの幅。車は通れないけれど、僕一人なら十分だ。
向こう岸には低い土手と、小さな果樹園が続いている。
渡ったあと、隠れる場所もある。
僕は地図を閉じ、木の間から住宅地へ近づいた。
手前に、灰色の壁をした平屋。
左奥には赤い屋根の二階建て。その二階からなら、細い橋の入口も見えそうだった。
窓は暗い。
人がいるかどうかまでは、分からない。
家と家の隙間を、何かが横切った。
黄色い鞄。
僕はライフルを上げた。
その人は平屋の塀に沿って走り、角で止まった。
銃を向けているのは、僕と反対の方向。
背中が見える。
距離も、訓練場で練習したくらいだった。
照準が、肩の少し上で止まる。
そのとき、赤い屋根の窓で火が光った。
黄色い鞄の横の塀に、弾が当たる。
相手はすぐに身を引いた。
撃ち返す音。
二階の窓から、銃口が消えた。
僕は引き金から指を離した。
この人を倒せば、窓の相手は、もう塀を見ていなくていい。
その次に見る場所が、僕の渡りたい橋かもしれない。
視線を右へ動かす。
平屋の裏から、橋の手前までは物置の屋根が重なっていた。
窓から身体が見えるのは、最後の数歩だけだ。
黄色い鞄が、塀の端から銃を出した。
また、短い撃ち合いになる。
僕は照準を外し、平屋の裏へ回った。
足音を小さくして、壁に沿う。
すぐ向こうで、誰かが走る音がした。
さっきの人か、別の人か。
確かめるために角を覗くのは、やめた。
僕が欲しいのは、この家ではない。
物置の陰へ入る。
橋までは、もう近かった。
水路は底が見えるくらい浅いけれど、両側が高いコンクリートで固められている。下りたあと、向こう側へすぐ上がれる場所は見当たらない。
途中で撃たれてから飛び込むのは、困る。
渡るなら、一度で渡る。
僕は屋根の縁から、二階の窓だけを見た。
銃口が出る。
左へ向いた。
塀の方で、弾が跳ねた。
今だ。
物置から出た。
橋の入口。
細い欄干の間へ、身体を滑り込ませる。
走る。
足音が、硬い音に変わった。
背中がむずむずした。
あの窓を見たくなる。
見ても、走る速さは変わらない。
銃声が一度止まった。
まだ、向こう岸は先だ。
止まるな。
最後の一歩で、地面の色が変わる。
僕はそのまま土手の低い側へ下りた。
画面の上を、草が隠した。
撃たれなかった。
足を止めず、橋から離れる。
住宅地の方で、また銃声がした。
その音を背中に聞きながら、僕は果樹園へ入った。
さっきまで窓の前を横切らなければ行けなかった場所に、今は立っている。
一人も倒していない。
でも、先に進めた。
*
――大会公式配信。
『nemui選手、橋を渡り切りました』
画面の中で、白い髭の選手が土手に沿って走っていた。
しおりが、小さく息を吐く。
『よかった。橋の真ん中で撃たれたら、隠れる場所がなかったので』
〈ひやひやした〉
〈今の人撃たないんだ〉
〈移動優先か〉
『あの二階の人、反対側を見ていましたね。その間に渡れたんですね』
観戦画面が住宅地へ戻る。
塀の向こうへ手榴弾が落ちた。
黄色い鞄の選手が、角から離れる。
赤い屋根の窓で、また銃口が動いた。
『こちらの二人は、まだ動けません。残り時間も、気になってきます』
〈なるほど〉
〈巻き込まれなくてよかった〉
〈ねむいさん落ち着いてるな〉
しおりは頷いてから、少し笑った。
『落ち着いて見ているつもりだったんですけど、私、自分の膝をずっと握っていました』
〈わかるw〉
〈力抜いて〉
『はい。では、ほかの選手の様子も見てみましょう』
画面が、nanahoshiの視点へ切り替わる。
道端に止まっていたのは、屋根のない、小さな二人乗りの車だった。
『nanahoshi選手、車が見つかりました。これで移動は、少し楽になりそうですね』
『そうですね。次の区域まで、まだ距離もあるので』
ほしなが、しおりの言葉に相槌を打った。
画面の選手が、車に乗り込む。
低いエンジン音。
発進する前に、視点が右へ、左へと動いた。
『ちゃんと周りを確かめてから、ですね』
『乗った直後は、狙われやすいですからね。丁寧に見てますね』
〈安全運転〉
〈急に教習所〉
車が走り出した。
舗装された道に沿って、速度が上がる。
前方には、道を塞ぐように止まった大型車と、その脇に積まれた土の山があった。
『あの車の横は、少し狭そうです。……そちらへ行くんですね』
nanahoshiは、早めに道の外へ寄せた。
小さな車が、土の斜面へ乗る。
空が大きく映った。
エンジン音だけが、高くなる。
『……飛ぶんですか?』
しおりの声が、少し遅れて追いかけた。
大型車の横を、浮いたまま通り過ぎる。
車体が傾く。
nanahoshiの画面が細かく揺れた。
着地。
一度大きく跳ねて、それでも四つの車輪が地面を捉えた。
車は速度を落とさず、畑の外側へ抜けていく。
『通れましたね……!』
『着地が上手でしたね。あそこで止まらなかったの、大きいです』
ほしなの声は、いつものゲーム解説の調子だった。
〈うま〉
〈今のいけるのかw〉
〈教習所で習ってない〉
しおりが、ゆっくり頷いた。
『右と左だけじゃなくて、上も確認した方がよかったですね』
ほしなが吹き出した。
コメントが、一斉に流れる。
しおりは一拍置いてから、次の安全区域の案内へ進んだ。
*
果樹園の木は、思ったより細かった。
立って隠れるには、幹の幅が足りない。
僕は低いところを選びながら、先へ進んでいた。
残り六十三人。
右上には、知らない名前が次々に並ぶ。
その中に、一度、HATCHがあった。
立ち止まって数えるのはやめた。
今いる場所から、あの人へ撃てるわけでもない。
果樹園を抜ける手前で、地図を開いた。
次の安全区域が出ていた。
今より、さらに内陸側。
目の前の丘を越えた先に、建物がいくつか集まっている。
時間には、まだ余裕があった。
住宅地を出るときに使わずに済んだ煙幕も、二つとも残っている。
橋の前で、どちらかが倒れるまで待っていたら、こうはいかなかった。
僕は丘へ向かい、途中で足を止めた。
右手の道路から、エンジン音。
伏せる。
木の間を、白い乗用車が通り過ぎた。
僕がこれから行こうとしていた坂を上り、先の建物の陰へ消える。
少しして、音が止まった。
誰かがいる。
建物の中か、その裏か。
そこまでは分からない。
僕は、いま見た場所へ地図の印をつけた。
行くつもりだった道を、少し左へ変える。
同じ道を歩いて追いかければ、先に着いた人の正面へ出る。
丘のくぼみに沿えば、建物の横側へ回れそうだった。
まだ、選び直せる。
しゃがんだまま、木の陰を離れた。
草の色が、少しずつ薄くなる。
道には出ない。
でも、道が見えなくなるほどは離れない。
坂を上り切る前に、一度、頭の位置を下げた。
向こう側が見える。
右に、小さな住宅が二軒。
その手前に、さっきの車が止まっていた。
左には、灰色の二階建て。
事務所のような建物で、正面に大きな入口があり、横には細い鉄の外階段がついている。
外階段は二階の扉へ続いていた。
そこから奥の斜面に沿って、細い道が延びている。
地図の印を見る。
住宅の方には、誰かが先に着いている。
灰色の建物は、分からない。
窓が割れているからといって、もう誰もいないとは限らない。
僕は木の陰で、少し待った。
住宅の玄関が開く。
人が一人出てきて、車の反対側へ回った。
道を見ている。
さっきまで、僕が歩いていた方を。
まっすぐ来なくてよかった。
僕は身を低くし、灰色の建物へ向かった。
入口までの途中に、腰の高さのコンクリート塀がある。
まず、そこへ。
塀まで進んでから、入口の奥を見た。
薄暗い廊下。
右に部屋。
奥に階段。
入口に立ったまま、全部を確かめることはできない。
それでも、次に身を寄せる壁は見えた。
僕はサブマシンガンへ持ち替え、塀の端から走った。
戸口を越える。
すぐに右へ寄り、開いた部屋の中へ銃を向ける。
机と、倒れた椅子。
人はいない。
左側の壁に背をつけた。
廊下の奥へ、照準を戻す。
階段の手前には、裏側へ通じる扉があった。
開いている。
向こうには、細い道。
その先の斜面まで抜ければ、次の区域へ進めそうだった。
僕は一歩、前へ出た。
頭の上で、靴音がした。
止まる。
もう一度。
天井の向こうを、誰かが歩いていた。
身体が、先に壁へ戻った。
耳を澄ます。
二階にいる。
それ以上は、まだ分からない。
階段のどちら側か。扉の陰か。
音だけで、全部が見えるわけではなかった。
僕は廊下の奥を見た。
裏口へ行くには、階段の前を横切る。
二階から下りてくる人がいれば、そこを見られる。
引き返して外を回るなら、さっきの住宅の窓に身体を見せる場所があった。
どちらでもいいから急げば、どちらからでも撃たれる。
残り四十七人。
区域が狭まるまでの時間は、まだある。
僕は、入口の正面から離れた。
右側の部屋へ半歩入り、壁で背中を隠す。
天井の音が止まる。
向こうも、こちらの足音を聞いたかもしれない。
僕は銃を持ち直した。
橋では、撃たずに通れた。
ここでも同じとは限らない。
次の一発を撃つ場所は、もう決めていた。




