【配信20日目】 モデルが動いた! ボクより表情が豊かです 【音無せら/四季野すず/久我】
月曜の朝、椅子に座る前に、一度止まった。
昨日、八拍かけて動かした足が、今日は、座るだけでも相談を求めてきた。
「白瀬くん、どうしたの」
隣の席から、先輩が顔を上げた。
「筋肉痛です」
「昨日、そんなに動いたんだ」
「事務所で、歌とダンスのレッスンがあって」
「あ、もう始まったんだね」
「はい。正式に所属して、今は、配信の準備をしています」
机へ手を添えて、ゆっくり腰を下ろす。
座れた。
朝から、一つ仕事を終えた気分だった。
「立つほうは、大丈夫?」
「それは、あとで考えます」
「お昼までに考えておいてね」
先輩は笑って、共有している依頼一覧を開いた。
「これ、今日の依頼一覧。担当ごとに見られるようにしたんだけど、一緒に確認してもらっていい?」
「はい」
足は、まだ少し痛かった。
でも、画面の中の表まで、動かしづらくなったわけではない。
先輩の作った一覧と、元の依頼を順番に確かめる。
「期限が変わった分、色をつけるだけだと、白黒で印刷したときに分からなくなるかもしれません」
「あ、本当だ。午前の打ち合わせ、これ印刷して持っていくんだった」
「変更ありって、別の欄に出しておきますか」
「うん。それ、お願い」
僕が手を入れて、先輩がもう一度確認する。
一覧を閉じるころには、朝の用事が、一つ、本当に片づいていた。
「助かった。これ、お昼までに回したかったんだ」
「間に合ってよかったです」
「そっちの準備は、どう? 毎日やる感じ?」
「確認が届いたら返したり、少し練習したり。配信は、まだ先です」
「じゃあ、帰ってからも宿題あるんだ」
「そうですね」
歌詞につけた、息継ぎの印を思い出した。
帰ったら、一度、あそこを歌ってみたい。
そんなことを考えながら出勤したのは、初めてだった。
*
その週の金曜日、すずさんとの約束も、一つ実行できた。
夕食を済ませて、LAST CIRCLEを起動する。
通話をつなぎ、招待を送ったところで、向こうが静かになった。
『……ねえ。このnemuiって』
「はい」
『ほしな先輩の大会に出てた、ねむいさん?』
「そうです」
ロビーで、白髭の男がこちらを向いていた。
すずさんから、息を吸う音が聞こえた。
『あの最後の動画、見たよ。……えっ。ちょっと待って』
「はい」
『私、一回、練習してから来てもいい?』
「今から、その練習をするんですが」
『そうなんだけど! 教わる前に、ちょっと上手くなっておきたい!』
それができるなら、僕も、ダンスの前にやっておきたかった。
しばらく笑ってから、訓練用の建物へ入った。
並んだ窓を、一つずつ使ってみる。
僕が先に移動して、すずさんが、少し離れた場所から見る。
『あ、ここなら、せらちゃんが出ていくところも見える』
「はい。そこにいてもらえると、助かります」
白髭の男を、窓の下まで動かした。
顔を上げると、隣の建物から、すずさんのキャラクターがこちらを見ていた。
今日は、勝った人も、負けた人もいなかった。
代わりに、次に一緒に試したいことができた。
*
二週目には、せらの絵に、細かい色がついた。
白い上着の襟。灰銀色の髪に入った影。片側の、小さな編み込み。
確認の連絡が来るたび、仕事から帰って、画面を大きくして見た。
自分の服を買うときより、長く見ている気がした。
三週目には、録音した声を、最後まで聞けるようになった。
最初は、自分が喋っているだけで、なぜか止めたくなった。
慣れてくると、声そのものより、言葉と言葉の間が気になるようになった。急いでいるところも、考えて止まっているところも、自分が思うよりはっきり残っていた。
週末のレッスンで、息継ぎの場所を一つ直す。
平日の夜に、そこだけ歌って確かめる。
全部を毎日やることはできなかった。
帰りが遅くなった日は、届いた確認に返事をして終わる。録音は、隣で流していた配信を止めてから始める。
ほしなの声を聞いているだけだった机に、自分の声を聞く時間ができた。
夏希とは、ときどき、短いやり取りをした。
配信の感想を送った日もあれば、帰りに買ったものの話だけで終わる日もあった。
次の日も連絡していいことに、少しずつ慣れていった。
そうして、最初の顔合わせから、六週間がたった日曜日。
事務所のモニターに、音無せらが映っていた。
*
「では、ゆっくり、顔を左右に動かしてみてください」
担当のスタッフに言われて、僕は、顔を少し右へ向けた。
画面の中の女の子も、顔を動かした。
灰銀色の髪の先が、一拍遅れて揺れる。
戻す。
彼女も戻った。
眠そうな青灰色の目。大きめの白い上着。首元のヘッドホン。
何度も確認してきた絵と、同じ姿だった。
それが、僕と一緒に、動いていた。
「……あ」
小さく声を出すと、口も開いた。
僕が黙ると、彼女も口を閉じる。
思わず、もう一度、声を出した。
「すごいですね」
「はい。音無さんの表情が、そのまま出ています」
隣の久我さんが言った。
モニターの上にあるカメラへ目をやる。
画面へ戻すと、せらも、何かを確かめるような顔をしていた。
動いているのを見に来たはずだった。
僕が動かしているのだと、今、ようやく分かった。
「わ。かわいい」
後ろから、声がした。
自分の確認を終えたすずさんが、部屋へ入ってきたところだった。
僕は振り返りかけて、画面のせらまで横を向いたので、慌てて正面へ戻った。
「あ、そんなふうに動くんだ」
すずさんが、空いている椅子を引いた。
「せらちゃん、今、こっち見たでしょ」
「……はい」
「画面のほうも、すごい勢いで見てくれた」
落ち着いた女の子が、誰かを見つけて、急に振り返っていた。
僕はもう少し、静かに振り返ったつもりだった。
スタッフが画面を見ながら、続けた。
「次に、笑顔を見せてもらえますか」
「はい」
口元へ、少し力を入れた。
せらの唇が、持ち上がる。
目は、その変化を確かめようとして、細くなった。
すずさんが、黙った。
「……何か、企んでる?」
「笑おうとしています」
「うん。今、勝てる方法を思いついた顔してる」
僕は、画面を見直した。
確かに、こちらへ何かを仕掛けてきそうな顔だった。
もっと、普通でいい。
普通に、楽しそうに。
そう考えるほど、どのくらい口元へ力を入れていたのか、分からなくなってきた。
少し緩める。
せらが、不安そうになった。
戻そうとして目を上げると、今度は、誰かの顔色をうかがうような表情になった。
忙しい。
僕は、さっきから、椅子に座っているだけなのに。
「あの」
「はい」
「この子、もう少し、落ち着けませんか」
久我さんが、僕を見た。
モニターを見た。
それから、口元を押さえた。
「……音無さんが、落ち着いていただければ」
すずさんが、横で吹き出した。
そうだった。
僕だった。
「すみません。画面のほうへ、お願いしてました」
言いながら、自分でも、おかしくなった。
息が漏れる。
肩の力が、少し抜けた。
「あ、今」
すずさんが、画面を指した。
せらが、笑っていた。
口元だけで何かを企む顔ではなくて、目を細めて、楽しそうに。
こんな顔をした覚えは、なかった。
でも、まだ少し笑っている自分の頬を意識すると、画面の彼女も、同じ顔のままだった。
「それ、いいね」
すずさんが言った。
僕は、どう返そうかと、また口を閉じた。
せらの視線が、少し下がる。
褒められて照れた女の子が、そこにいた。
これまで、顔に出ていないつもりで済ませていたものは、案外、そうでもなかったのかもしれない。
*
動きの確認が終わると、久我さんが、プロフィールの案を開いた。
音無せら。
好きなことは、ゲーム。
歌とダンスは、練習中。
一人称の欄には、『ボク』とあった。
「話し方は、普段のままで大丈夫です」
「『私』に、変えなくてもいいんですか」
「はい。音無さんは普段から『僕』ですし、そのままのほうが話しやすいと思います」
久我さんは、画面のせらを見た。
「声も、今のお声で」
「……分かりました」
紹介の文章を、一行だけ、声に出してみる。
「ボクは、ゲームが好きです。これから、一緒に遊べる配信も――」
声は、いつもどおりだった。
会社でも、家でも、同じ声で喋っている。
けれど、画面の口がそれに合わせて動くと、せらの言葉に聞こえた。
自分の声を聞き直すときとは、少し違った。
この子が話すことを、僕が考える。
そう思うと、プロフィールの空欄が、ただ埋めるためのものには見えなくなった。
「初配信は、この自己紹介から始めましょう」
久我さんが、予定を並べた画面へ切り替えた。
「大会にnemuiさんとして参加したことも、そこでご紹介します」
「はい」
「そのあと、LAST CIRCLEを一戦。実際にプレイしているところも、見ていただければと」
プロフィールを、もう一度見た。
好きなことは、ゲーム。
そこに書くよりも、実際にやったほうが、伝えられる気がした。
「一戦だけで、いいんですか」
「はい。最初は自己紹介もありますし、最後に次回の予定をご案内する時間も取りたいので」
全体で、一時間ほど。
自己紹介が十五分程度。ゲームを一戦。終わったら、感想と、次の配信の話。
久我さんは、その間に、少しずつ余裕を入れた。
「試合が短く終わったときに話せることも、いくつか考えておきましょう」
「……分かりました」
早く倒されたら、その分、長く喋ることになる。
生き残りたい理由が、一つ増えた。
「どんな配信をしたいか、は、ご自分の言葉でお話しください」
久我さんが、最後の項目を指した。
そこだけは、まだ、短いメモのままだった。
ゲームをする。
歌も、少しずつ覚える。
来てくれた人と、何かを話す。
今、書けるのは、そのくらいだった。
昔の選手名も、会社の名前も、このプロフィールにはない。
ここから何をするかは、自分で言わなくてはいけなかった。
*
翌週の夜、すずさんと、初配信用の画面を見せ合った。
通話をつないで、互いに短く録ってみた自己紹介を再生する。
すずさんの声は、相変わらず、聞いていて楽しかった。
好きな歌の話から、歌うときについ動いてしまう癖の話になり、最後には、椅子の肘掛けへ手をぶつけた話になった。
台本には、『歌が好き』と一行だけ書いてあった。
「そこから、そんなに話せるんですね」
『喋ってるうちに、思い出しちゃって』
「聞いていて、楽しかったです」
『よかった。……でも、次のページ、まだ開けてないんだよね』
録音の時間を見た。
僕が予定していた自己紹介の、半分近くを使っていた。
短く終わるのも、長くなるのも、どちらも難しいらしい。
続いて、すずさんの画面を見せてもらった。
名前の周りに、小さな花が散っていた。
好きなもの、やってみたいこと、それぞれに色がついている。
見た瞬間に、すずさんらしいと思った。
ただ、見ている間にも、声のほうは次の話へ進んでいた。
「この画面、二枚に分けてみませんか」
『多い?』
「好きなものを読んでいるときに、やってみたいことのお話も始まるので。どっちを見ればいいか、少し迷いました」
『ああ、そっか。私、書いてあること全部知ってるから』
「はい。初めて見る人は、読む時間もいると思うので」
すずさんが、画面を分けていく。
花は、そのまま残した。
文字が少なくなると、名前の横の小さな絵も、見やすくなった。
『こっちのほうが、喋る順番も分かるね』
「僕には、見やすいです」
『ありがと。じゃあ、次はせらちゃん』
今度は、僕の録音を再生した。
趣味の説明。
好きなゲーム。
これから、やってみたいこと。
止めずに聞き終えてから、すずさんが言った。
『声、落ち着くね』
「本人は、ずっと、次の行を探してました」
『うん。途中、一回、すごい静かになった』
「見失ったところです」
すずさんが笑った。
僕も、メモを見て笑った。
喋る文章を、全部書いてあった。
そのとおりに言わなければいけない気がして、一行ずれただけで、続きが分からなくなった。
『これ、全部読まなくても、せらちゃんが知ってることだよね』
「まあ……自分のことなので」
『じゃあ、名前だけ残してみる? 好きなゲームの名前とか、話したいことの見出しだけ』
文章を、別の場所へ避けた。
短い見出しだけを見て、もう一度、同じところを話す。
さっきと、言葉は少し変わった。
でも、途中で、次の行を探す必要はなかった。
『今のほうが、せらちゃんと話してる感じする』
「……そうですか」
『うん。最初のやつも丁寧でよかったけど、今のは、続き聞いてみたくなる』
僕は、短くなったメモを見た。
全部、覚えたわけではなかった。
それでも、何を話すかは、前より分かった。
「すずさん」
『ん?』
「本番までに、もう一度、聞いてもらってもいいですか」
『もちろん。私のも、また見て』
「はい」
教えてもらうことと、手伝えることが、一回の通話に両方あった。
食事の席でした約束が、少しずつ、形になっていた。
*
最初の顔合わせから、もうすぐ八週間。
デビューの日は、すずさんが土曜日の夜九時。
僕は翌日の日曜日、夜八時に決まった。
時間を決めるとき、久我さんが前の資料を開いた。
「ほしなさんの配信と重ならない時間をご希望でしたね」
「……まだ書いてあるんですね」
「ご希望でしたので」
自分の初配信が決まった。推しの配信に間に合う時刻で。
事務所の告知に、音無せらの名前と立ち絵が載った。
これまで、確認用の画面でばかり見ていた女の子が、初配信の日付と一緒に並んでいた。
名前の文字を、指でなぞりそうになって、やめた。
触っても、何かが変わるわけではない。
もう、誰でも見られるところに出ていた。
金曜の夜、最後の確認を終えて、久我さんとの通話を切った。
音も、画面も、見てもらった。
自己紹介のメモも、直した。
ゲームは一戦。そのあとに話すことも、用意した。
スマートフォンには、すずさんから『明日、いってきます』と届いていた。
『見てます。楽しみにしてます』
返事をして、自分の予定画面へ戻る。
開始日時は、日曜日の二十時。
今から配信を始めるのではない。その日に向けた待機ページを、人から見えるようにする。
それだけなのに、カーソルを動かす手が、少しだけ遅くなった。
『公開する』。
僕は、ボタンを押した。
作成されたページを開く。
灰銀色の髪の女の子と、自分で考えた配信のタイトル。
その下には、まだ動いていないコメント欄があった。
いつも、始まるのを待っていた画面だった。
日曜日の二十時。
次にここで聞こえるのは、僕の声だった。




