【配信18.5日目】 今日のうれしい話は、まだ内緒 【星野夏希】
今回はメインストーリーではなく、夏希視点のサイドストーリーになります。
廊下の角を曲がってから、私は足を止めた。
さっき扉を開ける前に、直人の名前を呼んだ。
声は小さかった。廊下にいたスタッフのところまでは、たぶん聞こえていない。
そこまで考えて、自分の口元を手で覆う。
「……危なかった」
人前では、今日が初対面。
ついさっき、二人で決めたばかりだ。最初の一歩で転ぶところだった。
でも、久しぶりに名前を呼べた。
彼も、夏希、と返してくれた。
仕事で使う廊下の真ん中なのに、しばらく動きたくなかった。
「月乃さん、お話は終わりました?」
受付のほうから声を掛けられ、背筋を伸ばす。
「はい。お部屋、ありがとうございました」
「音無さん、緊張されていたみたいですね」
「最初は。でも、ゲームの話になったら、ちゃんと話してくれましたよ」
嘘ではない。
久我さんの前でも、二人だけになってからも、ゲームの話はした。
「それならよかったです。今日はこのあと、配信でしたよね」
「九時からです。帰って準備します!」
明るく答えて、受付を離れた。
今までなら、そのまま夜の段取りを考えていたと思う。
今日は歩きながら、ポケットの中のスマートフォンが気になった。
*
自分の部屋に帰り、鞄を置いた。
配信の準備をする前に、古い連絡先を開く。
今日の日付が、そこにあった。
『今日は、ありがとう』
『また話そうね』
自分で打った返事を、もう一度読む。
その上には、ずっと返事のなかったやり取りが残っている。
直人が急にいなくなったころ、最初は試合の予定が合わないだけだと思った。
それから、何か怒らせたのかもしれないと思った。何度か連絡して、返事が来ない日付だけが増えた。
今日、理由の全部を聞けたわけじゃない。
元気なのかくらい、知らせてほしかった。その気持ちだって、話せたからすぐに消えるわけではなかった。
でも、嫌いになったから離れたのではないと、直人は言った。
今も話していて大丈夫かと聞いたら、うれしい、と答えてくれた。
私は画面を閉じずに、ソファへ座った。
大学の練習室では、試合を一つ終えるたび、誰かが次の予定を聞いた。
直人が「もう一戦、できる?」と言うと、私はいつも、まだできると答えた。
ゲームを続けたかったのは本当だ。
隣の席から帰りたくなかったのも、本当だった。
あのころは、そういうことを一度も言わなかった。
今日だって、友達、と言うのが精いっぱいだった。
直人はほっとした顔をした。私も、またそう呼べることがうれしかった。
だけど、あの顔を見たあとで、自分の胸にあるものまで全部友達に戻ったとは、思えない。
「……一戦で終わるかな」
今度ゲームをするときのことを考えて、笑ってしまった。
大会のあと、私が二本勝って、直人が一本。
次は三本とも取ると宣言した。もちろん本気だ。
勝っても負けても、続きがあれば、もう少し話せる。
そんなことまで、昔と同じだった。
*
パソコンをつけ、今夜の配信の準備を始めた。
いつもなら、話したいことを先に三つ書く。
レッスンのこと。最近聴いた曲。今日の晩ご飯。
配信タイトルの欄に、指が勝手に別の言葉を打った。
【雑談】今日はすごくうれしいことがありました!
うん。あった。
それで、何があったか聞かれたら。
「……答えられない」
台本の一行目に『うれしいこと』と書き、その下へ『秘密』と書いた。
これでは開始一分で話が終わる。
配信タイトルと台本を消す。
最近のレッスンの話にしよう。あれなら、いくらでも喋れる。お腹がすいて途中で晩ご飯の話になっても、いつものことだ。
【雑談】最近のレッスンと夜ごはんの話
これでよし。
画面の中では、私は月乃ほしなだ。
ここまで自分で続けてきた歌も、配信も、いつも見に来てくれる人たちも、大切にしたい。
直人が見てくれていたと知ってうれしかったのは、その毎日のことまで聞いてくれたからだ。
会社から帰って私の配信を開いていたなんて、想像していなかった。
疲れた日の最後に一度は笑えた、と言ってくれた。
言われたとき、うまく返せなかった。次に会えたら、もう少しちゃんとお礼を言いたい。
でも、ほしなとして配信で話すことと、夏希として直人に話すことは、これからも分けておく。
スマートフォンを見た。
もう同期とのお店に着いただろうか。ご飯を食べていたら、今は邪魔をしたくない。
とりあえず、自分の晩ご飯を決めよう。
冷蔵庫を開けて、閉めた。
配信タイトルに書いてしまった以上、何か食べないと夜ごはんの話ができない。
「先に決めよ」
食べるものを選んで、またスマートフォンを見た。
用事がなくても送っていい、と言ってくれた。
それなら、帰るころに一つだけ聞こう。
今度は、返事が遅くても待てる。
少なくとも、直人の今夜がどこへ続くのかは、聞いてもいいのだから。
台本の続きを少し書いて、時計を見た。
お店を出るなら、そろそろだと思う。
スマートフォンを手に取って、短く打つ。
『もう帰れた?』
送信した。
昔の会話のいちばん下に、今日の新しい一行が増えた。
画面を伏せて、夕飯を温める。
返事が届くまでの時間にも、私には、話しかける相手がたくさんいる。
その中の一人と、配信が終わったあとにも話せる。
まだ誰にも言えない、今日いちばんうれしかったことだった。




