【配信18日目】 この話は、二人だけの秘密です 【白瀬直人/月乃ほしな】
「このお部屋は、あと三十分ほど使えますので」
久我さんが、壁の時計を見ながら言った。
「私はこのあと打ち合わせに入ります。お話が終わりましたら、受付にお声掛けください」
「はい。ありがとうございます」
夏希が、少しだけ頭を下げた。
僕も遅れて、同じようにした。
「音無さん、今日はお疲れさまでした。お渡しした資料は、帰ってからで大丈夫ですからね」
「……はい。お疲れさまでした」
久我さんは普段どおりの声でそう言って、部屋を出ていった。
扉が閉まった。
最後に小さく鳴った音まで聞こえなくなってから、僕は、もう一度、机の向こうを見た。
*
二人になったら、何を言おう。
そう考える時間は、さっきまであったはずだった。
今はもう、二人きりだった。
「……ほしな、さん」
つい、口から出た。
彼女の眉が、少し下がった。
まずい。違う。今は、たぶん。
「直人」
先に、呼ばれた。
さっきの挨拶よりも、少し低い声だった。
すぐそばにいる人へ話しかける、静かな声。
胸の奥が、ぎゅっと縮んだ。
「……夏希」
「うん」
唇がゆっくりと緩んだ。
「久しぶり」
「……うん。久しぶり」
それだけ言って、また、言葉がなくなった。
何年も会っていなかった。
それなのに、昨夜も声を聞いていた。
自分の中で、その二つが、まだうまく一緒にならない。
「本当に、夏希なんだ」
「私も、今、同じこと思ってた」
彼女は僕を見て、それから、僕の手元へ目を落とした。
「……座ろっか」
「あ」
室内用の靴を入れた袋を、ずっと握っていた。
慌てて椅子を引く。
袋を足元へ置いて、机を挟んで向かい合うと、ようやく、少しだけ息ができた。
近くで見ると、昔より、大人っぽかった。
けれど、髪を耳へ掛けたあと、その先を指で一度だけ整える仕草には、見覚えがあった。
こんなところまで、覚えているんだなと思った。
「いつから、分かってたの?」
聞くと、夏希は少し考えた。
「大会の、最後のほう。もしかして、って」
「ゲームだけで?」
「小屋の左から、一回だけ顔を出したでしょ」
あの、小さな小屋。
左を見せて、相手の注意をそちらへ引いたつもりだった。
「次は右かなって思って、そっちを見たら、本当に来たから」
「……だから、あそこに照準があったんだ」
「うん」
思い出すだけで、肩のあたりが痛くなりそうだった。
顔を出した瞬間に撃たれて、慌てて壁の裏へ戻った。
こっちの動きを、前から知っているみたいに。
本当に、知っていたのか。
「もう少し、優しく確認してほしかった」
「試合中だったから」
そこは、即答だった。
そういうところも、変わっていなかった。
「そのあと、通話で声を聞いて。たぶん、そうだと思った。でも、違ったらどうしようって」
「それで、言わなかったの?」
「それもあるし……急に昔の名前で呼んで、通話、切られたら嫌だったから」
僕は、膝の上で、指を組み直した。
返せる言葉が、すぐには見つからなかった。
夏希は、そこで一度、息をついた。
「だから、今日、顔を見て。やっと、ちゃんと分かった」
まっすぐに、目が合った。
「来てくれて、よかった」
大会が終わったあとにも、聞いた言葉だった。
あのとき、少しだけ間が空いた理由を、今になって考えた。
「僕は、全然、気づかなかった」
「うん。そんな感じだった」
「声も、ずっと聞いてたのに」
言ってから、夏希の顔を見た。
名前を呼ばれたときの声なら、知っている気がした。
モニターを見たまま、隣へ何かを頼むときの声。夜の練習室で、他の人を起こさないように笑ったときの声。
「……今の声なら、分かる気がする」
「配信のとき、ちょっと違う?」
「うん」
夏希は、すっと背筋を伸ばした。
「みんな、聞こえてるー?」
「あ、いつもの」
反射で答えていた。
夏希が、ふっと吹き出す。
僕も、少しだけ笑った。
たったそれだけで、目の前の顔と、毎晩聞いていた声が、ようやく同じ人のものになった気がした。
月乃ほしな。
星野夏希。
頭の中で、二つの名前をゆっくりと読んでみる。
ほしの、なつき。
つきの、ほしな。
「……名前」
「あ、気づいた?」
「今、ようやく」
毎晩のように見ていた名前だった。
一度でも、並べて考えてみれば。
「せらちゃんも、そうでしょ」
夏希が、僕の名札を指した。
「さっき、それ見て、あっ、て思った」
「僕のほうは、すぐ分かったんだ」
「だって、直人の名前は知ってるもん」
僕だって、知っていた。
少なくとも、知らなかったから気づけなかった、とは言えなくなった。
「配信って、いつごろから見てくれてたの?」
夏希が聞いた。
「通話のときにも、見てるって言ってくれたけど」
「大学の、家にいる時間が長かったころ。最初は、おすすめに出てきて」
「そんなに前から?」
「うん」
「……そっか」
夏希は、机の上で指先を重ねた。
ちょっとだけ、うれしそうに見えた。
それを見て、僕のほうが、目をそらしたくなった。
「今も、見てる?」
「見られるときは」
「休みの日とか?」
「うん」
「仕事の日は?」
「帰ってから」
「……残業の日は?」
「途中から」
夏希が、ゆっくりと瞬きをした。
「見られるときって、ほぼ全部じゃない?」
「見逃す日もあるよ」
「そっか」
「アーカイブで見るから」
「逃してないじゃん!」
あ。
思ったより、見ていることが伝わった。
別に、隠すことでもない。ファンなのだから。
ただ、そのファンである相手が、昔から知っている女の子の顔で、僕の向かいに座っている。
それは、ちょっと、話が違った。
「……ごめん。なんか、恥ずかしいね」
先に言ったのは、夏希だった。
「それ、僕が言おうと思ってた」
「私だって。ほら、ゲーム以外の配信も、いろいろやってるし」
「雑談も、好きだよ」
そこは、考えるより先に答えていた。
夏希が、こちらを見た。
「疲れて帰ってきても、何も考えずに見られるから。晩ご飯を食べながら、今日は何があったんだろうって聞いて」
話しているうちに、いつもの部屋が浮かんだ。
仕事用の鞄を置く場所。
着替えながら押す、配信の通知。
その日あった、うまくいかなかったことが、声を聞いている間だけ、少し遠くなる。
「配信が終わるころには、一回は笑えてたから」
夏希が、黙った。
「それで、じゃあ、明日も会社行くかって。……そんな感じで、ずっと見てた」
言い終わってから、喉が急に乾いた。
普段、思っていることだった。
画面の向こうの月乃ほしなへなら、いつかコメントに書けたかもしれない。
今、僕が話したのは、目の前の夏希だった。
彼女は、カーディガンの袖口を少し引いた。
「……ちょっと待って」
「何か、変なこと言った?」
「言ってない。言ってないけど」
目が合って、すぐに、彼女の視線が机へ落ちた。
耳のあたりが、少し赤かった。
「こういうとき、コメント欄がないと困るね」
「え?」
「誰も次の話題くれない」
僕まで、机を見た。
当然だけれど、何も流れてこなかった。
二人で、しばらく黙った。
やがて、夏希が小さく笑った。
「……ありがとう。見てくれてて」
「うん。こちらこそ」
それ以上言うと、また、お互いに顔を上げられなくなりそうだった。
*
少し落ち着いてから、僕は、膝に置いた手を見た。
今なら、話せる気がした。
言わないまま、ここを出てはいけないことがあった。
「夏希」
「うん?」
「連絡、返さなくなって、ごめん」
椅子の背から、身体を少し離した。
「何も言わないで、急に。ずっと、そのままにして」
彼女の指が、袖口から離れた。
「……最初、私、何かしたのかなって思った」
「違う。それは、絶対に違う」
思ったより、強い声が出た。
夏希が、わずかに目を開く。
僕は、息を整えてから、続きを言った。
「夏希が何かしたとか、そういうのは、一度もない。僕のほうで、いろいろ、分からなくなって」
あのころ、僕は、知っていた日本とは違う日本へ来てしまった。
通っていた大学も、住んでいた部屋も変わらない。けれど、この世界では、男一人に対して女が九人いる。それが、昔から当たり前だった。
昨日まで男だった友達の半分以上が、女の子になっていた。僕への話し方や距離は同じなのに、顔も声も、記憶と違う。昔の写真を開いても、そこに写っているのは、今の彼女たちだった。
変わる前を覚えているのは、僕だけだった。
確かめるものを増やすほど、間違っているのは僕のほうなのではないかと、思えてきた。
夏希は、前から女の子だった。写真の中の彼女は、僕の覚えているままだった。
それでも、夏希と話せば大丈夫だとは思えなかった。
「あのとき、みんなで」と同じ思い出を話したとして、その「みんな」には、僕と彼女で違う顔が浮かぶのかもしれない。好きだった人とまで、その食い違いを確かめるのが怖かった。
机の向こうで、夏希は、僕の言葉の続きを待っている。
今でも、別の世界から来たのだと説明する勇気はない。でも、彼女を嫌いになって離れたわけではないことだけは、伝えたかった。
「人と話す余裕がなくなって。連絡が来ても、何て返したらいいか分からなくて。……そのまま、時間が経つほど、もっと返せなくなった」
夏希は、途中で口を挟まなかった。
最後まで聞いてから、静かに尋ねた。
「何があったかは、まだ、話しにくい?」
「……うん。どう話したらいいのか、分からない」
「そっか」
机の端へ目を落として、彼女は一度だけ頷いた。
「元気なのかは、知りたかった」
「……ごめん」
「うん」
すぐに、気にしなくていいとは言われなかった。
だから、今度は、目をそらさずに聞こうと思った。
「また、返事できなくなったら、今は無理って、それだけでも送って」
「うん」
「それも大変なときは、遅くなってもいいから」
「……分かった」
何でも話すと、約束することはできなかった。
でも、何も返さずにいることとは、違う。
今は無理だと、伝えてもいい。
その言葉を、覚えておこうと思った。
「今は?」
夏希が聞いた。
「こうやって話してても、大丈夫?」
「うん」
今度は、すぐに答えられた。
「話せて、うれしい」
夏希の肩が、少しだけ下がった。
「……私も」
そこから先は、どちらも、言わなかった。
言えなかったことなら、大学のころから、あった。
隣でゲームをしているだけで十分だと思った日も、そのあと、もっと何か言えばよかったと思った日も。
今、向かいの席で笑う夏希を見ていると、そのころの自分が、少しも遠くなかった。
「ねえ。久我さんには、私と知り合いだって……言えるわけないか。さっき、分かったんだもんね」
「うん」
「私も、まだ、何も言ってない。大会で話したことくらい」
夏希は、少し声を落とした。
「昔のこと、話さないほうがいい?」
僕は、胸元の名札を見た。
音無せら。
ついさっきまで、この名前で呼ばれるだけでも、不思議な気がしていた。
「……今は、そうしてもらえると、助かる」
隠してほしいと頼むのは、身勝手かもしれない。
それでも、曖昧に頷くだけには、したくなかった。
「男だってことは、社長と久我さんには話した。でも、昔のチームのこととか、NILだったことまでは、話してないんだ」
「うん」
「大学で一緒だったって話したら、そのころのことも聞かれると思う。何でやめたのかとか、今まで何をしてたのかとか」
まだ、答えられないことが、いくつもあった。
夏希にさえ、全部は話せていない。
「まずは、音無せらとして、やることを覚えたい。今日、初めてレッスンを受けて……それだけでも、結構、いっぱいだったから」
「そっか」
夏希は、僕の名札へ目を落としてから、頷いた。
「分かった。じゃあ、他の人がいるところでは、今日が初対面」
「ありがとう」
「でも」
彼女の視線が、戻ってきた。
「二人のときは、普通に話していいんだよね?」
「……うん。そうしてもらえたら、うれしい」
「直人って、呼んでも?」
名前を聞いただけで、胸が忙しくなった。
「うん。僕も、夏希って呼んでいい?」
「もちろん」
即答してから、夏希は少しだけ、唇を結んだ。
「……じゃあ、秘密の友達、だね」
友達。
その言葉に、ほっとした。
もう一度、そう呼んでもらえることが、うれしかった。
その先まで欲しくなる気持ちは、今は、胸の奥へ置いておく。
「仕事のときは、先輩と後輩で」
僕が言うと、夏希は、ちょっとだけ背筋を伸ばした。
「そうだよ。私、先輩だから」
知っている。
登録者が二百万人を超えていて、ゲームも歌も、たくさんの人の前で披露している。
僕が、その人と同じ事務所に入ったのだ。
「分からないことがあったら、聞いていい?」
「もちろん」
「今日、資料だけでも、結構もらって」
「……契約とか、手続きは、久我さんに聞こうね」
頼れる先輩からの、一つ目の助言だった。
少なくとも、間違いはなさそうだった。
「そうだ。直人、前の連絡先って、まだ使ってる?」
「残ってるよ」
僕は、スマートフォンを取り出した。
アプリのアイコンは、ずっと、同じ場所にあった。
画面を開く。
夏希の名前を探すのに、少し時間がかかった。
見つけて、指を止めた。
古い日付の下に、彼女からの短いメッセージが残っていた。
僕の返事は、その下になかった。
「……あった」
「私、変えてないから。たぶん、それで届くと思う」
文字を入力する。
何度か消して、結局、短い文になった。
『今日は、ありがとう』
送信を押した。
向かい側で、夏希のスマートフォンが震えた。
「今、言ってくれてもいいのに」
画面を見ながら、夏希が笑った。
「……返せてなかったから」
笑い声が、少しだけ小さくなった。
彼女は画面に指を滑らせた。
今度は、僕の手の中で、スマートフォンが震えた。
『また話そうね』
古い会話の続きに、今日の日付が増えた。
僕は、その短い一文を、しばらく見ていた。
「お仕事の連絡は、事務所のほうでするとして」
夏希が、自分の画面を指した。
「こっちは、用事なくても送っていい?」
「うん」
「今日、これ食べた、とか」
「うん。そういうので、いいよ」
そういうのが、よかった。
会わなかった間の全部を、今日中に埋めることはできない。
でも、今日の晩ご飯の話なら、できる。
それを聞いて、僕も何か返すことができる。
画面の上に、新人用の連絡先から通知が出た。
店の場所が届いていた。
時計を見ると、久我さんが言っていた時間まで、もう、あまりなかった。
「このあと、同期のみんなと、ご飯に行く約束をしてて」
「あ、そうなんだ。じゃあ、行かないと」
夏希も時計を見た。
「私も、配信の準備しなきゃ」
椅子を引く音が、二つ重なった。
僕は足元から袋を持ち上げた。
「直人」
扉へ向かいかけて、振り返る。
「また、ゲームしようね。配信じゃないときに」
「うん」
「今度は、三本、全部取るから」
大会のあとの一対一では、僕が一本、夏希が二本。
あれで満足するつもりは、ないらしい。
「……僕も、次は勝ちたい」
言うと、夏希は楽しそうに笑った。
ああ、この顔だ。
僕はまた、見てしまった。
「じゃあ、予定、あとで送るね」
「うん。待ってる」
扉の前で、彼女が一度、足を止めた。
僕の名札を見て、少しだけ、声を明るくする。
「今日は来てくれてありがとう、せらちゃん」
急に、事務所の先輩になった。
僕も背筋を伸ばした。
「こちらこそ。……ほしな先輩」
呼んでから、お互いの顔を見た。
夏希の口元が、わずかに緩む。
つられて笑いそうになって、僕は、一度だけ下を向いた。
扉を開ける前で、よかった。
「……またね、直人」
最後に、静かな声で呼ばれた。
「またね、夏希」
今度は、僕も、名前を返せた。
廊下へ出ると、少し先に、資料を抱えたスタッフの姿があった。
夏希はいつもの明るい声で挨拶をして、僕も頭を下げた。
誰も、僕たちが昔から知り合いだったことを知らない。
ポケットの中には、さっき届いたメッセージがある。
また、話していい。
その短い約束を持って、僕は、同期たちの待つ店へ向かった。
何を食べるかより先に、あとで夏希へ何を送ろうかと考えていた。




