【配信17日目】 推しと初対面。……はじめまして? 【音無せら/月乃ほしな/四季野すず/久我】
「何か、歌い慣れている曲はありますか」
身体をほぐしたあと、先生は電子ピアノの前へ座った。
順番に短く歌って、今の声を聞いてもらうらしい。
「ほしなさんの曲なら、覚えています」
「どの曲にしましょうか」
考えた。
昨日聞いた曲。一昨日、帰り道に聞いた曲。その前の配信で、本人が歌っていた曲。
「……だいたい、どれでも」
隣で、すずさんがこちらを向いた。
言ってから、少し答え方を間違えた気がした。
「上手に歌えるという意味ではなくて、歌詞を覚えているというか」
「うん。好きなんだなって思っただけ」
訂正したところまで、全部含めて伝わっていた。
先生は笑って、『きみ待ちステップ』の歌詞を用意してくれた。
「では、この曲の最初から。途中までで大丈夫ですよ」
知っている曲だった。
それなのに、鍵盤から出てきた前奏は、いつもよりずっと短く感じた。
歌い出しは合った。
次の言葉も、ちゃんと出た。
その次の、少し長いところで、急に息が足りなくなった。
あと二文字。
知っている。何の言葉かも、どう歌うかも。
その二文字が、やけに遠かった。
なんとか最後まで伸ばしたところで、伴奏が止まった。
「ありがとうございます。声、きれいですね」
「……ありがとうございます」
「途中、苦しくなりました?」
「最後の方が、少し」
「ここで一度、息を吸ってみましょう。つなげようとしなくて大丈夫です」
先生の指が、歌詞の途中を示した。
そこに、小さく線を引く。
ほしなが歌っている時、ここで息を吸っていたかどうか、僕は覚えていなかった。
歌詞は知っていた。
振りも、画面で何度も見ていた。
自分がどこで息をするかは、今日、初めて考えた。
「もう一度、今のところだけ。肩も、少し楽にして」
背筋を伸ばし直すと、先生が小さく首を振った。
「そこまで頑張らなくていいですよ」
姿勢をよくしようとした分を、少し戻す。
鍵盤が鳴った。
さっき線を引いたところで、息を吸う。
今度は、最後の二文字まで届いた。
歌い終わると、すずさんが膝の上で小さく手を叩いた。
「最後まで聞こえた」
「はい。今の方が、出しやすかったです」
僕は歌詞の線を、もう一度見た。
知っている曲の中に、自分のための印が一つできていた。
*
すずさんの番になると、部屋の音が変わった。
声が大きい、というだけではなかった。
鍵盤の音に重なっても、言葉の終わりまで、はっきり聞こえる。
先生の伴奏に合わせて、すずさんの足先が少し動いた。歌っている間も、さっき隣で話していた時の表情が残っていた。
楽しそうだった。
僕は、手元の歌詞を見るのを忘れた。
短い歌が終わる。
先生がいくつか話すのを聞いてから、すずさんはこちらへ戻ってきた。
「どうだった?」
「すごかったです」
言ってから、これでは何も伝わらないと思った。
「聞いていて、歌詞がちゃんと分かりました。楽しそうなのも」
「ほんと?」
すずさんの目元が、少し緩んだ。
「よかった。最初、声が小さくなりそうだったから」
「そうだったんですか」
「うん。でも、せらちゃんが聞いてるのが見えて、ちょっと安心した」
「僕、見ているだけでしたけど」
「最後まで聞いてくれたでしょ。あれ、うれしかった」
彼女は自分の歌詞の紙を、膝の上で揃えた。
その端が、少しだけ曲がっていた。
歌う前、僕が自分の紙を持ち直していた時、彼女も同じように緊張していたのかもしれない。
「次は、もうちょっと顔を上げて歌いたいな」
そう言って、すずさんは先生の方へ向き直った。
できる人にも、次に練習したいことがあった。
僕は、息継ぎの印をつけた紙を、折れないように置いた。
*
休憩を挟み、今度はダンスの先生が前へ立った。
最初に習うのは、短い八拍分の動きだった。
右へ一歩。足を揃える。
左へ一歩。揃える。
それを、もう一度。
「まずは足だけで、やってみましょう」
できた。
鏡に映る自分を見ながら、もう一度やってみる。
できた。
そこに手がついた。
できなくなった。
最後の二拍で、両手を斜め上へ開く。
それだけなのに、手を上げた瞬間、足が止まった。
隣のすずさんは足を揃えて、すっと元の位置へ戻っている。
僕だけが、両手を上げたまま取り残されていた。
「音無さん、そこで終わりじゃないですよ」
「はい」
腕を下ろし、位置へ戻る。
終わりにしたつもりはなかった。
足への連絡が途切れただけだった。
「足は、さっきできていた動きで大丈夫です。手をつける時も、リズムを続けてみましょう」
先生が、ゆっくり数える。
右。揃える。左。揃える。
次の右。
ここまでは合っている。
その次。
手を上げる方を考えたら、足を揃えるのが遅れた。
遅れた足を戻すために、下を見る。
「そう。お顔も、少し上げられるといいですね」
顔。
まだあった。
「表情までできると、もっとよくなります」
鏡を見た。
そこには、極めて真剣な顔で、間違った場所に立っている人がいた。
「すみません」
「はい」
「笑顔は、足が戻ってからでもいいですか」
先生が口元を押さえた。
隣からも、こらえ損ねた声がした。
「はい。順番にいきましょう」
「ありがとうございます」
「せらちゃん、交渉しないで」
すずさんは、笑いながら目尻を拭いていた。
「全部は、まだ難しくて」
「分かるけど。そんなにちゃんとお願いすると思わなかった」
自分でも、おかしくなって笑った。
先生がこちらを指した。
「表情は、今のでいいです」
踊っていない間に、一つだけ合格をもらった。
*
音楽が止まり、各自で少し確かめる時間になった。
ほかの新人たちも、鏡を見たり、隣の人と数えたりしている。
僕は床のテープのそばで、自分の靴を見下ろしていた。
頭では、どこへ動くか分かっている。
先生がやれば、違いも分かる。
それを自分でやると、覚えた順に動かすだけで精いっぱいになった。
ゲームなら、見てから指を動かせる。
今日は、その先に肘も膝もあった。
「最後のところ、もう一回やる?」
すずさんが隣へ来た。
「あ、大丈夫で――」
言いかけて、自分の足を見た。
大丈夫だったところは、さっきまでだ。
「……すみません。手を上げるところ、見てもらってもいいですか」
「うん。私、横でやるね」
すずさんは僕と同じ方を向いた。
鏡の中で、二人が並ぶ。
「最初は、手を上げなくていいから」
「はい」
「最後まで足だけ。私が上げるところ、見てて」
彼女が、小さく数え始めた。
右。揃える。
左。揃える。
もう一度、右。
すずさんの手が、最後の一歩と一緒に上がった。
僕の足も止まらずに、元の幅へ戻った。
「ここですか」
「そう、今のところ。止まってから上げるんじゃなくて、一緒」
僕は、さっきの自分を思い出した。
足を間違えないようにと考えて、一歩ずつ確かめていた。その確認が終わってから、手を動かそうとしていた。
それでは、間に合わない。
「一度、ゆっくりやってもいいですか」
「もちろん」
すずさんの数える声が、遅くなった。
歩幅を小さくする。
手を上げる一歩の、少し前から準備する。
左へ出るのと一緒に、腕を開いた。
足を寄せた。
両方、動いた。
「そう!」
すずさんの声が近くで弾んだ。
つられて横を見ると、彼女も両手を上げていた。
鏡に映った形は、まだ、だいぶ違っていた。
僕の肘は少し曲がっているし、開いた足の幅も狭い。
でも、途中で止まらなかった。
「今、最後の足も揃ったね」
「はい」
「もう一回、できそう?」
「……やってみたいです」
すずさんが頷いて、腕を下ろした。
教えてもらったばかりの動きを、同じ速さでもう一度。
今度も、最後までいけた。
先生の見回りが僕たちのところへ来る。
「よくなりましたね。次は、音に合わせてみましょう」
音楽が戻ると、また少し遅れた。
それでも、どこで遅れたかは分かった。
次は、手の準備をもう少し早くする。
うまくいかないところに、次に試すことができた。
*
終わった頃には、壁際に置いていた水が半分以下になっていた。
タオルを首へ当てて、息を整える。
鏡の中の僕は、朝より少しくたびれていた。
何時間か前まで、終わったあとに推しと会うことばかり考えていた。今は、その前にシャツを着替えられるのがありがたかった。
「お疲れさま」
すずさんが、自分の水を取りに来た。
「お疲れさまでした。教えてくれて、ありがとうございます」
「ううん。最後、一緒にできてよかった」
彼女は水を飲んで、ふたを閉めた。
「歌とダンス、どっちが難しかった?」
「ダンスです」
「即答だった」
「歌は、少なくとも立っている場所は合っていたので」
すずさんが、また笑った。
それから、自分が使った歌詞の紙を鞄へ入れた。
「ゲームの時は、私の方がいっぱい聞くと思う」
「はい。僕で分かることなら」
「手と足が止まっても?」
「ゲームなら、足は止めていて大丈夫です」
「そっか。私、それは得意かも」
鞄を持ち上げた彼女に、僕は床を指した。
「タオル、落ちています」
「あっ、ありがとう。ちゃんと持ってきたのに、ここで忘れるところだった」
すずさんが拾って、鞄へしまう。
僕も歌詞と水を袋へ入れた。
帰ってから見る紙が、仕事以外で増えていた。
部屋の入口から、久我さんの声がした。
「音無さん。お着替えが済んだら、ご案内できます」
「……はい」
返事が、少し遅れた。
すずさんがこちらを見る。
「いよいよだね」
さっきまで、手と足のことでいっぱいだった。
空いたところへ、予定の続きが一度に戻ってきた。
ほしなに会う。
今日のレッスンは、その前にあったのだった。
「私たち、着替えたら先にお店へ行ってるね。グループにも送っとく」
「分かりました。終わったら、連絡します」
「うん。いってらっしゃい」
すずさんが手を振った。
僕も小さく振り返して、個別の着替え部屋へ向かった。
*
シャツのボタンを留めるのに、いつもより時間がかかった。
指が疲れているわけではなかった。
姿見を見て、襟を直す。
直したあとで、もう一度見た。
朝と同じ服だった。
特別なものは着てこなかったし、今から変えることもできない。
せめて、前髪が変な方へ向いていないか確かめた。
机の上には、Tシャツから外した『音無せら』の名札があった。
それを、シャツの胸元へつけ直す。
会ったら、何を言おう。
この間は、ありがとうございました。
今日から、お世話になります。
これからも、配信を楽しみにしています。
最後の一つが、少し違う気がした。
楽しみにしているのは本当だけれど、これからは同じ事務所で活動する側でもある。
先輩として、どう挨拶するのがいいのだろう。
決めきれないまま、荷物をまとめた。
廊下では、久我さんが待っていた。
「体調は大丈夫ですか」
「はい。思っていたより、身体を使いました」
「初日ですから、今日は帰ったらゆっくり休んでくださいね」
歩きながら、久我さんが予定を確かめる。
「このあと、月乃さんとお話ししていただいて、その後は皆さんのお食事へ。お荷物は、お部屋に持って入って大丈夫です」
「分かりました」
手元の袋を持ち直す。
室内用の靴も、タオルも、もう役目を終えていた。
これから会う人は、画面の中にいない。
夜空色の髪も、三日月の髪飾りも、たぶん、今日はついていない。
どんな顔をして、どんな服を着て、いつもあの声を出しているのだろう。
考えようとしても、思い浮かぶのは、配信で見慣れたほしなの笑顔だった。
素顔を知っている人は、僕よりずっと前からいる。
これまで一緒に仕事をしてきた人たちには、それが普通のことなのだ。
その普通の中へ、自分も入っていく。
楽しみだった。
ただ、胸の奥が落ち着かなくて、歩く速さを久我さんに合わせることばかり気にしていた。
廊下を曲がったところで、久我さんが足を止めた。
「こちらです」
扉を、軽く叩く。
「お待たせしました。音無さんをお連れしました」
「はい。どうぞ」
扉の向こうから、声がした。
ヘッドホンも、スピーカーも通っていない声だった。
返事をする準備もないのに、背中が伸びた。
久我さんが扉を開ける。
「失礼します」
彼女に続いて、僕も部屋へ入った。
「こちらが、月乃ほしなさんです」
机の向こうにいた女性が、立ち上がった。
明るい色のブラウスに、薄手のカーディガン。
肩から流れた髪を耳へ掛けて、こちらを見た。
目が合った。
知っている顔だった。
配信で見たことのない顔を、僕は知っていた。
隣の椅子が寄ってきた時。
二台並べたモニターの、向こう側を指していた時。
勝ったあと、僕より先にヘッドセットを外して笑った時。
何度も、見ていた。
「……えっ」
声が出た。
彼女の唇も、わずかに開いた。
目が、少し大きくなった。
星野夏希だった。
何年も会わずにいた、昔のチームメンバー。
隣に座るだけで、話の続きを一度聞き逃してしまうくらい、好きだった人。
その人が、机を挟んだすぐ向こうにいた。
夏希。
名前が声になる前に、彼女が小さく息を吸った。
「……はじめまして。月乃ほしなです」
明るい声だった。
仕事から帰って、毎晩のように聞いていた声。
大会で、僕の名前を呼んでくれた声。
それが、見覚えのある唇から出ていた。
ほしな。
夏希が。
頭の中で、別々だった二人の姿が重なった。
彼女は胸元の名札へ目を落とし、すぐに僕の顔へ戻した。
笑っていた。
けれど、机の端へ添えた指は、そこで止まっていた。
「音無さん、緊張されますよね。ゆっくりで大丈夫ですよ」
久我さんの声がした。
僕は、ようやく隣に人がいることを思い出した。
紹介してもらったばかりなのに、まだ、挨拶を返せていなかった。
夏希は、僕を見ていた。
その視線から、目をそらせなかった。
会いたかった。
会えたら何を言えばいいのか分からなくて、ずっと会わずにいた。
今日、その人に会うために、僕はここへ来ていた。
知らないまま。
口の中に残っていた名前を、飲み込んだ。
胸元の『音無せら』に、一度だけ指を触れた。
少しだけ、頭を下げる。
「……はじめまして。音無せらです」




