【配信13日目】 男です。設定じゃなくて、本当に男です 【白瀬直人/久我/榊】
「ありがとうございます」
口が、勝手に動いた。
褒められたら、まずお礼。
会社で身についたものが、いま一番いらないところで働いた。
「では、今後のご案内を――」
「待ってください」
久我さんが開きかけたファイルの前で、僕は両手を上げた。
「今のは、お礼です」
「はい」
「お返事では、なくて」
説明が難しい。
受かったことを喜ばれている横で、受かると困る理由を、もう一度探している。
いや、探す必要はなかった。
その理由は、机の上にある。
「先に、書類を見ていただけますか」
今度は、最後まで言った。
久我さんが頷く。
「失礼しました。そうでしたね」
榊さんの横から、紙が引き寄せられた。
裏返っていた書類が、ようやく表になる。
僕は、膝の上で手を揃えた。
久我さんは上から順に目を通し、途中で止まった。
それから、机のペンを取る。
「こちら、性別の欄が男性になっていますので、訂正を――」
「訂正しなくて大丈夫です」
ペン先が、紙の手前で止まった。
「……入力のお間違いでは?」
「合っています」
久我さんが、僕を見る。
困ったように、少しだけ眉を寄せた。
「こちらは、ご本人の情報をご記入いただく書類です。活動上の設定とは、別になりますので」
「はい。全部、僕のことを書きました」
氏名も、年齢も、勤めている会社も。
性別の欄だけ、急に創作が始まるわけではない。
久我さんはペンを置き、もう一度、上から読んだ。
今度は、指で一つずつ追っている。
「設定じゃない?」
横から覗いていた榊さんが言った。
「違います」
「男の子のキャラクターで活動したい、ということでもなく?」
「その前に、僕が男なんです」
榊さんが、僕の顔を見る。
久我さんも、僕の顔を見る。
二人とも、書類を見ていた時より、話が分からなくなった顔をした。
「……今のお声は、普段も?」
久我さんが訊いた。
「はい。会社でも、この声です」
「ずっと?」
「ずっとです」
榊さんが、卓上のマイクへ目をやった。
次に、もう使っていない歌のマイクを見る。
両方とも、そちらで用意したものだった。
僕が何か仕込める余地は、なかったと思う。
「だって、さっき歌っていた時も」
「僕です」
「そうなんだけど」
榊さんが、珍しく言葉に詰まった。
久我さんはタブレットを手に取り、画面を何度か動かした。
「あの。面談のご案内への返信にも、書いていただいていましたか」
「はい」
画面を動かす指が止まる。
見つかったらしい。
「応募資格についてご相談したい、というのは……」
「男なので、対象外だと思って。その説明をして、お断りするつもりで来ました」
久我さんは、タブレットを机へ置いた。
榊さんは、まだ僕を見ていた。
「そのために、来たの?」
「はい」
「じゃあ、さっきの紹介は」
「頼まれたので」
「お芝居も?」
「やったら、書類を見てもらえると」
榊さんの目が、手元の紙へ落ちた。
僕は、もう一つ付け足した。
「歌も、そうです」
空調の音が、急によく聞こえた。
久我さんの前には、発表の時間を測ったタイマーがあった。
榊さんの横には、さっきのお芝居の台本。
二人とも、その辺りを一度ずつ見た。
男性だと説明するために、一枚資料を作り、宿を営み、一曲歌っていた。
改めて考えると、ずいぶん遠回りだった。
「……それは、私がお願いしましたね」
榊さんが言った。
「はい」
久我さんが、最初に取ったペンを元の位置へ戻した。
訂正されかけていた男性の二文字は、そのまま残った。
「ご申告は、実際の性別ということで……承知しました」
そこまで言ってから、久我さんはまた僕を見た。
目が合うと、小さく息を整える。
書類を読む時の顔と、僕を見る時の顔が、まだ少し違った。
榊さんは頬へ手を当てたまま、ゆっくり頷いている。
「そう。……男性、なのね」
僕も頷いた。
これ以上の返事は、思いつかなかった。
「申し訳ありませんでした」
先に頭を下げたのは、久我さんだった。
「何度もお伝えいただいていたのに、こちらの思い込みで」
「いえ。僕も、こういう声なので」
「それは――」
久我さんは言いかけて、自分の手元を見た。
さっきまで、間違いを直すつもりでいた紙だった。
「白瀬さんが謝ることでは、ありません」
榊さんも、こちらへ向き直る。
「ごめんなさい。男の子の設定を押し通す、面白い子だと思っていたの」
僕は、ただの男だった。
押し通すまでもなく、最初から。
伝わった。
ようやく、話の出発点に戻れた。
肩から力が抜ける。
これで、今回の招待についても、事情を分かってもらえるはずだった。
「それなら、合格のお話は――」
「私は、取り消すつもりはないけれど」
抜けた力が、戻ってきた。
戻る場所を間違えたみたいに、肩だけが上がる。
「でも、女性限定ですよね」
「通常の募集はね」
先を続けようとした榊さんへ、久我さんが顔を向けた。
「社長。白瀬さんには、通常の募集条件しかご案内していません。そこからご説明をお願いします」
僕は、久我さんを見た。
それから、榊さんを見る。
「……社長?」
「あ。まだ名刺をお渡ししてなかったわね」
榊さんは、脇に置いていたケースを開いた。
一枚の名刺が、こちらへ差し出される。
PRISM NOTE。
代表取締役 榊真帆。
書類を読む順番が変わるだけで、今日はいろいろなことが分かる。
僕は慌てて両手で受け取った。
「存じ上げず、失礼しました」
「そんなに固くならなくていいのよ」
「先に、教えていただければ」
「その方が、緊張しなかった?」
考えた。
たぶん、緊張した。
でも、今から直前の三十分を思い返すのも、かなりつらかった。
榊さんの上に相談する人がいるなら、そこへ話してもらおうと思っていた。
もう、本人だった。
*
久我さんが、別のファイルを閉じた。
用意されていた入所の案内は、いったん横へ置かれる。
「改めて、ご説明します」
その言い方に、少しだけ安心した。
少なくとも、さっきの続きをそのまま進めるわけではないらしい。
「大会でお渡ししたのは、最終審査へのご案内です。今日のお礼を、所属のお返事として扱うことはありません」
「はい」
「また、通常の応募資格に当てはまらないことも、確認できました」
そこまで聞いて、僕は頷いた。
久我さんの隣で、榊さんが続ける。
「そのうえで、私から、うちで活動してみないかとお誘いしたいの」
話が、一周した。
入口の看板を確認している間に、横の扉を開けられた気がした。
「……そういうことが、できるんですか」
「個別にお声がけする形ね。私が責任を持って進めます。契約や活動の条件は、担当と相談して」
「相談してから、です」
久我さんが、短く添えた。
「うん。そこを今、一緒に考えているのよ」
榊さんは、まったく悪びれなかった。
久我さんも、驚かない。
この二人には、普段からこういう順番があるらしかった。
「何か、不安なことは?」
「多いです」
答えは、すぐに出た。
榊さんが小さく笑う。
「じゃあ、一つずつ聞かせて」
僕は名刺を見てから、顔を上げた。
「そもそも、どうして僕なんでしょうか」
大会には勝った。
それは、うれしかった。
けれど、配信をしたことはない。
さっきの歌だって、知っている曲だったから、最後までついていけただけだ。
「ゲームなら、もっと上手な人もいます」
「いるでしょうね」
あっさり認められた。
「歌も、話すのも、上手な人はいる。だから、全部で一番の人を探していたら、なかなか決められないの」
榊さんは、閉じたノートパソコンへ手を置いた。
「私は、白瀬さんが誰かと話している続きを、もう少し見たいと思った」
褒められたらしいことは、分かった。
どこを褒められたのかは、まだ分からなかった。
「僕、そんなに面白いことは」
「考えて言っていたわけではないでしょうね」
また、認められた。
採用の理由を聞いているのに、自分の得意なものが減っていく。
久我さんが、手元のメモを少し見た。
「先ほど、私が話しかけようとした時、気づいてくださったでしょう」
「ああ……はい」
「あそこでそのまま終わっても、場面は進みました。でも、私にも話す順番を作ってくださった」
そこは、審査だと思っていなかった。
言いかけたことがあるなら、聞いた方がいいと思っただけだ。
「一緒に話す側として、助かりました」
久我さんは、そう言ってメモを戻した。
榊さんが続ける。
「目立つ言葉を毎回言えなくてもいいの。一緒にいる人が話しやすくなるのは、配信でも大事だから」
僕は、膝の上へ目を落とした。
人と話すのが得意だとは、今も思えない。
でも、得意ではないところを、よく見てもらった気がした。
「もちろん、それだけで全部できるとは思っていません。歌も、配信の進め方も、練習は必要」
「ダンスも、ですよね」
「そうね。経験は?」
「ありません」
「では、そこも確認してから」
僕は、片隅のマイクのスタンドを見た。
床には、立てそうな場所があった。
「今日は、踊らなくて大丈夫ですよ」
久我さんが、先に言ってくれた。
足を椅子の下へ戻した。
*
「もし、所属したとして」
自分で口にしてから、少しだけ変な気分になった。
そんな仮定を置くところまでは、考えていなかった。
「僕は、どこに入ることになるんでしょうか」
「リプラインですね」
榊さんが答える。
「いえ、その。男性の方が活動するところは」
「うちには、まだありません」
なかった。
それは、知っていた。
知っていたからこそ、訊いたのだけれど。
「なので、画面の中では、うちの女の子として活動してもらう案になるわね」
僕は、壁のモニターを見た。
さっきまで、ほしなの曲名が出ていた場所。
あそこに、女の子の絵がある。
僕が話すと、その子が話す。
僕が驚けば、その子も驚く。
今のところ、ずっと困った顔をしていそうだった。
「……それで、いいんですか」
今度は、久我さんが答えた。
「演じるキャラクターと、ご本人のことは、分けて考えます。ただ、どういう姿や話し方なら続けられそうかは、ご相談させてください」
「今の声のままで、でしょうか」
「無理に作る必要はありません。ずっと続けるものですから」
女の子として話す練習が、すぐに始まるわけではないらしい。
少し安心しかけて、そもそもの規模を思い出した。
人前で、女の子として配信する。
さっきの宿屋の受付より、ずっと長い役だった。
「僕が男性だというのは、ほかの方にも?」
「契約や活動のために必要な担当には、確認してもらいます。全員へまとめて伝えることはしません」
久我さんが、書類を揃える。
「ほかのタレントの個人情報も、皆さんに配っているわけではありませんので。共演や対面で説明が必要になった時は、ご本人と相談して進めます」
「視聴者には?」
「素顔や本名と同じで、こちらから公表する話ではないわ」
榊さんが答えた。
僕は、小さく息を吐いた。
男性なのが珍しいから、それを看板にする。
そういう話ではないらしい。
それならそれで、誰にも言えないことが、一つ増える。
「あの。珍しいから、採ろうということでは」
「それを知る前に、合格と言ったでしょう?」
正しかった。
あの順番を、ここで証拠にされるとは思わなかった。
榊さんは少し笑ってから、姿勢を直した。
「白瀬さんに来てほしいと思った理由は、さっき話したとおり。ほかに考えなきゃいけないことが増えたのは、私たちの方」
久我さんが頷いた。
机の向こうで、二人がメモを交わす。
性別が違うと分かったら、それで話は終わると思っていた。
分かったあとの方が、具体的な相談になっていた。
*
榊さんが、社内で確認することがあると言って、少し席を外した。
扉が閉まる。
僕は、ようやく椅子の背へ身体を預けた。
久我さんが、新しい水を机へ置いてくれる。
「驚かせてしまいましたね」
「はい。いろいろと」
「社長は、話が早いので」
「僕が、ついていけていないだけかもしれませんけど」
「いえ。時々、こちらも先回りして待っています」
僕は、手元のファイルを見た。
さっき久我さんが、入所の案内を閉じたところを思い出す。
進めるだけの人では、ないらしい。
「今日は、お持ち帰りになって考えていただいて大丈夫です」
そう言われて、もう一度、息を吐けた。
「ありがとうございます」
水を飲んでいると、廊下の向こうで短く音楽が鳴った。
扉が開いたらしく、数を数える声が、少しだけ近くなる。
五、六、七、八。
靴が床を踏む音。
すぐに扉が閉まり、また静かになった。
「レッスンですか」
「はい。今日は別の部屋で、振り入れをしています」
ライブの画面では、見えない時間だった。
揃って見えた手の動きにも、こういう声と足音がある。
自分がそこに混ざるところは、まだ想像できなかった。
「僕、会社もあるので」
「書類に書いていただいた勤務時間は、普段もこのとおりですか?」
「だいたいは。残業になる日もあります」
「退職するご予定は?」
「ありません」
「では、続ける前提で考えましょう」
久我さんは、迷わずメモを直した。
できない理由のつもりで出した話が、予定を立てるための情報になっていく。
「兼業について、会社への確認は必要です。こちらから出せる活動内容の資料も用意しますね」
「そこまで、していただくんですか」
「やることが分からないままだと、ご判断もできませんから」
確かに、それはそうだった。
何も分からないうちに帰るよりは、話を聞いた方がいい。
その考えでここまで来ていることを、いったん忘れた。
*
榊さんが戻ってくる頃には、久我さんの画面に、一週間の表ができていた。
平日の昼間は、仕事。
移動と食事。
そこを除いた夜と、休日の一部。
まだ、仮のものだった。
でも、自分が空けられる時間を答えたので、妙に現実味があった。
「配信を始めるなら、最初は短めの枠から考えましょう。例えば、週に二回、一時間ずつ。準備や振り返りの時間も必要です」
「毎日、ではないんですね」
「慣れないうちに増やして、仕事と両方できなくなったら困りますから」
そう言いながら、久我さんは夜の欄を指した。
「この辺りでしたら、ご帰宅後に食事をしてからでも――」
僕は、その時間を見た。
九時。
そこへ置かれた、配信、の二文字。
それまで気づかなかった、大きな問題が見えた。
「すみません」
「はい」
「その時間、ほしなさんが配信していることが多いです」
久我さんの指が止まった。
榊さんが、ゆっくりとこちらを見る。
「……そうね」
「重なったら、見られないですよね」
「白瀬さんも、ご自分の配信中ですから」
分かっていた。
分かっていたのに、今まで、一緒に頭へ入っていなかった。
ゲームをしながら配信を見ることはある。
でも、自分も喋りながら、ほしなの話を聞くのは難しい。
そもそも、僕の配信を見ている人は、その間、何を聞けばいいのか。
「アーカイブで見ることにはなるわね」
榊さんが言った。
胸の中で、急に何かがしぼんだ。
面談に来てから、一番はっきり想像できた不都合だった。
「本人と一緒に配信する日なら、両方できるけど」
しぼんだものが、急に戻った。
「同じ通話に、入るんですか」
「コラボなら、そうなるでしょうね」
「それは……」
続きを、うまく言えなかった。
隣で久我さんが、静かに念を押す。
「その場合は、見ているだけですと困ります」
榊さんが吹き出した。
「コメントを打っていたら、呼び戻してあげて」
「声で返事をしていただきます」
ごもっともだった。
推しの配信をリアルタイムで見たくて相談した結果、僕の方へマイクが増えた。
榊さんは、笑いを収めてから首を横に振った。
「ただ、一緒に遊ぶ話と、所属のお誘いは別ね。この前、また対戦する約束はしているんでしょう?」
「はい」
「そちらは、結果に関係なく担当から連絡するそうです」
僕は頷いた。
あの約束がなくなる心配は、しなくてよかった。
久我さんが、一週間の表へ戻る。
「ほしなさんに限らず、どうしても見たいライブなどは、事前に予定を相談してください。毎回避けるのは難しいですが」
「……はい」
視聴予定まで、予定として聞いてもらえた。
そのせいで、自分の生活の中に配信の時間が入るところが、少しだけ見えてしまった。
「休日のレッスンも、最初から全部は入れません。ご自宅でできる練習と、こちらへ来ていただく日を分けて」
白かった休日の欄へ、文字が入る。
相談したことが、一つずつ、表になっていく。
気づけば、僕も画面を指していた。
「その週は、土曜日より日曜日の方が」
「日曜日ですね。分かりました」
久我さんが、枠を一つ動かした。
見学していたはずの予定表を、自分で直していた。
*
最終的に、今日の返事は保留になった。
そのことを、久我さんがはっきり確認してくれた。
手元には、活動についての説明と、今話した仮の予定。
契約の案は、改めて担当から送ってもらう。
会社への確認も、それを見てからだ。
順番に並べてもらうと、僕が今日ここで何かを決める必要はなかった。
「持ち帰って考えます」
「ええ。気になるところは、そのまま訊いてください」
榊さんが頷く。
今日、初めて、帰る方向へ話が進んだ。
僕は資料を揃え、透明なファイルへ入れた。
行きには、自分で書いた紙が数枚入っていただけだった。
帰りには、僕の知らなかった仕事の説明が増えている。
断るための準備より、始めるための資料の方が多くなった。
「あの」
立ち上がる前に、もう一つだけ訊いた。
「向いていなかったら、どうなりますか」
榊さんは、すぐには答えなかった。
少し考えてから、こちらを見る。
「何が難しいのか、まず一緒に見ます。全部を一人で何とかしろとは、言わない」
「……はい」
「ただ、練習してみることまでは、白瀬さんにお願いしたい。そこは、代わってあげられないから」
僕は、机の上のマイクを見た。
歌い出しを間違えたのは、僕だった。
次に同じ曲を歌うとしても、そこを直すのは僕だ。
何でも大丈夫と言われるより、その方が、少し分かりやすかった。
「考えてみます」
今度は、自分で言ったことが分かっていた。
でも、それ以上の返事は、まだできなかった。
榊さんは急かさず、席から立った。
「今日は、ありがとうございました」
「こちらこそ。お時間をいただいて」
頭を下げる。
久我さんに案内されて、部屋を出た。
*
帰りの電車で、先輩の言葉を思い出した。
その面談、うまくいくといいね。
お断りするために行くので。
あの時の僕は、帰りに考えることがなくなるつもりでいた。
膝の上に置いた鞄には、一週間の予定表が入っている。
月曜日、何と報告すればいいのだろう。
面談には受かりました。
辞退には失敗しました。
まだ、何も始めていません。
どこから話しても、先輩の手が止まりそうだった。
スマートフォンが震えた。
ほしなの配信通知。
今夜は、ゲームだった。
時間を確認する。
家へ戻って、食事を用意しても間に合う。
そこで、ようやく、いつもの予定に戻れた気がした。
*
『ちょっと待って。みんな、先に笑わないで』
配信を開くと、ほしなが何かを隠していた。
ゲームのタイトル画面の手前。
大きなウィンドウが一枚、重なっている。
〈見えてる〉
〈あと四十二分〉
〈先にやっとけw〉
『違うの。昨日、ちゃんと入れたんだって。これは、今日の更新』
ダウンロードの残り時間が、四十分になった。
『ほら! もう二分も縮んだ!』
四十三分に増えた。
ほしなが黙る。
僕も、口へ運びかけた箸を止めた。
『……この子も、みんなに見られると緊張するのかもしれない』
〈応援しよう〉
〈がんばれ回線〉
〈Wi-Fiに人見知り足すな〉
『ほしな、有線ですー!』
なぜか、そこだけ得意げだった。
僕は笑って、箸を置いた。
画面の端で、更新が少しずつ進んでいる。
『じゃ、始まるまでちょっと話そ。みんな、今日は何してた?』
〈仕事〉
〈寝てた〉
〈買い物行ってきた〉
『お仕事だった人、お疲れさま。土曜日も働いてくれる人がいるから、ほしなも買い物できるんだよね。ありがとうね』
ほしなはコメントを眺め、少し笑った。
『寝てた人は、今から一緒に起きてよ。ほしなのゲーム、まだ起きないから』
配信は、そのまま雑談になった。
僕は食事を再開する。
今、彼女が話している場所の外側を、今日は少しだけ見てきた。
廊下の足音。
閉じた扉の向こうから聞こえた、数を数える声。
どれも、画面には映っていない。
でも、それを知ったからといって、ほしなの配信が急に難しいものになるわけではなかった。
更新を待っているだけでも、相変わらず面白い。
榊さんたちは、僕にも、こういう時間が作れると思ったのだろうか。
少し考えてから、鞄へ手を伸ばした。
話を聞いている間、分からないところばかりだった。
読み直せば、訊きたいことくらいは、まとめられるかもしれない。
机の上へ、資料を広げる。
最初に、一週間の表が出てきた。
平日の昼間は、仕事。
休日には、相談と練習の候補。
その下に、久我さんが打ち込んだ一行があった。
〈配信日調整の希望:月乃ほしなのライブ等〉
口で言った時より、ずっと恥ずかしかった。
社長の前で話した、僕の譲れない条件が、きちんと資料になっている。
画面から、ほしなの笑い声がした。
僕は予定表を伏せた。
辞退するための面談で、推し活の時間を交渉して帰ってきた。
順番に説明してもらったはずなのに。
どこで、こうなったのだろう。
今日はもう1話更新しますので、引き続きお付き合いください。




