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推しに勝ったご褒美はオフレコで!? ~元FPS日本代表、男なのに女性限定VTuber事務所に採用されました~  作者: ぽんさん
【アーカイブ01】 画面の向こうへもう一度

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13/24

【配信13日目】 男です。設定じゃなくて、本当に男です 【白瀬直人/久我/榊】

「ありがとうございます」


 口が、勝手に動いた。


 褒められたら、まずお礼。


 会社で身についたものが、いま一番いらないところで働いた。


「では、今後のご案内を――」


「待ってください」


 久我さんが開きかけたファイルの前で、僕は両手を上げた。


「今のは、お礼です」


「はい」


「お返事では、なくて」


 説明が難しい。


 受かったことを喜ばれている横で、受かると困る理由を、もう一度探している。


 いや、探す必要はなかった。


 その理由は、机の上にある。


「先に、書類を見ていただけますか」


 今度は、最後まで言った。


 久我さんが頷く。


「失礼しました。そうでしたね」


 榊さんの横から、紙が引き寄せられた。


 裏返っていた書類が、ようやく表になる。


 僕は、膝の上で手を揃えた。


 久我さんは上から順に目を通し、途中で止まった。


 それから、机のペンを取る。


「こちら、性別の欄が男性になっていますので、訂正を――」


「訂正しなくて大丈夫です」


 ペン先が、紙の手前で止まった。


「……入力のお間違いでは?」


「合っています」


 久我さんが、僕を見る。


 困ったように、少しだけ眉を寄せた。


「こちらは、ご本人の情報をご記入いただく書類です。活動上の設定とは、別になりますので」


「はい。全部、僕のことを書きました」


 氏名も、年齢も、勤めている会社も。


 性別の欄だけ、急に創作が始まるわけではない。


 久我さんはペンを置き、もう一度、上から読んだ。


 今度は、指で一つずつ追っている。


「設定じゃない?」


 横から覗いていた榊さんが言った。


「違います」


「男の子のキャラクターで活動したい、ということでもなく?」


「その前に、僕が男なんです」


 榊さんが、僕の顔を見る。


 久我さんも、僕の顔を見る。


 二人とも、書類を見ていた時より、話が分からなくなった顔をした。


「……今のお声は、普段も?」


 久我さんが訊いた。


「はい。会社でも、この声です」


「ずっと?」


「ずっとです」


 榊さんが、卓上のマイクへ目をやった。


 次に、もう使っていない歌のマイクを見る。


 両方とも、そちらで用意したものだった。


 僕が何か仕込める余地は、なかったと思う。


「だって、さっき歌っていた時も」


「僕です」


「そうなんだけど」


 榊さんが、珍しく言葉に詰まった。


 久我さんはタブレットを手に取り、画面を何度か動かした。


「あの。面談のご案内への返信にも、書いていただいていましたか」


「はい」


 画面を動かす指が止まる。


 見つかったらしい。


「応募資格についてご相談したい、というのは……」


「男なので、対象外だと思って。その説明をして、お断りするつもりで来ました」


 久我さんは、タブレットを机へ置いた。


 榊さんは、まだ僕を見ていた。


「そのために、来たの?」


「はい」


「じゃあ、さっきの紹介は」


「頼まれたので」


「お芝居も?」


「やったら、書類を見てもらえると」


 榊さんの目が、手元の紙へ落ちた。


 僕は、もう一つ付け足した。


「歌も、そうです」


 空調の音が、急によく聞こえた。


 久我さんの前には、発表の時間を測ったタイマーがあった。


 榊さんの横には、さっきのお芝居の台本。


 二人とも、その辺りを一度ずつ見た。


 男性だと説明するために、一枚資料を作り、宿を営み、一曲歌っていた。


 改めて考えると、ずいぶん遠回りだった。


「……それは、私がお願いしましたね」


 榊さんが言った。


「はい」


 久我さんが、最初に取ったペンを元の位置へ戻した。


 訂正されかけていた男性の二文字は、そのまま残った。


「ご申告は、実際の性別ということで……承知しました」


 そこまで言ってから、久我さんはまた僕を見た。


 目が合うと、小さく息を整える。


 書類を読む時の顔と、僕を見る時の顔が、まだ少し違った。


 榊さんは頬へ手を当てたまま、ゆっくり頷いている。


「そう。……男性、なのね」


 僕も頷いた。


 これ以上の返事は、思いつかなかった。


「申し訳ありませんでした」


 先に頭を下げたのは、久我さんだった。


「何度もお伝えいただいていたのに、こちらの思い込みで」


「いえ。僕も、こういう声なので」


「それは――」


 久我さんは言いかけて、自分の手元を見た。


 さっきまで、間違いを直すつもりでいた紙だった。


「白瀬さんが謝ることでは、ありません」


 榊さんも、こちらへ向き直る。


「ごめんなさい。男の子の設定を押し通す、面白い子だと思っていたの」


 僕は、ただの男だった。


 押し通すまでもなく、最初から。


 伝わった。


 ようやく、話の出発点に戻れた。


 肩から力が抜ける。


 これで、今回の招待についても、事情を分かってもらえるはずだった。


「それなら、合格のお話は――」


「私は、取り消すつもりはないけれど」


 抜けた力が、戻ってきた。


 戻る場所を間違えたみたいに、肩だけが上がる。


「でも、女性限定ですよね」


「通常の募集はね」


 先を続けようとした榊さんへ、久我さんが顔を向けた。


「社長。白瀬さんには、通常の募集条件しかご案内していません。そこからご説明をお願いします」


 僕は、久我さんを見た。


 それから、榊さんを見る。


「……社長?」


「あ。まだ名刺をお渡ししてなかったわね」


 榊さんは、脇に置いていたケースを開いた。


 一枚の名刺が、こちらへ差し出される。


 PRISM NOTE。


 代表取締役 榊真帆。


 書類を読む順番が変わるだけで、今日はいろいろなことが分かる。


 僕は慌てて両手で受け取った。


「存じ上げず、失礼しました」


「そんなに固くならなくていいのよ」


「先に、教えていただければ」


「その方が、緊張しなかった?」


 考えた。


 たぶん、緊張した。


 でも、今から直前の三十分を思い返すのも、かなりつらかった。


 榊さんの上に相談する人がいるなら、そこへ話してもらおうと思っていた。


 もう、本人だった。


     *


 久我さんが、別のファイルを閉じた。


 用意されていた入所の案内は、いったん横へ置かれる。


「改めて、ご説明します」


 その言い方に、少しだけ安心した。


 少なくとも、さっきの続きをそのまま進めるわけではないらしい。


「大会でお渡ししたのは、最終審査へのご案内です。今日のお礼を、所属のお返事として扱うことはありません」


「はい」


「また、通常の応募資格に当てはまらないことも、確認できました」


 そこまで聞いて、僕は頷いた。


 久我さんの隣で、榊さんが続ける。


「そのうえで、私から、うちで活動してみないかとお誘いしたいの」


 話が、一周した。


 入口の看板を確認している間に、横の扉を開けられた気がした。


「……そういうことが、できるんですか」


「個別にお声がけする形ね。私が責任を持って進めます。契約や活動の条件は、担当と相談して」


「相談してから、です」


 久我さんが、短く添えた。


「うん。そこを今、一緒に考えているのよ」


 榊さんは、まったく悪びれなかった。


 久我さんも、驚かない。


 この二人には、普段からこういう順番があるらしかった。


「何か、不安なことは?」


「多いです」


 答えは、すぐに出た。


 榊さんが小さく笑う。


「じゃあ、一つずつ聞かせて」


 僕は名刺を見てから、顔を上げた。


「そもそも、どうして僕なんでしょうか」


 大会には勝った。


 それは、うれしかった。


 けれど、配信をしたことはない。


 さっきの歌だって、知っている曲だったから、最後までついていけただけだ。


「ゲームなら、もっと上手な人もいます」


「いるでしょうね」


 あっさり認められた。


「歌も、話すのも、上手な人はいる。だから、全部で一番の人を探していたら、なかなか決められないの」


 榊さんは、閉じたノートパソコンへ手を置いた。


「私は、白瀬さんが誰かと話している続きを、もう少し見たいと思った」


 褒められたらしいことは、分かった。


 どこを褒められたのかは、まだ分からなかった。


「僕、そんなに面白いことは」


「考えて言っていたわけではないでしょうね」


 また、認められた。


 採用の理由を聞いているのに、自分の得意なものが減っていく。


 久我さんが、手元のメモを少し見た。


「先ほど、私が話しかけようとした時、気づいてくださったでしょう」


「ああ……はい」


「あそこでそのまま終わっても、場面は進みました。でも、私にも話す順番を作ってくださった」


 そこは、審査だと思っていなかった。


 言いかけたことがあるなら、聞いた方がいいと思っただけだ。


「一緒に話す側として、助かりました」


 久我さんは、そう言ってメモを戻した。


 榊さんが続ける。


「目立つ言葉を毎回言えなくてもいいの。一緒にいる人が話しやすくなるのは、配信でも大事だから」


 僕は、膝の上へ目を落とした。


 人と話すのが得意だとは、今も思えない。


 でも、得意ではないところを、よく見てもらった気がした。


「もちろん、それだけで全部できるとは思っていません。歌も、配信の進め方も、練習は必要」


「ダンスも、ですよね」


「そうね。経験は?」


「ありません」


「では、そこも確認してから」


 僕は、片隅のマイクのスタンドを見た。


 床には、立てそうな場所があった。


「今日は、踊らなくて大丈夫ですよ」


 久我さんが、先に言ってくれた。


 足を椅子の下へ戻した。


     *


「もし、所属したとして」


 自分で口にしてから、少しだけ変な気分になった。


 そんな仮定を置くところまでは、考えていなかった。


「僕は、どこに入ることになるんでしょうか」


「リプラインですね」


 榊さんが答える。


「いえ、その。男性の方が活動するところは」


「うちには、まだありません」


 なかった。


 それは、知っていた。


 知っていたからこそ、訊いたのだけれど。


「なので、画面の中では、うちの女の子として活動してもらう案になるわね」


 僕は、壁のモニターを見た。


 さっきまで、ほしなの曲名が出ていた場所。


 あそこに、女の子の絵がある。


 僕が話すと、その子が話す。


 僕が驚けば、その子も驚く。


 今のところ、ずっと困った顔をしていそうだった。


「……それで、いいんですか」


 今度は、久我さんが答えた。


「演じるキャラクターと、ご本人のことは、分けて考えます。ただ、どういう姿や話し方なら続けられそうかは、ご相談させてください」


「今の声のままで、でしょうか」


「無理に作る必要はありません。ずっと続けるものですから」


 女の子として話す練習が、すぐに始まるわけではないらしい。


 少し安心しかけて、そもそもの規模を思い出した。


 人前で、女の子として配信する。


 さっきの宿屋の受付より、ずっと長い役だった。


「僕が男性だというのは、ほかの方にも?」


「契約や活動のために必要な担当には、確認してもらいます。全員へまとめて伝えることはしません」


 久我さんが、書類を揃える。


「ほかのタレントの個人情報も、皆さんに配っているわけではありませんので。共演や対面で説明が必要になった時は、ご本人と相談して進めます」


「視聴者には?」


「素顔や本名と同じで、こちらから公表する話ではないわ」


 榊さんが答えた。


 僕は、小さく息を吐いた。


 男性なのが珍しいから、それを看板にする。


 そういう話ではないらしい。


 それならそれで、誰にも言えないことが、一つ増える。


「あの。珍しいから、採ろうということでは」


「それを知る前に、合格と言ったでしょう?」


 正しかった。


 あの順番を、ここで証拠にされるとは思わなかった。


 榊さんは少し笑ってから、姿勢を直した。


「白瀬さんに来てほしいと思った理由は、さっき話したとおり。ほかに考えなきゃいけないことが増えたのは、私たちの方」


 久我さんが頷いた。


 机の向こうで、二人がメモを交わす。


 性別が違うと分かったら、それで話は終わると思っていた。


 分かったあとの方が、具体的な相談になっていた。


     *


 榊さんが、社内で確認することがあると言って、少し席を外した。


 扉が閉まる。


 僕は、ようやく椅子の背へ身体を預けた。


 久我さんが、新しい水を机へ置いてくれる。


「驚かせてしまいましたね」


「はい。いろいろと」


「社長は、話が早いので」


「僕が、ついていけていないだけかもしれませんけど」


「いえ。時々、こちらも先回りして待っています」


 僕は、手元のファイルを見た。


 さっき久我さんが、入所の案内を閉じたところを思い出す。


 進めるだけの人では、ないらしい。


「今日は、お持ち帰りになって考えていただいて大丈夫です」


 そう言われて、もう一度、息を吐けた。


「ありがとうございます」


 水を飲んでいると、廊下の向こうで短く音楽が鳴った。


 扉が開いたらしく、数を数える声が、少しだけ近くなる。


 五、六、七、八。


 靴が床を踏む音。


 すぐに扉が閉まり、また静かになった。


「レッスンですか」


「はい。今日は別の部屋で、振り入れをしています」


 ライブの画面では、見えない時間だった。


 揃って見えた手の動きにも、こういう声と足音がある。


 自分がそこに混ざるところは、まだ想像できなかった。


「僕、会社もあるので」


「書類に書いていただいた勤務時間は、普段もこのとおりですか?」


「だいたいは。残業になる日もあります」


「退職するご予定は?」


「ありません」


「では、続ける前提で考えましょう」


 久我さんは、迷わずメモを直した。


 できない理由のつもりで出した話が、予定を立てるための情報になっていく。


「兼業について、会社への確認は必要です。こちらから出せる活動内容の資料も用意しますね」


「そこまで、していただくんですか」


「やることが分からないままだと、ご判断もできませんから」


 確かに、それはそうだった。


 何も分からないうちに帰るよりは、話を聞いた方がいい。


 その考えでここまで来ていることを、いったん忘れた。


     *


 榊さんが戻ってくる頃には、久我さんの画面に、一週間の表ができていた。


 平日の昼間は、仕事。


 移動と食事。


 そこを除いた夜と、休日の一部。


 まだ、仮のものだった。


 でも、自分が空けられる時間を答えたので、妙に現実味があった。


「配信を始めるなら、最初は短めの枠から考えましょう。例えば、週に二回、一時間ずつ。準備や振り返りの時間も必要です」


「毎日、ではないんですね」


「慣れないうちに増やして、仕事と両方できなくなったら困りますから」


 そう言いながら、久我さんは夜の欄を指した。


「この辺りでしたら、ご帰宅後に食事をしてからでも――」


 僕は、その時間を見た。


 九時。


 そこへ置かれた、配信、の二文字。


 それまで気づかなかった、大きな問題が見えた。


「すみません」


「はい」


「その時間、ほしなさんが配信していることが多いです」


 久我さんの指が止まった。


 榊さんが、ゆっくりとこちらを見る。


「……そうね」


「重なったら、見られないですよね」


「白瀬さんも、ご自分の配信中ですから」


 分かっていた。


 分かっていたのに、今まで、一緒に頭へ入っていなかった。


 ゲームをしながら配信を見ることはある。


 でも、自分も喋りながら、ほしなの話を聞くのは難しい。


 そもそも、僕の配信を見ている人は、その間、何を聞けばいいのか。


「アーカイブで見ることにはなるわね」


 榊さんが言った。


 胸の中で、急に何かがしぼんだ。


 面談に来てから、一番はっきり想像できた不都合だった。


「本人と一緒に配信する日なら、両方できるけど」


 しぼんだものが、急に戻った。


「同じ通話に、入るんですか」


「コラボなら、そうなるでしょうね」


「それは……」


 続きを、うまく言えなかった。


 隣で久我さんが、静かに念を押す。


「その場合は、見ているだけですと困ります」


 榊さんが吹き出した。


「コメントを打っていたら、呼び戻してあげて」


「声で返事をしていただきます」


 ごもっともだった。


 推しの配信をリアルタイムで見たくて相談した結果、僕の方へマイクが増えた。


 榊さんは、笑いを収めてから首を横に振った。


「ただ、一緒に遊ぶ話と、所属のお誘いは別ね。この前、また対戦する約束はしているんでしょう?」


「はい」


「そちらは、結果に関係なく担当から連絡するそうです」


 僕は頷いた。


 あの約束がなくなる心配は、しなくてよかった。


 久我さんが、一週間の表へ戻る。


「ほしなさんに限らず、どうしても見たいライブなどは、事前に予定を相談してください。毎回避けるのは難しいですが」


「……はい」


 視聴予定まで、予定として聞いてもらえた。


 そのせいで、自分の生活の中に配信の時間が入るところが、少しだけ見えてしまった。


「休日のレッスンも、最初から全部は入れません。ご自宅でできる練習と、こちらへ来ていただく日を分けて」


 白かった休日の欄へ、文字が入る。


 相談したことが、一つずつ、表になっていく。


 気づけば、僕も画面を指していた。


「その週は、土曜日より日曜日の方が」


「日曜日ですね。分かりました」


 久我さんが、枠を一つ動かした。


 見学していたはずの予定表を、自分で直していた。


     *


 最終的に、今日の返事は保留になった。


 そのことを、久我さんがはっきり確認してくれた。


 手元には、活動についての説明と、今話した仮の予定。


 契約の案は、改めて担当から送ってもらう。


 会社への確認も、それを見てからだ。


 順番に並べてもらうと、僕が今日ここで何かを決める必要はなかった。


「持ち帰って考えます」


「ええ。気になるところは、そのまま訊いてください」


 榊さんが頷く。


 今日、初めて、帰る方向へ話が進んだ。


 僕は資料を揃え、透明なファイルへ入れた。


 行きには、自分で書いた紙が数枚入っていただけだった。


 帰りには、僕の知らなかった仕事の説明が増えている。


 断るための準備より、始めるための資料の方が多くなった。


「あの」


 立ち上がる前に、もう一つだけ訊いた。


「向いていなかったら、どうなりますか」


 榊さんは、すぐには答えなかった。


 少し考えてから、こちらを見る。


「何が難しいのか、まず一緒に見ます。全部を一人で何とかしろとは、言わない」


「……はい」


「ただ、練習してみることまでは、白瀬さんにお願いしたい。そこは、代わってあげられないから」


 僕は、机の上のマイクを見た。


 歌い出しを間違えたのは、僕だった。


 次に同じ曲を歌うとしても、そこを直すのは僕だ。


 何でも大丈夫と言われるより、その方が、少し分かりやすかった。


「考えてみます」


 今度は、自分で言ったことが分かっていた。


 でも、それ以上の返事は、まだできなかった。


 榊さんは急かさず、席から立った。


「今日は、ありがとうございました」


「こちらこそ。お時間をいただいて」


 頭を下げる。


 久我さんに案内されて、部屋を出た。


     *


 帰りの電車で、先輩の言葉を思い出した。


 その面談、うまくいくといいね。


 お断りするために行くので。


 あの時の僕は、帰りに考えることがなくなるつもりでいた。


 膝の上に置いた鞄には、一週間の予定表が入っている。


 月曜日、何と報告すればいいのだろう。


 面談には受かりました。


 辞退には失敗しました。


 まだ、何も始めていません。


 どこから話しても、先輩の手が止まりそうだった。


 スマートフォンが震えた。


 ほしなの配信通知。


 今夜は、ゲームだった。


 時間を確認する。


 家へ戻って、食事を用意しても間に合う。


 そこで、ようやく、いつもの予定に戻れた気がした。


     *


『ちょっと待って。みんな、先に笑わないで』


 配信を開くと、ほしなが何かを隠していた。


 ゲームのタイトル画面の手前。


 大きなウィンドウが一枚、重なっている。


〈見えてる〉

〈あと四十二分〉

〈先にやっとけw〉


『違うの。昨日、ちゃんと入れたんだって。これは、今日の更新』


 ダウンロードの残り時間が、四十分になった。


『ほら! もう二分も縮んだ!』


 四十三分に増えた。


 ほしなが黙る。


 僕も、口へ運びかけた箸を止めた。


『……この子も、みんなに見られると緊張するのかもしれない』


〈応援しよう〉

〈がんばれ回線〉

〈Wi-Fiに人見知り足すな〉


『ほしな、有線ですー!』


 なぜか、そこだけ得意げだった。


 僕は笑って、箸を置いた。


 画面の端で、更新が少しずつ進んでいる。


『じゃ、始まるまでちょっと話そ。みんな、今日は何してた?』


〈仕事〉

〈寝てた〉

〈買い物行ってきた〉


『お仕事だった人、お疲れさま。土曜日も働いてくれる人がいるから、ほしなも買い物できるんだよね。ありがとうね』


 ほしなはコメントを眺め、少し笑った。


『寝てた人は、今から一緒に起きてよ。ほしなのゲーム、まだ起きないから』


 配信は、そのまま雑談になった。


 僕は食事を再開する。


 今、彼女が話している場所の外側を、今日は少しだけ見てきた。


 廊下の足音。


 閉じた扉の向こうから聞こえた、数を数える声。


 どれも、画面には映っていない。


 でも、それを知ったからといって、ほしなの配信が急に難しいものになるわけではなかった。


 更新を待っているだけでも、相変わらず面白い。


 榊さんたちは、僕にも、こういう時間が作れると思ったのだろうか。


 少し考えてから、鞄へ手を伸ばした。


 話を聞いている間、分からないところばかりだった。


 読み直せば、訊きたいことくらいは、まとめられるかもしれない。


 机の上へ、資料を広げる。


 最初に、一週間の表が出てきた。


 平日の昼間は、仕事。


 休日には、相談と練習の候補。


 その下に、久我さんが打ち込んだ一行があった。


〈配信日調整の希望:月乃ほしなのライブ等〉


 口で言った時より、ずっと恥ずかしかった。


 社長の前で話した、僕の譲れない条件が、きちんと資料になっている。


 画面から、ほしなの笑い声がした。


 僕は予定表を伏せた。


 辞退するための面談で、推し活の時間を交渉して帰ってきた。


 順番に説明してもらったはずなのに。


 どこで、こうなったのだろう。


今日はもう1話更新しますので、引き続きお付き合いください。

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