【配信12日目】 面談って歌と寸劇もやるんですか? 【白瀬直人/久我/榊】
「先輩。ちょっと、報告があるんですけど」
月曜日の朝。
朝倉先輩が、マグカップを持ったままこちらを向いた。
「何。金曜に出した資料?」
「大会、優勝しました」
カップが、口の手前で止まった。
「……優勝?」
「はい」
「一位?」
「はい」
先輩はカップを机へ戻した。
慎重に置いてから、両手を合わせる。
「すごいじゃん!」
思ったより大きな声だった。
斜め向かいの席から、こちらへ視線が来る。
先輩は小さく頭を下げ、椅子ごと少し近づいた。
「待って。そういう話なら、最初に言って」
「最初に言いましたけど」
「報告って言われたら、何か間違えたのかと思うじゃん」
気持ちは分かった。
僕も仕事中にそう言われたら、まず保存したファイルを思い浮かべる。
「そっかあ。おめでとう」
今度は、いつもの大きさの声だった。
「あれでしょ。好きな人と、ゲームできるやつ」
「好きな配信者です」
「うん。その人とは?」
「話せました。ゲームも、一緒に」
口にしたら、土曜日の声が少し戻ってきた。
またね、ねむいさん。
思い出していると、先輩が笑った。
「よかったね」
「……はい」
「今朝、何かいいことあったのかなって思ったんだよね」
「そんなに、顔に出てました?」
「自分から、ちゃんとこっち見て挨拶したから」
返す言葉に、詰まった。
挨拶は、毎日しているつもりだった。
つもりだった、というところまでしか、思い出せなかった。
「あ、責めてるんじゃないよ」
先輩が片手を振った。
「最近、話してくれること増えたなって。それだけ」
僕は、机の端へ目を落とした。
仕事の報告ではなく、自分の話をするために、先輩を呼び止めた。
そんなことを、前はあまりしていなかったと思う。
「聞いてもらえるので」
先輩の手が止まる。
「……そりゃ、聞くよ」
それから、引き出しを開けた。
小さな包みを二つ取り出し、一つを僕の机へ置く。
「優勝祝い」
チョコレートだった。
「ありがとうございます」
「賞品の試合も、勝ったの?」
「いえ。二回、撃ち倒されました」
先輩の手が、チョコレートの上で止まった。
「……残念会?」
「大満足でした」
「二回、負けたんだよね?」
「でも、ほしなさんが僕を見て、僕を狙って撃ってくれたので」
先輩は、少しの間、僕を見ていた。
説明を足すほど、おかしな話になっている気がした。
「そういうのが、うれしいんだ?」
「はい」
「そっか」
もう一つ、チョコレートを置かれた。
先輩の分まで来てしまった。
「ひとまず、甘いもの食べよっか」
優勝祝いだったはずが、少し心配されて終わった。
僕も、パソコンを開く。
未読の連絡は、いつもと同じくらいあった。
二つ並んだチョコレートのうち、一つを先輩の机へ戻す。
「こっちは、先輩も食べてください」
「……じゃあ、一緒にお祝いしよ」
隣で、小さく包みを開く音がした。
*
午後、先輩から新しい手順書の確認を頼まれた。
部署で使っている申請の流れを、初めての人にも分かるようにまとめ直しているらしい。
「作った人が読むと、全部分かっちゃうんだよね。一回、何も知らないつもりでやってみてくれない?」
「分かりました」
最初のページを開く。
指定されたフォルダへ進んで、止まった。
「先輩」
「もう?」
「『申請書』が、三つあります」
「……あ」
横から、先輩が画面を覗く。
旧様式。現行様式。現行様式の、記入例。
仕事で使っている人間なら、どれを開けばいいか知っている。
僕も知っていたけれど、知らないことにして、カーソルを止めた。
「そうか。そこから書かなきゃだ」
先輩が、自分の資料へメモを入れる。
「ありがとう。これ、慣れると見えなくなるんだよね」
「ここ、画面の画像もつけますか?」
「いい? じゃあ、お願い」
そこから少しずつ、書き足した。
何を開くか。
どこへ入力するか。
終わったら、どこへ渡すか。
読んでいるだけの時よりも、実際に手を動かした方が、分からないところは見つけやすかった。
ひと通り確認が終わると、先輩が両腕を伸ばした。
「助かった。これなら、来月入る人にも渡せそう」
「よかったです」
「来月、使ってもらったあとに、もう一回直したいんだよね。その時も――」
言いかけて、先輩がこちらを見た。
「そういえば、今週末もゲームの予定?」
「今週は、面談が一つ」
「面談?」
先輩の視線が、僕の画面から顔へ移った。
「……転職するの?」
「しません」
そこは、すぐに答えられた。
「趣味の方で、少し説明しないといけないことがあって」
「あ、そうなんだ」
先輩は、持っていたペンのふたを閉めた。
「じゃあ、来月もこの確認、お願いしていいんだ」
「はい。もちろん」
「よかった」
小さく言ってから、資料を揃える。
「その面談、うまくいくといいね」
「どちらかというと、お断りするために行くので」
「……応援の仕方、難しいな」
僕も、そう思った。
*
事務所から届いた書類は、水曜日の夜に記入した。
氏名。年齢。連絡先。
普段の仕事と、連絡のつきやすい時間。
性別の欄には、男性と書いた。
返信にも書いたし、通話でも言った。
これで、三回目だった。
参加理由の欄だけは、少し迷った。
アイドルになりたい理由ではない。
僕が事務所へ行く理由なら、分かっている。
〈大会でご案内をいただきました。応募資格について、直接ご相談したいと考えています〉
読み直して、送った。
当日の持参用に印刷した一部は、透明なファイルへ入れる。
文字になっていれば、声の印象には引っ張られないはずだった。
土曜日は、きっと短い話で済む。
そう考えてから、いつもの配信ページを開いた。
ほしなは、歌枠の開始前だった。
まだ待機画面なのに、コメントは流れている。
僕も、いつものように一つだけ打った。
〈待機〉
その文字が、ほかの人の言葉に混ざって流れていく。
今日はまた、視聴者の一人だった。
それが、少し落ち着いた。
*
土曜日。
案内にあった、服装自由の四文字を見て、クローゼットを開いた。
仕事用のスーツ。
家でゲームをする時の服。
以上だった。
服はある。
その間にあるはずの、休日に人と会うための服が、ほとんどなかった。
スマートフォンで、面談に向いた服装を調べてみる。
清潔感。第一印象。相手に意欲を伝える着こなし。
どのページも、僕を受からせようとしていた。
勧められた上下の値段を足して、画面を閉じる。
辞退するための経費としては、高すぎた。
結局、仕事用のスーツにした。
ネクタイも締めた。
革靴も拭いた。
準備だけ見ると、何かを断りに行く人間とは思えなかった。
指定されたビルは、駅から少し歩いたところにあった。
ガラス張りの入口に、いくつかの会社名が並んでいる。
その中に、REPLINEの文字。
何度も見たロゴだった。
動画の最後や、ライブの告知で見ていたものが、ビルの案内板に貼ってある。
それだけで、歩く速さが変わった。
ここに、会社がある。
誰かが毎日出勤して、あの配信やライブの準備をしている。
分かっていたことが、入口の自動ドアをくぐると、急に具体的になった。
エレベーターを降り、受付で名前を伝える。
案内の画面には、大会参加名も載っていた。
「nemui様ですね。お待ちしておりました」
受付の女性が、笑顔で来客用のカードを渡してくれる。
「こちらをお付けになって、お掛けください」
「ありがとうございます」
椅子へ向かう途中で、壁のポスターが目に入った。
合同ライブのものだった。
月杜しおり。
月乃ほしな。
ほかにも、配信で見たことのある女の子たちが、大きく並んでいる。
衣装の細かい飾りまで見えた。
ほしなの片手は、隣のタレントへ向かって伸びている。
配信中に椅子を倒しかけていた人と、同じ人だった。
僕は、無意識に少し近づいた。
「お好きなんですか?」
後ろから声がして、背筋が伸びる。
振り返ると、落ち着いた色のジャケットを着た女性が立っていた。
片手にタブレット。もう片方には、薄い資料の束。
「はい。よく、見ています」
「よかった。来てくださった方が足を止めてくれると、うれしいので」
女性はポスターを見上げてから、こちらへ向き直った。
「本日の進行を担当します、久我です」
「よろしくお願いします」
「こちらへどうぞ。お部屋の準備ができています」
僕はファイルを持ち直し、彼女のあとを追った。
顔を合わせて、声も聞いてもらった。
でも、特に驚かれなかった。
すでに書類を見てもらえているのかもしれない。
それなら、話は早い。
*
案内されたのは、小さな打ち合わせ室だった。
壁にモニター。
テーブルの向こうには、ノートパソコンが二台。
椅子は三つ用意されていた。
片隅には、マイクのスタンドまである。
少しお話をするだけの部屋にしては、装備が整っていた。
「失礼します」
久我さんが扉を開ける。
先にいた女性が、こちらを見た。
暗い色の髪を、後ろで一つにまとめている。
腕まくりしたシャツに、細い腕時計。
受付で見かけた人よりも、ずっとくつろいだ格好だった。
「こんにちは。榊です。今日は私がお話を聞きます」
役職は、言わなかった。
ただ、隣へ腰を下ろした久我さんが彼女の言葉を待ってから手元を開くのを見て、こちらの人が面談をする側なのだと分かった。
僕も挨拶をして、勧められた席へ座った。
「あの。始める前に、応募資格のことで」
「うん。相談したいことがあるって、聞いてる」
榊さんはパソコンを少し脇へ寄せた。
顔を、まっすぐ向けてくれる。
僕はファイルから書類を出した。
「僕は、男です」
今度は、対面だった。
顔も、服装も、ちゃんと見えている。
榊さんの視線が、僕の顔からネクタイへ下りる。
それから、口元が緩んだ。
「それで、そんなにきっちり締めてきたの?」
「いえ、これは仕事でも使っているので」
「似合ってる。そういう格好、好きよ」
「ありがとうございます。ではなくて」
危うく、お礼で終わるところだった。
「性別の話です。書類にも、男性と書いています」
該当する欄へ、指を置いた。
榊さんは、書類よりも僕の顔を見ていた。
「ふふ。分かった。その設定の話は、あとで聞かせて」
分かっていなかった。
僕は、紙をもう少し前へ出した。
榊さんはそれを受け取り、パソコンの横へ置く。
裏返しに。
男性と書いた文字が、テーブルに向いた。
「せっかく来てもらったから、まずはお話を聞きたいの。書類の確認は、そのあとにしましょう」
紙に書けば、伝わる。
そこまでは、間違っていなかったと思う。
読んでもらえない場合については、考えていなかった。
久我さんへ目をやると、小さく頷かれた。
「緊張なさらなくて大丈夫ですよ。普段どおりで」
普段どおりの男性が、二人から女の子として励まされている。
通話の時より情報は増えたはずなのに、結果が変わらなかった。
*
「大会の映像、見ました」
榊さんが、モニターへ視線を向ける。
画面には、あのポンプ小屋が映っていた。
白髭のキャラクターが、壁の陰へ引いている。
「強かったね」
「ありがとうございます」
「ゲームの実力は、あれで分かった。だから今日は、別のところを見せてほしいの」
映像が止まった。
代わりに、何も書かれていない白い画面が映る。
「会社では、資料を作ることもある?」
「はい。簡単なものですけど」
「それなら、好きなものを一つ、一枚のスライドにまとめてもらえるかな」
僕は、モニターから目を戻した。
「仕事みたいな感じで、ですか」
「作り方は、お任せ。見た人が、ちょっと気になるなと思える紹介にしてほしい」
久我さんが、ノートパソコンをこちらへ向ける。
見慣れた、スライド作成の画面だった。
指を置く場所が分かるだけで、少し安心した。
「ゲームをもう一回やるんじゃ、ないんですね」
「ええ。準備して伝える時と、誰かに話しかけられた時、それから歌う時。それぞれ、どんな声になるのか聞いてみたいの」
安心が、途中で止まった。
「最後、何ですか?」
「歌」
「資料作成から、急に離れましたね」
「同じ部屋でできるから」
近いのは、実施場所だけだった。
久我さんが、予定を補足する。
「紹介の準備が八分、発表が一分。そのあと短い掛け合いと、歌を一コーラスほど。休憩も含めて、三十分程度です」
「全部、初めての方にお願いしているものです。上手に演じようとしなくていいですよ」
上手にできる心配は、していなかった。
「あの。終わったら、書類の方も確認していただけますか」
「もちろん」
榊さんは、裏返した紙へ手を置いた。
「見せてもらったら、こちらからのお返事もするわ」
僕は、手元のキーボードを見る。
資料を一枚作る。
少し話す。
知っている歌を、少しだけ歌う。
説明されると、どれも断るほど大きなことには聞こえなかった。
「……できる範囲で、なら」
「それで十分」
榊さんが笑った。
久我さんが卓上のマイクを調整する。
「画面と音声は、審査用に記録します。外部への配信や公開はしません」
「はい」
審査用。
その単語だけが、僕のつもりより先に進んでいた。
*
「好きなものは、本当に何でもいいんですか」
「食べ物でも、趣味でも。お仕事で使っている資料や、お客様の情報は出さないでくださいね」
「はい」
そこは大丈夫だった。
会社のデータを持ってきているわけでもない。
僕は、空白のスライドへ文字を打った。
〈月乃ほしなの配信について〉
後ろで、榊さんが少し笑った気配がした。
「迷わないね」
「ほかの題材の方がいいですか?」
「ううん。続けて」
なら、これにする。
ゲームがうまい。
喋っていると面白い。
歌も好きだ。
思いついた順に書き、関連するものをまとめる。
箇条書きは、すぐに増えた。
全体を見渡して、文字を少し小さくする。
それでも入らない。
隣に二列目を作りかけたところで、手を止めた。
月曜日、先輩と見直した手順書を思い出す。
自分が分かっていることを全部書くのと、初めての人に伝わることは、少し違った。
これは、僕の視聴記録ではない。
一度も見たことのない人が、見てみようと思える一枚。
今書いた中から、残すものを選んだ。
武器の名前は消す。
細かいゲームの説明も消す。
配信を見ていた時間の長さは、紹介する理由にならないので消した。
最後に、題名を打ち直す。
〈ゲームが分からなくても、笑い声は分かる。〉
その下に、大きめの字で三つだけ並べた。
〈すごいところ〉
〈うまくいかないところ〉
〈どちらも、楽しそうなところ〉
下の端に、月乃ほしなの名前と、ゲーム・雑談・歌という配信の種類を添える。
図形を揃え、余白を直す。
スマートフォンくらいの大きさでも読めるか、画面を縮めて確かめた。
普段、僕が配信を見る時の大きさだった。
「できました」
「では、こちらへ映しますね」
久我さんが操作すると、壁のモニターへ同じ一枚が出た。
自分の書いた文章が、急に大きくなる。
それだけで、また恥ずかしくなった。
「紹介は一分。どうぞ」
僕は、椅子の上で姿勢を正した。
「ええと。本日は、月乃ほしなさんの配信について、ご紹介します」
会社の声だった。
榊さんが口元へ手を当てた。
「何か、契約できそう」
「無料で見られます」
「返事が早い」
久我さんが笑いをこらえたまま、タイマーを指した。
進んでいる。
僕は慌てて画面へ向き直った。
「ゲームが得意な方なので、上手なプレイを見るのが好きなら、もちろん楽しいです。でも、そのゲームを知らなくても――」
そこで、一度止まる。
書いてある言葉を順番に読み上げるだけでは、同じ画面を見てもらっている意味がなかった。
僕は、榊さんたちを見た。
「僕も、初めて見るゲームの時は、何がすごいのか分からないことがあります」
二人が、こちらを見ている。
「でも、本人がすごく喜んでるのは分かります。失敗して、今のなしって言ってるのも」
榊さんが、短く笑った。
「分かる」
「なので、ルールが分からなくても、とりあえず一緒に笑えます。仕事で疲れて帰った時に、最初から何かを覚えなくていいのが、僕は好きです」
いつも、配信を開く時のことを思い出した。
食事を用意している間も、声は聞こえる。
画面を見ていない時間があっても、笑い声につられて、つい振り返る。
「しかも、ちゃんと格好いいところもあるので。さっきまで何してたんだろうってくらい急に強くて、そのあとまた――」
久我さんの手が上がった。
一分だった。
まだ、歌の話をしていない。
「あの、最後に一つだけ」
「もう一分使いますか?」
「……歌も、好きです」
それだけ言って、口を閉じた。
榊さんが笑った。
「最後だけ、急に感想になったね」
「時間が、足りなくて」
「最初の契約のお話を削れば、もう少し入ったかもしれません」
久我さんの指摘は正しかった。
本日は、の辺りから、いらなかったと思う。
榊さんは、もう一度スライドを見た。
「一枚で何を伝えたいかは、分かった。話し始めると、それ以上に言いたくなっちゃうんだね」
「すみません」
「謝らなくていいの。ただ、全部を一度に言わなくても、続きはまた話せるから」
僕は頷いた。
仕事の資料なら、説明は短い方がいいと思っている。
自分の好きなものになると、それが急に難しかった。
「ところで」
榊さんが、画面の下を指した。
「あなたの名前が、どこにもない」
見直した。
月乃ほしな。
ゲーム、雑談、歌。
紹介したい人の情報しか、入れていなかった。
「自分の紹介も、必要でしたか?」
「必要というか。うちのオーディションに来て、うちのタレントだけ宣伝して帰ろうとする人は、珍しいなと思って」
帰ろうとしているところまでは、合っていた。
*
次に渡されたのは、一枚の紙だった。
上に、小さく『宿屋の受付』と書いてある。
短い台詞が三つ。
その下には、場面の説明。
「今度は、三人でちょっとしたお芝居をしてみましょう」
榊さんが、自分の紙を持ち上げた。
「白瀬さんは、宿屋の受付。私たちが、お客さんです」
「演技は、本当にやったことがないんですけど」
「大丈夫。最初の台詞のあと、こちらから話しかけるので、返してみてください」
久我さんが、僕の前へマイクを少し寄せる。
「声を無理に変える必要はありません。今のお声でどうぞ」
僕は台本を見た。
〈少し困った様子で〉
〈申し訳ございません。本日、お部屋は一つしか空いておりません〉
その下に、続けて説明がある。
客は二人。
互いに面識はない。
どちらも、今夜中に泊まりたい。
この時点で、受付に向いていない日に当たっていた。
「では、お客様がいらっしゃいました」
久我さんが言う。
僕は息を吸った。
「少し困った様子で。申し訳ございません、本日、お部屋は――」
「白瀬さん」
「はい」
「困った様子では、読まなくて大丈夫です」
止まった。
向かいで、榊さんの肩が揺れている。
「……すみません」
「いえ、今ので、困っている感じはとても出ました」
久我さんが言った。
それは、演技ではなかった。
僕は説明書きの部分を親指で隠し、もう一度顔を上げた。
「申し訳ございません。本日、お部屋は一つしか空いておりません」
今度は、余計なところまで読まなかった。
榊さんが、大きく頷く。
「それでいいわ。私、一人だから」
声が、さっきより少し尊大になっていた。
「名は、魔王」
僕は台本を見た。
魔王とは、どこにも書いていない。
「え」
「魔王」
二度名乗られても、予約台帳には増えなかった。
「……魔王様、でよろしいですか」
「ええ」
受け付けてしまった。
すると、久我さんが真顔で手を上げた。
「勇者です。魔王がこちらへ来ると聞いて」
今度は、紙を見る余裕もなかった。
客が二人、という説明に、不足がありすぎた。
「勇者が来るなんて聞いてないわ」
「私も、魔王が宿を予約するとは思っていませんでした」
「眠るわよ、魔王も」
榊さんが、机へ肘をついた。
久我さんは、姿勢を崩さない。
「本日中に討伐する予定ですので」
「今日はもう働かない」
「こちらも明日まで持ち越したくありません」
二人とも、疲れた社会人みたいなことを言っていた。
僕は、台本の最後の一行を確かめる。
〈二人と話し合い、場面を終えてください〉
責任が、大きすぎた。
「受付。どちらを泊めるの?」
榊さんが訊いた。
「世界の半分をあげてもいいわ」
報酬が跳ね上がった。
久我さんも、何か言いかける。
けれど、榊さんの話が先に続いた。
「海側と山側なら、どちらが――」
「すみません。少しだけ」
僕は、久我さんの方へ顔を向けた。
「勇者様、今、何かおっしゃいかけました?」
久我さんが、一度だけ瞬きをした。
「……こちらは、通常の宿泊料金をお支払いできます」
僕は頷いた。
「ありがとうございます。すごく、助かります」
榊さんが吹き出した。
「世界の半分より?」
「そちらは、どうやって受領すればいいか分からなくて」
領収書の書き方も、分からない。
魔王が笑っている間に、僕は二人の話を並べ直した。
「今夜のお部屋は、お二人で使えるお部屋なんですか」
これは、久我さんへの確認だった。
彼女は少し考えてから、頷いた。
「はい。ベッドは二つあります」
「では、お二人とも、まず休みませんか」
「私は魔王を倒しに来たんですが」
「でも、早く済ませたいのは、休みたいからですよね?」
勇者が黙った。
「魔王様も、今夜は眠りたいと」
「それは、そう」
僕は、少しだけ声を落とした。
「でしたら、今夜だけは、どちらもお客様ということで。戦うのは、明日の朝からにしていただけると」
さっきまで早かった会話が、一度止まった。
榊さんが、頬杖をついたままこちらを見る。
「寝てる間に、斬られない?」
「館内での戦闘は、ご遠慮いただいています」
僕は、久我さんを見た。
久我さんも、こちらを見る。
それから、勇者として小さく頷いた。
「……規則なら、仕方ありません」
意外と素直だった。
僕は、少し安心して続けた。
「ありがとうございます。では、こちらにご宿泊のお名前を」
「魔王」
「勇者」
知っている。
でも、受付を最後までやるには、そこも聞かなければいけない気がした。
「お支払いは?」
榊さんが訊いた。
「明日の勝負に勝った方、でもいい?」
「前払いで、お願いします」
返事だけは、迷わなかった。
魔王と勇者が、同時に笑った。
*
「はい。ここまで」
久我さんが、紙を伏せた。
僕も、すぐに台本を机へ戻す。
「これで、よかったんですか」
「少なくとも、宿は壊れなかったね」
榊さんは、まだ少し笑っていた。
「最初、ずっと紙を見てたのに。途中からこっちを見るようになった」
「台本に、何も書いてなかったので」
「途中でこちらに話を振っていただけて、助かりました」
久我さんが言った。
「何か、お話しされそうだったので」
言いかけて、やめる。
僕も、よくそうなる。
一度逃すと、そのまま聞いているだけになることも多かった。
だから、少し気になった。
僕は、水を飲んだ。
マイクの前に座っていただけなのに、喉が渇いている。
うまく演じられた実感はない。
最初の一言は、台本を読むことだけで精いっぱいだった。
ただ、二人が本当に困ったお客さんみたいに話すので、途中から、どう返せば話が終わるのかを考えていた。
その返事に笑ってもらえると、次の言葉は少し出しやすくなった。
「お水、もう少し飲んでおいてください。次は、歌です」
久我さんが言った。
僕は、コップを持ったまま固まった。
魔王を泊めたくらいでは、帰れなかった。
*
選曲の画面には、リプラインのタレントたちの曲が並んでいた。
名前を見ただけで、前奏を思い出せるものがある。
月乃ほしな。
オリジナル曲、『きみ待ちステップ』。
明るい曲だった。
配信でも、ライブでも聴いた。
仕事帰りに、イヤホンで何度も流した。
「あ。それなら、知ってます」
「じゃあ、これにしましょうか」
久我さんが曲を選ぶ。
「一コーラスだけ。難しければ、途中で止めても大丈夫です」
「あの、知ってるのと、歌えるのは別で」
「うん。まずは、知ってる曲の方がいいでしょう」
榊さんの言うことは、正しかった。
ただ、その正しさに頷いていると、準備がどんどん進んでいく。
卓上のものとは別の、手で持つマイクを渡された。
スピーカーから、短い音が鳴る。
僕は、いつも聴く時より小さく聞こえる伴奏へ耳を澄ませた。
「歌声は入っていないんですね」
「はい。白瀬さんのお声を聞かせていただきたいので」
当然だった。
分かっていた。
それでも、あの声が一緒に歌ってくれるつもりでいたことに、今さら気づいた。
歌詞は、モニターに出ている。
音の高さは知っている。
どこで入るかも、知っている。
僕はマイクを握り直した。
「このくらいの距離で、いいですか」
「大丈夫です。楽に持ってください」
久我さんが、自分の口元に手を添えて、距離を示す。
僕も、それに合わせた。
前奏が始まる。
いつもなら、ここでペンライトを振っている人たちの映像が浮かぶ。
画面のほしなが跳ねて、客席へ手を振る。
今日は、その代わりに、目の前の二人が静かに待っていた。
歌い出しが来た。
僕は、息を吸った。
最初の一音は、小さかった。
それでも、マイクが拾った声が、部屋のスピーカーから返ってくる。
自分の声だった。
ほしなの声ではなかった。
その違いに少し驚いて、次の言葉の入りが遅れる。
でも、曲は知っている。
慌てて追いかけ、次の小節から戻した。
高いところも、思っていたほど届かなくはなかった。
家で小さく口ずさんでいた時より、ずっと声が出る。
ただ、長く伸ばす音の終わりが、少し揺れた。
息を吸う場所を忘れて、次の一言が短くなる。
うまく歌うのは、やっぱり難しかった。
それでも、サビが近づくと、身体の方が先に拍子を取った。
ここが、好きだった。
少しだけ静かになった伴奏が、もう一度広がるところ。
ほしなが、ぱっと明るい顔をするところ。
思い出していると、さっきまで力の入っていた喉が、少し楽になった。
声を張る。
モニターの歌詞を、一つずつ追う。
榊さんが、机から手を離した。
久我さんも、画面ではなくこちらを見ていた。
何か、おかしかっただろうか。
そう考えかけて、やめる。
途中で気にすると、また入りを間違えそうだった。
サビの半ばで、歌が一度途切れる。
短く、楽器だけが鳴る。
ライブで、客席が声を入れる場所だった。
身体が、知っていた。
「ほ・し・な!」
いつもどおりに、呼んだ。
呼んでから、今いる場所を思い出した。
榊さんが、口を押さえる。
久我さんが、少し下を向いた。
伴奏は、律儀に次の小節へ進んでいく。
次は、歌うところ。
僕の、歌うところ。
慌ててマイクを持ち直し、半拍遅れで戻った。
最後の伸ばす音が、笑いをこらえたせいで揺れる。
それでも、何とか最後まで歌った。
音が、止まった。
誰も、すぐには喋らなかった。
僕はマイクを両手で持ち、膝の上へ下ろした。
「……すみません」
榊さんが、やっと顔を上げる。
「途中まで、こっちが少し黙っちゃうくらい、いい声だったのに」
「はい」
「急に客席へ帰るんだもん」
僕も、もうこらえられなかった。
肩を落として笑う。
「いつも、あそこで言うので」
「そういう参加の仕方までは、お願いしていませんでしたね」
久我さんの声も、少し笑っていた。
格好よく歌い終えるところまで、よく知っているつもりだった。
知っていたのは、応援する側の仕事までだった。
*
マイクを戻し、水を飲んだ。
紹介をして、魔王と勇者を泊めて、ほしなの名前を叫んだ。
振り返ると、面談として正しかった場面が少ない。
でも、最初に座った時ほどは、緊張していなかった。
榊さんが、歌の録音を短く聞き直す。
自分の声が流れたので、僕は少しだけ肩を縮めた。
「歌、習ったことは?」
「ないです」
「普段、カラオケには?」
「あまり。最近は、全然」
「でしょうね。息が続かなくなるところと、音の外れ方は、慣れていない感じだった」
はっきり言われて、少し安心した。
そこを、上手だと言われる方が困る。
「でも、サビは声が変わったね」
「変でしたか?」
「ううん。好きなんだなって、聞こえた」
僕は、モニターの曲名を見た。
「そこが、一番好きなので」
「それは、分かった」
榊さんが頷く。
「物まねしようとは、しなかった?」
「そんな余裕は、なかったです」
「それでよかったと思う。言葉が聞き取りやすいし、無理に張っていないところの声がいい。歌い方は、これから覚えることがあるけど」
これから。
僕は、その部分だけ、聞かなかったことにした。
久我さんが、録音を止める。
「本日の確認は、以上です。お疲れさまでした」
終わった。
ようやく、そう思えた。
僕は背筋を伸ばし、机の横にある書類を見た。
「ありがとうございました。では、最初にお伝えした件を――」
「その前に、こちらからのお返事をしてもいい?」
榊さんが、こちらを向いた。
さっきまでと同じ、気負わない声だった。
「白瀬さん。合格です」
僕は、口を開けたまま止まった。
書類は、まだ裏返っている。
僕が何を言いに来たのかを確認するより先に、事務所からの返事が決まってしまった。




